ONE STEP TO HEAVEN 10 Dead End 「今からガレージの扉を開けるから・・・それと、門はそのボタンのセンサーで開くはずだよ。ゴールデンゲイトのIDはその隣りのボタンを押して。 わかったら・・・さあ、早く行って!」 車に乗り込んだオルガを急かすように、シャニが声をかける。 オルガはふと、シャニを見上げて、 「シャニ・・・」 そう、声をかけた。 よく考えれば、彼の名前をまともに呼んだのはそれが初めてだったかもしれない。 「なに・・・?」 シャニが緊張した眼差しをオルガに向ける。 「・・・おまえも・・・一緒に、逃げないか?」 オルガは、心からそう言った。 シャニは驚いたように瞳を見開く。 互いの感情を秘めた視線が、まともにぶつかった。 ひとときの躊躇い。 彼の顔が少し歪んだように見えた。 いつか見た、あの幼子のような頼りない表情がその面に浮かぶ。 彼はそんな自分の表情を隠すかのように、つと顔をそむけた。 しかし、オルガの瞳はすかさず、その泣きそうな横顔を捉えていた。 オルガが再び口を開こうとしたとき、 「・・・ダメだよ。オレは・・・あんたとは、行けない」 機先を制するように、そっけない答えが返ってきた。 取りつくしまもないようなその口調に、オルガはそれ以上何も言えなくなった。 「・・・そっか・・・」 それきりこちらへは目を向けようとしないシャニに、彼の心はどうしようもなく揺れた。 ・・・無理にでも、連れて行った方がいいのではないのか・・・? ふと、そんな気がした。 相手もひょっとしたら、それを望んでいるのかもしれない。 「シャニ・・・!」 衝動に駆られ、運転席の窓越しにオルガの手がシャニの腕を掴もうとしたとき―― 突然人の足音が近づいてきた。 ばたばたと慌しく駆けてくる足音。 二人ははっと顔を見合わせた。 「早く・・・!!」 シャニがガレージの開閉ボタンを押した。 金属扉の鈍い開閉音が響く。 開いた車窓から、外気の冷たい空気が流れ込んでくる。 目の前には漆黒の闇の空間が広がっている。 自由への扉が、開かれた。 その瞬間、闇の彼方に向けられたシャニのその遠い眼差しが何を語ろうとしたのか・・・ オルガが斟酌する間もなく、シャニはくるりと彼に背を向けると、思い切ったように中へ続く扉へと走った。 「シャニ・・・!!」 オルガは駆けていく背に向かって衝動的に叫んだが、シャニの姿は瞬く間に扉の向こう側へ消えていった。 シャニは、オルガの誘いに対して今、はっきりと自らの答えを示したのだ。 彼は、檻の中に残ることを選んだ。 それがなぜなのか・・・ オルガにはわからない。 ただ、どういう理由にしろ、結果的にシャニが彼を『拒絶』したという事実だけが、彼の胸にずしりと重くのしかかる。 ――シャニ・・・ オルガは胸の奥で呻いた。 (・・・おまえは・・・それで、いいのか。ほんとに・・・?) しかし―― ・・・もはや迷っている時間はなかった。 ――仕方ねーじゃねえか。奴自身の決断だ・・・。 (・・・ええい、くそっ・・・!) 彼は迷いを振り切るように軽く頭を振ると、車を始動させた。 ちょうどそれと同時に扉が開き、数人の人影が現れる。 「きさま・・・何をしている!」 男達が目を剥くのを尻目に、オルガはアクセルを強く踏み込んだ。 鈍い電気銃の唸る音が聞こえた。 しかし、その前に車は車庫から外へ飛び出していた。 背後で飛び交う怒号がみるみるうちに遠くなる。 捕われた檻の中から再び、自由の世界へと―― オルガはただひたすら、夢中で車を走らせていった・・・。 ゴールデンゲイトを無事通り過ぎ、シティーの中心に近づいていくと、オルガはほっと安堵の息を吐いた。 たまたま目に止まったどこかの駐車場に車を乗り捨て、彼は中心街(セントラル)に向かって、人気のない薄闇の道を夢遊病者のようにふらふらと歩いた。 それにしても―― ・・・体が、だるい。 一歩踏み出すごとに、体全体が鉛の塊のように重みを増す。 (くそっ・・・!) 実験台にのせられて、さんざん弄ばれた体は、やはりそれまでの状態とは異なっていた。 ハアハアと息を荒げながら、彼は通り脇の建物の壁に背をもたせかけた。 呼吸が乱れる。 熱を帯びた体。 彼は自分の体重を支えきれずに、そのまま地面に尻餅をついた。 壁にもたれたまま、軽く目を閉じる。 荒い呼吸音と心臓の激しい動悸が、彼の体を芯から揺さぶっているかのようだ。 ・・・苦しい。 ・・・誰か・・・ (・・・たす・・・け・・・) そのとき彼の頭の中に、なぜか浮かんだのは、あの黄玉(トパーズ)と紫水晶(アメジスト)の光が閃く双の眸・・・。 「・・・オルガ・・・?」 不意に、頭上から声が降ってきた。 どこかで・・・聞いたことがあるような・・・? オルガはぼんやりとした頭をそっと上げた。 目の前に、立っている女。 すらりとした長身のダークブロンド。 驚いたように瞳を大きく見開いて、彼を見下ろしている。 ――俺は・・・この女を知っている。 オルガは霞む視界の淵で何とかその姿を捉え、記憶の糸を手繰り出した。 それは、あの行きつけのナイトクラブで、毎夜彼の相手をつとめていた例のコンパニオンの女だった。 (・・・何て名だったっけかな・・・) そういえば、名前すら覚えていないことに気付き、彼は苦笑した。 確かに人目を引く、綺麗な顔をした女だったが、大して好きだったわけでもない。 ただ、たまたま傍にいたというだけで、彼の荒ぶる心のはけ口にされてしまった運の悪い、哀れな女。 最後に覚えているのは、確か・・・彼が怒りにまかせて彼女の体を足蹴にしていたあの、陰惨な光景。 そうして、そのときに・・・あいつ――あのシャニ・アンドラスと出会い・・・ムルタ・アズラエルの館へと連れて行かれたのだ。 そんな風に思い返しているうちに、突然、何もかもが非現実的な出来事であったかのように思われて、オルガはふと、自分はずっと夢でも見ていたのではないかという気にさえなった。 「・・・あたしよ、ジェニファー。忘れちゃったの?」 女は屈み込んで、オルガと目線を合わせた。 「・・・どうしちゃったの。あんた、なんか変だよ。・・・気分でも悪い?」 まるでいつかの理不尽な暴行を受けたことなど、きれいさっぱり忘れ去ったかのようなジェニファーの心からの心配そうな口調に、オルガは呆然と彼女を見返した。 (・・・そうか。こいつ、そんな名だったっけ・・・) 「・・・おまえ・・・」 オルガの喉からようやく、言葉が洩れた。 「・・・おまえ、何で、こんなところに・・・?」 ジェニファーの顔に屈託のない笑みが広がった。 「あたしの住んでるところ、すぐ先なんだ。・・・何なら、休んでいく?」 その親切な申し出にも、既にオルガは返事をする力もなく、ただ気付いたときには彼は、自然に差し出された女の手を掴んでいた。 熱に半分浮かされた体が、その柔らかな肌の感触に驚くほど過敏に反応した。 オルガはその瞬間、自分の体がどうしようもないほど強く彼女を求めていることを意識した。 ・・・いや、彼が求めていたのは―― ・・・それは本当に『彼女』だったのか? 彼の瞼の裏にふと浮かんだ顔・・・ 暗く切なげな瞳。 すがりついてくるしなやかな細い腕。 柔らかな肉感・・・。 それは、誰のものだったか。 オルガはそれがわかった刹那、思いもかけぬ強い衝撃に打たれた。 (・・・馬鹿・・・俺は・・・いったい、何を・・・?!) 絶対に、認めたくなかった。 (そんな――こと・・・ッ・・・!) しかし、そう否定しながらも、自分でも説明のつかないくらい激しい欲情が、下半身から熱くせり上ってくるのを感じる。 こんなときに―― (何なんだ、俺は・・・?!) オルガは頭を振った。 これは・・・ ひょっとすると、この感覚も―― ・・・ここ数日間、ずっとわけのわからない注射を打ちまくられ、すっかり薬漬けにされてしまった、この半分イカれた頭のせいなのか・・・? しかし、もはやそれ以上、彼には考える気力がなかった。 考えようとしても、なぜか思考が続かない。 完全に、行く手は塞がれた。 行き止まり。 ――デッド・エンド・・・か。 オルガは朦朧とした頭を何とか支えながら、ふっと苦笑する。 こんな自分が、何とも滑稽なように思えるのは、なぜか。 女の肩に半分つかまりながら、ようやく立ち上がると、オルガは彼女と共に黙って歩き始めた・・・。 (To be continued…) |