ONE STEP TO HEAVEN
1 First Encounter






 
オルガ・サブナックはその頃、絶望の渦中にいた。
 コクピット内の偶発事故で、前途を嘱望されていた連合軍のエースパイロット候補生だった彼が、突然前線から退かなければならなくなったのは、彼にとってはまさに晴天の霹靂(へきれき)だったろう。
 それは、自信家で誇り高く、何事につけても負け知らずで通ってきた彼が生まれて初めて味わった、屈辱と挫折の瞬間だった。
 事故で負った外傷自体は、幸いなことに致命傷に至るものとはならなかった。
 彼の若い肉体は、間もなく回復した。
 しかし、問題は――彼が無意識のうちに被っていた精神的なダメージの深さだった。

 初めての生死に関わるような、大きな事故。
 計器が狂い、操作が全くきかなくなったその瞬間、彼は突然大きなパニックに襲われた。

 脱出ハッチが、開かない。
 オートロックがかかっていて、解除が不能となっている。

 彼は狂ったように、ロック解除のキイを叩き続けた。
 操縦不能となった機体が、火を噴き出しながら、急降下を始めたとき、彼は迫りくる確実な死を予測し、全身が恐怖に震えるのを止めることができなかった。
 もう駄目だ、と思ったその瞬間、彼の脳内で何かが爆発し、目の前が急速に暗くなった。
 地面に叩きつけられる前に、機体が空中分解を起こし、ばらばらに砕け散らなかったのは、まさに奇跡としかいいようがなかった。
 何がどうなったのかはわからないが、とにかくオルガは生還した。
 ただ、彼の中には、深い精神的外傷(トラウマ)が残った。
 回復した体で、最初に機体に乗り込んだとき、彼は初めてその違和感に気付いた。
 操縦桿を握る手の動きが鈍い。指先の微かな震え。
最初はあまり気にも留めなかったが、機体が上昇するにつれ、彼は次第に自分の両手が思い通りに動かなくなりつつあることに気付き始めた。
 
さらに・・・呼吸が乱れる。
 その異常さに危機感を覚えたときには、既に過呼吸ははっきりとした症状として、表に現れていた。
 
間一髪で、彼は操縦を自動に切り替え、ほうぼうの体で基地に戻った。
 
しかし、その後も彼の症状は治まることはなく、軍医からは事故の際に刻まれた精神的な外傷からくるものと診断され、完治の見込みのない現在、彼がパイロットを続けることは不可能であると上層部に申告された。
 
彼は不本意ながらも、その任を解かれることとなった。
 
彼にとっては苦い結末であった。
 
 
「・・・あら、良かったじゃない!これで、危険な目に遭わずに済むんでしょう?」
 行きつけのナイトクラブで、軽くそう言ってのけた、なじみのコンパニオンの女を、彼は黙ったまま、拳で殴りつけた。
 女は鼻血を出して、床に倒れた。
 ざわっと、周囲がどよめいた。
 女は恐怖に目を見開いたまま、その場に硬直していた。
 それを、冷たい怒りに満ちた眼でなおも睨みつけながら、オルガは更に女を蹴りつける。
 その異様ともいえる謔虐的な光景に圧倒され、周りにいた者たちは恐れのあまり、止めに入ることさえためらう風であった。
 一方、女は痛みに悲鳴を上げ、何とかオルガのもとから逃れようと、床を這っていく。
 オルガは、逃げようとする女の体を自分のもとへ再び引き戻そうと、その首に乱暴に手をかけた。
「・・・やめなよ」
 そのとき不意に頭上から声がかかり、彼は手の力を緩め、反射的に目を上げた。
 目の前に立っていたのは、まだどことなくあどけない表情を残した、緑の髪の少年だった。
 その姿には、どことなく見覚えがあるような気がした。
 そういえば、ここのところ、このナイトクラブでよく見かける顔だ。時々、こちらを窺っているのではないかと思えるほど、折に触れ、視線を合わせることが多かった。
「・・・なんだ、おまえは・・・」
 オルガは訝しげに言ったが、その目には殺意を込めたといってもよいような危険な光が瞬いていた。
 
今の彼は荒ぶる心を抑えることができずにいる。誰であろうと、自分の行動の邪魔をするものに対しては、容赦はしない。
 オルガは女を掴んでいた手を離した。女は一声も発せず、ゴム人形のように、ただその場にぐにゃりと崩折れた。
「代わりにのされたいとでもいうのか、ええ?」
 オルガが凄みを利かせた調子で言うのに対して、
「・・・うざいこと、言うね。おにいさん」
 
少年はただ一言、そう応える。その声にも表情にも、何の感情も込もっていない。
 そのしゃあしゃあとした態度は尚更彼の気に障った。
「へえ・・・いい度胸だな、おまえ」
 オルガは言うと、挑むように、少年の前に顔を近づけた。
 が、少年を真正面から見据えた瞬間、オルガははっと息を呑んだ。
 ――オッド・アイ・・・?
 瞳の色が・・・左右微妙に違う。
 妖しい、魔性を帯びた光が互い違いに閃く。
 ・・・しかし、美しい。
 紫と黄。アメジストとトパーズを連想させるその色。
 思わず魅入られてしまうような、二粒の宝石の輝きが、一瞬強くオルガの心を捉えた。
「あんた・・・オルガ・サブナックっていうんだろ。元連合軍のパイロットだったって・・・」
 それを聞いて、オルガは電流に弾かれたかのように、飛び上がった。
「――おい!・・・なんで、おまえ、俺の名を知っている・・・?!」
 オルガは、警戒するかのように、鋭い視線を目の前の少年に送る。
「あんたに、会いたがっている人がいる。・・・あんたを連れてこいって言われた」
 少年は、まるで台本の台詞を読み上げているかのように、淡々とした口調で言う。
 しかし、その直後――
「・・・もう一度、飛べるかもしれないよ」
 
低声で、囁くようにそう付け加えたとき、彼の瞳の色が、初めて僅かに変化したように見えた。
 まるで、オルガの反応を面白がっているかのように。

「なん・・・だと・・・?」
 オルガは、思わず目を瞠った。
 その瞬間、既に自分が後戻りできない罠の中に、引き込まれてしまったのだということを、彼が自覚したのかどうか。
 
彼を掴んで決して放そうとしない、運命の罠の中に身を投じようとしている自分を・・・。
 そして・・・
 
――この出会いが、オルガ・サブナックの未来を大きく変えることとなる。
 だが、そのことに彼はまだ、気付いてはいなかった。
 
                                 
(To be continued…)

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