ONE STEP TO HEAVEN
11 Reprise






 体が・・・熱い。
 涙が・・・止まらない。
 何でだろう・・・。
 こんなに、頼りなく不安な気持ち。
 もう二度と、こんな思いをすることはないと思っていた。
 自分はようやく自由になったんだ。
 すべての感情から開放された。
 ・・・もう苦しむ必要はない。

 手に入らぬ愛を求めて苦悶することはないのだ。
 もう誰かを愛する必要はない。
 愛さなくても・・・
 愛されなくても・・・
 自分は生きていける。
 愛の呪縛から開放された瞬間に、どんなに楽になったことか。
 すべての鎖が外されて・・・彼はようやく息ができるようになった。
 やっと、人並みに生きられるようになった・・・そう、感じていた。
 それが・・・
 ・・・何ということか。
 また、振り出しに戻ってしまったのではないか。
 この煩悶・・・息苦しさ。
 過去へのフラッシュバック。
 ・・・それもこれも、みんな・・・
 ・・・あいつ――
(・・・あいつのせいだ・・・)
「・・・オルガ・・・」
 自分の口から声が洩れるのがわかった。
 あいつの名・・・。
 何で、あいつの名など呼んでしまったのか。

 たちまち、苦い思いが渦巻く。
 ・・・カタッ・・・と音がした。
 誰かが屈み込んでくる気配。
「・・・気が付いたか?」
 耳元で、囁く声。
 ・・・誰・・・だ・・・?
 そっと瞳を開ける。
 癖のある赤い髪。
 飄々とした面構えの青年が、じっとこちらを覗き込んでいた。
 確かこいつは・・・
「・・・クロト・ブエル・・・?」
「へえー、ちゃんと覚えててくれたんだ、フル・ネーム」
 クロトはにやりと笑って見返した。
「・・・オレ・・・?」
 シャニは床から身を起こそうとしたが、体が重くて思うように動かすことができない。
 そこで初めて自分が殆ど全裸状態で床に横たわっていることに気付き、愕然となる。
「・・・やめとけよ。おまえ、今はそう簡単に動けるような状態じゃねーんだから。・・・そのまま、じっとしとけ」
 クロトはそう言うと、シャニの傍らに腰を下ろした。
 シャニは確かに自分の体に異常が起こっていることがわかり始めた。
 鈍い痛みが次第に全身を苛み始める。
 ・・・特にその下半身の強い痛み・・・。

「ひょっとして、おまえ、全然覚えてねーわけ?」
 クロトはそんなシャニの様子を見て、眉をひそめた。
「・・・・・?」
 シャニは記憶の断片を拾い出そうとしたが、何かひどく嫌な思いが込み上がってきて、たちまちそれを断念した。
 彼の中の何かが強い拒絶反応を起こしたのだ。
 クロトは探るようにそんなシャニを真っ直ぐ見つめた。
「・・・おまえ、かなりひどいことされてたんだぜ。
 ・・・外にいる間中、おまえの悲鳴がひっきりなしに聞こえてた。
 このままじゃ、おまえ、殺されちまうんじゃないかって思ったくらいだ・・・あいつらがおまえを殺すわけはない、とわかっちゃいても・・・な。
 ほんと、ひどかったぜ・・・んで、入ってみりゃ、このザマだろ。
 オレまで気分悪くなっちまったくらいだ・・・」

 そう言われて、饐えた血の匂いが改めて鼻についた。
 全身が擦過傷や打撲で覆われている。
 そして床や周囲の壁に飛散している夥しい血の量。

「・・・そう・・・か。そう・・・だった・・・」
 シャニは呟くと、突然激しい嘔吐感に襲われた。
 ぐっ・・・と堪えきれずに、彼はそのまま床の上に吐いた。
「・・・大丈夫か?」
 クロトが彼の頭に手を置いた。
(触んなよ・・・!)
 ついこの間までのシャニなら、すぐさまその手を振り払っていたことだろう。
 うざい奴・・・
 そんな風にしか見ていなかった。
 しかし、なぜか今は・・・その手の感触がありがたいとさえ感じられた。
 苦しさはおさまらなかったが、ただ今傍に誰かがいてくれるということが何となく心強かったのだ。
 誰であっても・・・。
 たとえそれがこいつであっても・・・。
「・・・ったく、何で逃げなかったんだよ。あいつと一緒に、さ・・・」
 クロトが吐き出すように言った。
「おまえ、馬鹿じゃねーのか。・・・せっかくのチャンスだったのにさ・・・」
 そう・・・逃げられたんだ・・・あのとき。
 シャニはふと思った。
(・・・一緒に・・・行かないか・・・?)
 あいつも、言った。
 なのに・・・オレはそれを断った。
 ・・・何でかな。
 自分でもわからない。

 ただ・・・逃げても仕方ない、と思った。
 自分のいるべき場所は、ここ以外どこにもないような気がした。
 ここを出ても仕方ない。・・・クスリが切れて、どうにも仕様がなくなって、またここに舞い戻ってくるのがオチだ。
 そんな、半分以上、諦めめいた気持ちだったのかもしれない。
 オレには・・・あいつみたいに、まともな生活に戻ろうなんて気力も意志も残っちゃいない。
 そうさ。仕方ない。
 オレは、どうせ・・・。
「・・・おまえさー、やっぱ、あいつのこと好きだったんだろ?」
 クロトが突然言った。
 その言葉にシャニがびくりと反応する。
(・・・ス・・・キ・・・?)
 オレが、あいつのことを・・・好きだった・・・?
 シャニは息を吐いた。
 誰かのことを好きになるなんて・・・。
 そんな感情は・・・とうになくなってしまったはずだったのに・・・。
 まただ・・・。
 こんなにも、胸が苦しくなる。
 切ない気持ちが募る。
 人を好きになるほど、自分自身が苦しくなる。
 だから・・・嫌だった。
 否定したかった。

 あいつに対して、抱く自分のこんな気持ちが嫌でたまらなかった。
 ひょっとしたら・・・だから、あいつを逃がす気持ちになったのかな。
「・・・ああ・・・そうだよ・・・」
 シャニは小さく答えた。
 クロトが驚いたように、シャニを見下ろす。
 返事を期待していなかったのに・・・こんなに素直な返事が返ってくるなんて・・・。
 それはクロトにとっては意外なことだった。
「・・・そっか・・・」
 彼はそう返すと、しばらく黙り込んだ。
(マジかよ・・・)
 クロトの胸は何となく波立った。
(・・・ほんと、マジなのかよ・・・)
 このままだと、こいつ、死んじまうかもな・・・。
 そんな不安がふと頭をよぎった。
「・・・おい、しっかりしろ!」
 クロトはシャニの体にそっと手をかけた。
 ゆっくり、彼の華奢な体を抱え起こす。
 シャニはうう・・・と呻きながらも、クロトにしがみつきながら何とか半身を起こした。
「・・・おまえ、まだ死ぬんじゃねーぞ」
 そう言葉をかけるクロトを不思議そうにシャニが見つめる。
 その両目の異なる色が、ことさらにクロトの目を引いた。

 オッド・アイ・・・綺麗な目だな。
 幼い頃に誰かが読んでくれた童話か何かに・・・確かそんな目をした妖精が出てきたんだったっけ。
 彼はそんなことをふと思い出していた。
「・・・ほんとはオッサンから、おまえをヤレって言われてたけど、俺にははなっからそんなつもりねーから」
 クロトは、少し笑った。
「・・・おまえもさ、もっと先んこと考えろよ。何もかも諦めちまわないで、さ。ま、俺が言える立場じゃねーんだけど。俺もほんとは死に損なっちまったクチだからさ。それに――」
 クロトは少し間を置いた。
 言おうか言うまいか一瞬逡巡するかのように。

 しかし彼は結局続けた。
「・・・あいつ・・・戻ってくるんじゃねーかな」
 クロトの言葉にシャニはハッと息を呑んだ。
 戻って・・・くる・・・?
 シャニの胸に複雑な思いが広がる。
(だめだ・・・そんなことは・・・!)
 そう思いながらも・・・心のどこかでそれを期待している自分がいる。
 あるいは、それは幻のような思いなのかもしれない。
 でも・・・彼は認めざるを得なかった。
 自分が誰かを好きになってしまったことを。
 そして・・・相手にも、自分のことを好きになってほしいという気持ちが、また生じつつあることを。
                                     (To be continued…)

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