The Deprived (8)





「……イザーク……」
 相手の唇からこぼれる自分の名が甘美な響きで耳をくすぐる。
 ふっ……と熱い吐息が洩れる。
(なぜ、こんな風に俺を呼ぶ?)
 さざめく欲情の波の間に溺れそうになりながらも、僅かな反抗心が彼をかろうじて、現実に押しとどめる。
 ――貴様は、俺の何なんだ?
 こんな風に俺の名を呼ぶ権利が、貴様にあるのか……。
 しかしそんな微かな憤りに似た思いも、押し寄せる快楽と苦痛の潮の中にいつしか沈下していった。
 異物が狭い隙間から無理矢理入り込み、体の奥へと侵入してくるその感覚は既にそれまで幾度も経験したものではあったが、それでもやはり内壁を擦り上げられる独特のその痛みは声を上げずにはいられないほど、強烈で。
「……う……っ……あああ……っ……!」
 耐えようとしたが、無理だった。
(優しくするようなふりをして……)
 恨み言の一つも言いたくなるような、荒々しいその挿入にイザークはきつく目の前の相手を睨みつけた。
 そうしながらも、生理的な痛みから込み上がってくる涙が目尻に溜まり、今にも溢れんばかりになっているのがわかる。それがまた彼にとっては更なる恥辱だった。
 ハイネはそんなイザークの表情を見て、僅かに戸惑いを見せた。
「痛いか……そんなに」
 どうも興奮して、はやりすぎたようだ。
 こんなに痛がらせてしまうとは。
 彼は苦笑した。
(ほんと、自分勝手だ。俺……)
 自分の中を吹き荒れる雄の本能に駆られるがまま、ただ夢中で突っ走ってしまった。
 彼は突き入れた己の肉塊を、ゆっくりと外へ出した。
 今度は少しペースを緩めて、中へ入れる。
 同時に、相手のものを弄る指先の動きを早めた。少しでも快感を与え、苦痛を和らげてやるために。
「……は……あっ…………」
 途端にイザークの体は敏感に反応した。
 腰から全身に広がっていく、痺れるようなその疼きが、さながら彼の心に麻薬を注入したかのようだった。
 苦痛に涙を滲ませていた瞳の中に、少しずつ変化が現れ始める。
 その中に見える恍惚とした光の閃きが、ハイネを力づけた。
 相手の中の快楽を引き出しているという確信。
「大丈夫だな。もう……」
 囁く声に、愛しさが溢れる。
 とろんとした表情。しがみつく指先。その縋るような青い双眸に、己自身も完全に捉えられた――と思った。
 ――可愛い。
 こんなに可愛く思える相手と出会ったのは、もしかするとこれが初めてかもしれない。
 『いい』女とは、幾度か褥を共にした経験はあったが、心から『可愛い』と思えるような女……というのは――
(……そういや、そんなのはいなかったよなあ)
 ふと笑いが込み上げてきそうになった。
 どういうわけか、自分の相手になる女はいつも年上で、しかもどいつもこいつも偉そうな奴ばっかで。
 まあ、偉そうといえば、こいつも偉そうなんだけど……。
 それでもこうして潤む瞳を前にすると、自然に目元が柔らぐ。
 可愛い『女』より先に、可愛い『男』に出会っちまうなんて……やっぱ、俺、ヘンかもな。
 しかも、男なんだけど、何ていうか……やっぱ、『男』 じゃなくて……。
 かといって、やっぱ、『女』というわけでもないしな。
 ああっ……くそっ……!
 もどかしくて、気がどうにかなりそうだった。
 一体どう表現すればいいのか。自分の中の、イザークに対するこの気持ちを。
 こんなのは……本当に、初めてだ。
 そんな風に思っている間にも、ますます高まっていく己自身の熱い欲望の火種を、彼はついに相手の狭い穴の中に一気に突き入れた。
「……………………!」
 息を飲み、身を反らそうとするその体をぎゅっと強く引き寄せる。
 体が、撓んだ。
「……あ……くっ……」
 やめて……と言いたいのに、体は全く別の反応をする。
 イザークの内部に、ハイネのものが完全に埋まった。
 熱い。
 全身の血流がどくどくと激しく、熱く脈打つ。
 ハイネがそれをゆっくりと、そして次第に激しく動かし始めると、悲鳴とも悦びともつかぬ淫らな喘ぎ声が唇から洩れ出ていくのを、もはや止めることもできなくなっていた。
 イザークの内部を、ハイネの熱い先端がどんどん刺激を与えながら、遠慮なく掻き回していく。
 いったん火のついた体はどうしようもなく乱れていくばかりだった。
 強く感じた一瞬を微妙に感知すると、ハイネはそこを執拗に攻め立て、さらに激しく情熱の限りを込めて突き上げた。
 その激しい愛撫の嵐を受けながら、何も考えられなくなった頭の中を真っ白な閃光が弾ける。
「……あ……っ……!」
 今にも、何かが爆発しそうなその瞬間。
「……ハ……イネ……ッ……」
 爪が食い込むほど強く自分の背にしがみつくその両手の感触を感じながら、彼はそのとき初めて自分の名が呼ばれたということに気付いた。
 
 
「……なあ」
 目を閉じたまま、すぐ傍らで静かな呼吸を繰り返すイザークの体に手を置きながら、ハイネはそっと囁きかけた。
 返事が返ってこないので、むくっと起き上がると相手の顔を覗き込む。
 汗ばんだ頬に貼りつく銀糸の細い髪の筋を一本一本払い落とし、くちづけた。
 イザークの瞳が不意に開き、ハイネの瞳とまともにぶつかった。
 そのとき――
 相手の青い瞳の中に、今までに見たことのない不思議な表情が宿るのがわかった。
 ハイネは一瞬、戸惑った。
 間近で見ると、その輝くような瞳の青が、一層青さを増し、あまりに眩くて目を向けていられぬほどだった。
(………………?)
 彼のこんなに綺麗な表情を見たのは、初めてだった。
 こんなにも美しく、純粋な喜びの色が映っているのを見るのは……。
 それが自分に向けられたものであるならば。
 その瞬間、錯覚した。
(イザーク……?)
 しかし――
「……アスラン……」
 唇から零れ落ちたその名は、自分ではなかった。
 忽ち――微笑が凍りついた。
 冷たい指で背を撫でられたようだった。
 胸の中に広がる苦い失望と嫉妬めいた感情。
(……アスラン……)
 アスラン・ザラ……か。
 吐息が洩れる。
 瞳を閉じた。
 相手が軽く息を飲む音が聞こえた気がした。
「残念だったな。アスランは、ここにはいない」
 皮肉めいた言葉が口を突いて出た。
「……俺は、アスランじゃない」
 ハイネだ。
 ……確かにさっき、おまえは俺の名を呼んでくれた。
(……ハイネ……)
 甘く、耳元をくすぐるような、あの心地よさに溢れた声で。
 おまえは確かに俺の名を、呼んだ――はずなのに。
 一気に周囲の景色がくすみを帯び、色を失っていく。
「……俺は……」
 恨みがましい視線を向けるのも、何だか妙に自分が惨めになるように思えて……。
 彼は続く言葉を呑み込むと、つと相手から目をそむけた。
「……同じ――色だ」
 イザークが小さく呟くのが聞こえた。
 その一言に、視界の端で訝し気に彼を見る。
「……瞳(め)が……」
 ぼんやりとした目線を俯けながら、イザークは続けた。
「……気付かなかった。今まで……」
 茫然と、ハイネは瞬いた。
 ようやく、彼の言っている意味がわかった。
 ――ああ。
 ――そう……なのか?
 俺の瞳。この、緑の色が……。
 おまえの好きな奴と同じだというのか。
 アスラン・ザラと……。
 そう思った瞬間、妬ましさが胸をちりちりと焼き焦がしていった。
 再びイザークに向けた視線は自分でも驚くほど厳しかった。
 ――ふざけるな。
 それが稚拙な感情であるとは思いながらも、胸中を渦巻く理不尽な怒りをどうしても抑えきれなかった。
 彼はイザークの顎を掴んだ。相手が眉をしかめるほど、強く上向かせる。
「……呼べよ」
 突然ぎらぎらと燃えるそんなにも強い眼差しを受けて、イザークは露わに困惑の表情を見せた。
「……………?」
 ハイネの唇が距離を狭めた。
 イザークの頬に熱い息がかかる。
「……俺の名を呼んでみろ」
 もう一度。
 さっきのように――
「……忘れたのか」
 瞳がきつく、イザークを射抜く。その唇がふと緩んだ。
「――なら、もう一度、思い出してみるか?」
 挑むような、どこか自虐めいたその囁きは、イザークの心を震撼させた。
 何だかそれまでのハイネとは違うように見える。
 漠然とした恐怖が募った。
 しかし、彼は気丈にもそんな心の動揺を表に出さぬよう、唇を固く引き結んだ。
「……嫌……だ」
 彼は相手を睨みつけながら、ただ一言そう言った。
 僅かに震えを帯びたその声が自分の弱気を晒していないか不安に思いながら。
 至近距離で、瞳と瞳が激しくぶつかった。
 戒められた両手がもがくように空を掴む。
 ――名を呼んで欲しければ……
「……これを……」
 鎖が擦れた。
 まずこれを何とかしろ、と言いたかったが、それも情けない気がして、彼は一瞬言い淀んだ。
 そんな彼の心の内を読み取ったかのように、ハイネは瞳を細めて鋭く相手を見返した。
 潤んだ青い瞳の色を見ているうちに、突然後悔の念が湧き上がってきた。
(――俺は……)
 何をしているのか。
 ……何を、剥きになって……。
 自分を恥じた。
 鎖の動くその不快な音が、相手と自分の間につくる壁の大きさを彼に知らしめた。
 すると急に、荒々しい感情が引いていくのがわかった。
「……………」
 ハイネは黙ってイザークから身を離した。
 素早くベッドから飛び降りると、床に転がっていたキーを拾い上げる。
 ……次の瞬間には、イザークの両手からは既に金属の輪が外れ落ちていた。
 金属が擦れた、痣の残る赤らんだ手首の痛みに微かに眉をしかめながら、イザークはのろのろと身を起こした。
 ベッドの淵に腰を下ろしたハイネが彼の手首を掴んだ。
「……痛むか」
 そっと手首を撫でる指先が、イザークの不安に波立っていた心を静めていく。
「……悪かった」
 そう言って、イザークを見つめるハイネの瞳には既に穏やかな光が戻っていた。
「……ハイネ……」
 自ずと、そう呼びかけていた。
 ハイネがにやりと笑うのを見た途端、イザークは我に返り、自分の思わず発した言葉を自覚して僅かに頬を染めた。
「……何だ……!」
 じろじろ見るなと言わんばかりに、ぶっきらぼうに言い放つ。
 しかし、ハイネは視線を外さなかった。
 イザークはそんなハイネの視線を感じながら、微かに上気する頬を恥らうように外へ向けた。
「……おまえの名を呼んだ。これで、満足だろう」
 むすっとした調子で小さく呟く。
 そんなイザークを静かに見つめていたハイネの表情がふと綻ぶ。
(俺……なんだ)
 今、相手の瞳に映っているのは間違いなく自分なのだという確信。
「ああ……」
 呟くその唇がイザークの手首にそっと触れた。
 ぴくりと相手の体が感応するのがわかる。
 そのまま手を引いて、彼を自分の腕の中に抱き寄せた。
 イザークは驚いたように目を瞠ったが、なぜか抗わなかった。
 潤んだ瞳の奥に瞬く光がハイネを煽った。
「……満足だ」
 ――何だか本当にもう一度、おまえを抱きたくなってしまうくらい……。
 くすりと笑うと、ハイネは乱れた銀糸の隙間を潜り抜け、相手の白い項に静かに唇を埋めた。
 
                                          (To be continued...)

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