ONE STEP TO HEAVEN
2 Temptation
人目を忍ぶように裏通りに止まっていた黒いヴァンに乗り込み、夜の街を疾走する。
窓外を過ぎていく賑やかな夜の街路の雑踏を眺めながら、オルガは前部座席に座っている小柄な少年の背を時々ちらりと見やり、複雑な思いに捉われた。
――機械的な、感情を感じさせることのない、淡々とした口調。
少女のように整った色白の面の中で特に目を引くそのけだるそうな瞳は左右異なる光を宿し、見つめる相手をいつのまにか不思議な異空間に誘(いざな)うかのようだ。
この妖艶な雰囲気を漂わせた少年の存在は、オルガを茫漠とした不安に駆り立てると同時に、それでいてどこか強く惹きつけもした。
彼の心臓は常より鼓動が速まり、なぜかこの少年のことをもっと知りたいという思いが渦を巻くように高まっていく。
・・・だからこそ、こうして言われるままに、車に乗り込み、得体の知れぬ連中とともに、行き先もわからぬ目的地へ向かって夜の街を駆け抜けている。
(俺は・・・どうかしている)
オルガは自嘲気味に、内心そっと呟いた。
(イカレちまってる、か。・・・まあ、俺の体はどのみち半分壊れちまってるようなもんだがな)
もう少しで大声を上げて笑いそうになる自分を抑え、彼は後部シートに背をもたせかけ、軽く目を閉じた。
街(シティー)を後にし、どれくらいの時間、車を走らせたことか。
窓外の景色は、ネオンの輝きと人の喧騒に満ちた賑やかなシティーからはうってかわって、いつしか闇に包まれた樹林が道の両側を覆う郊外の静かな夜景へと変化していた。
――「ゴールデン・ゲート」を通過する。
それはつまりシティー中枢部の要人居住区域へ入ったことを示していた。
何の制止を受けることもなく通過できたということは、ゲートのセンサーがIDを認識した・・・この車の所有者がすなわちそこの住人であるということだ。
これは・・・どういうことか。
オルガは眉をひそめた。
この得体の知れぬ連中というのは、政府要人と深い関わりがあるということなのか・・・とすると、自分がこれから会う人物というのは一体・・・?
新たな疑惑と不安が渦巻く中、車が突然止まった。
暗い中でも、豪壮な邸宅であることがわかる。
オートセンサーで門が滑るように開く。
車は門を通り抜け、玄関の前に横付けされた。
座席横のドアが音もなく開いた。
運転手は無言のまま振り向きもせず、じっと静止している。
振り向き、言葉をかけたのは、やはり少年の方だった。
「・・・さあ、行こう。パラダイス(天国)へ・・・」
そのとき少年の感情のない瞳に、一点の狂おしい光が閃いたように見えた。
それを見て、オルガは一瞬ぞくりと震えた。
(パラダイス・・・天国・・・だと?)
普段なら、何と陳腐な表現かと声を上げて笑い流してしまうところだ。
しかし・・・そのとき、彼はなぜか笑うことができなかった。
――それは本当に天国(パラダイス)なのか。
――それとも冗談ではなく、天国(ヘヴン)なのか。
彼は車から降りるのを、躊躇った。
しかし、少年が促すと止むを得ず従うしかなかった。
ここまできてしまった以上、もはや引き返すことはできない。
――そしてオルガは、文字通り、「天国への一歩」を踏み出したのだった。
シャンデリアの煌々とした輝きが目に眩しいほどに、室内は明るい光に溢れている。
華美ではないが、そこここに施された美しいゴシック風の装飾が目を引く、広い一室だった。
部屋の中央には、応接用のテーブルにソファーが置いてあり、そこに座っていた人物がすっと立ち上がり、にこやかに彼らの方に歩み寄ってきた。
明るい色の洒落た背広にネクタイ。金髪が灯火に映える。
「・・・ようこそ。待っていましたよ、オルガ・サブナックくん。よく来てくれましたね」
妙に馴れ馴れしい、その粘りのある独特の喋り方に、オルガは最初から強い嫌悪を感じ、思わず眉根を寄せた。
それを見て、相手はおやという顔をした。
「おや、何だか最初から嫌われてしまったかな。・・・ああ、先に自分が名乗るべきでしたね。
――わたしは、ムルタ・アズラエル。恐らく、きみも名前くらいは聞いたことがあるのではないですか」
そう言うと、オルガの方を窺うように見やる。
(――ムルタ・アズラエル・・・だと・・・?!)
オルガは大きく目を見開いた。
その名は確か・・・ブルー・コスモスの盟主の名だったのではないか。
(そんな・・・マジかよ・・・!)
超VIPクラスの要人ではないか。
そんな人物が、なぜこんなところにいて、しかも自分のような既に連合の所属さえ離れてしまった軍人崩れなどに、にこやかに語りかけているのか。
オルガの反応は恐らくアズラエルの予想通りだったのだろう。
オルガの表情の変化を見つめるアズラエルの顔はいかにも満足げに見えた。
「まあ、驚くのも当然でしょうね。普通の人間なら、目の前になぜブルーコスモスの代表が立っているのか、不思議に思わない方がおかしい」
アズラエルの口調はかなり話しなれたもので、全く淀みがない。
「・・・いやいや、しかしわたしはきみには前からずいぶん興味を持っていましてね。きみのことは、だいぶ調べさせてもらったんですよ。
・・・というのも、わたしの興味があるのは、軍内にいる「優秀なパイロット」だったものでね。
・・・連合軍から得た情報の中では、きみの名前が一番に挙がっていましたよ」
「・・・いつの頃のことかは知らないが、なら、残念だったな。今は俺は軍の所属ではないし、パイロットとしてももはや役には立たない」
オルガはそう返したが、言いながら古傷が疼くような感触を覚えた。
わかってはいても、自らの口からそう認めることは、彼にとってはまだ大きな苦痛であった。
「ああ、その事故の件も聞きましたよ。だからこそ、きみをここへ呼んだのです」
アズラエルの眼が妖しく光った。
「――わたしは、きみを救ってあげたい。・・・まだ、きみはそれだけの価値のある人間だ。・・・もう一度、チャンスが欲しくはありませんか?」
オルガはアズラエルの視線に、本能的な危険を感じ、思わず後退りかけた。
「・・・チャンス・・・?」
しかし、同時に彼の中に、抗しきれない好奇心が湧いたのもまた事実だった。
「――新型のMSをきみのために用意しているのですよ・・・」
アズラエルの吐き出した言葉の甘美な響きが、一瞬オルガの耳をくすぐった。
――新型のモビルスーツ・・・?
彼は耳を疑いながらも、一瞬駆け抜けた想像の中で、そのコクピットに座ってスロットルを握る自分の姿に酔った。
しかし、想像は所詮想像でしかない。
すぐに彼は現実に引き戻され、目の前の自分を直視せざるを得なかった。
「・・・無理だ・・・」
彼は苦々しく吐いた。
――俺の身体は、もう・・・。
――あの事故で、俺の中の何かが・・・破壊されてしまったんだ。もう、元には戻らないだろう。恐らく、永久に・・・。
「・・・諦めるのはまだ早いかもしれませんよ」
アズラエルが囁くように言う。
「言ったでしょう。そのために、きみをここへ呼んだのだと。きみを救いたい。そして、再びきみを空へ送り出してあげようと・・・」
「・・・やめろ!――そんなことができるわけがない!」
オルガは突然激したように怒鳴った。
過去の傷口に触れられることにそれ以上耐えられなくなっていたのだ。
――何なんだ、こいつは・・・。
なぜこんなに全てを悟ったような顔をして、俺を見るんだ。
こいつに何がわかるというんだ。
そんなに簡単なことじゃない。俺の体は、もう――
「――できるよ」
そのとき、背後から不意に声がかかった。
振り向いたオルガの目に、にっこりと微笑みかける緑の髪の少年の姿が映った。
「シャニの言う通りです。・・・できるのですよ。――とても簡単な方法でね・・・」
「・・・これだよ。試しにやってみる?」
シャニは、右手を差し出した。
その手の先にあるものを見て、オルガは顔を強張らせた。
・・・その手が握っていたものは、一本の注射針だった。
「――これ、すごいんだよ。イヤなことなんか、すぐに消してくれるんだ。きっとあんただって、幸せになれるよ・・・今よりずっと幸せにね・・・」
そう言うと、シャニはただ無邪気にオルガを見つめた。
(To be continued…)
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