ONE STEP TO HEAVEN
12 Calling you






 オルガはそっと煙草の火を消した。
 その口から深い溜め息が漏れる。
「・・・どうしたのよ」
 後ろから、女の息がかかった。
 ジェニファーの腕が彼の首にかかり、彼は女の体が背にしなだれかかってくる柔らかな肌触りを感じた。
「・・・あんた、変よ。あたしと寝ても・・・あんまり・・・そう・・・感じてないみたいだし・・・」
 彼女は少し口ごもりながら、そう囁いた。
 オルガは何も答えなかったが、内心その通りだ、と思った。
 確かに俺は・・・ヘンだ。
 この女と毎晩セックスしても・・・
 なぜか、味気ない。
 満足感が得られない。
 ・・・心のどこかに、何かが・・・
 どうにも引っかかって、離れない何かがある。
 それが全てにおいて、俺の行為の邪魔をする。
「・・・ねえ、『シャニ』って誰?」
 問いかけるジェニファーの腕に心なしか力がこもったようだった。
 オルガはどきりとした。
 その名前が・・・彼の心に重くのしかかってくるように感じられた。
 目の前に・・・あの妖しい二粒の宝石の光を帯びた瞳が、いきなり浮かび上がってくるような気がした。
「・・・な・・・んで・・・」
 オルガは思わず呟いた。
「・・・覚えてないの?」
 ジェニファーの指の爪がオルガの首に強く食い込んだ。
「・・・あんた、いつも一度はあたしを『シャニ』って呼ぶのよ。 ・・・それもここでもう最高!!ってときには必ず・・・ね。その名前を呼んでるの。自分でわかってないの?!最低ね、あんた・・・!」
 女の爪がさらに強くオルガの首を締めつけてくる。
 オルガはうっと呻いて、反射的に彼女の腕を振り解いた。
「・・・やめ・・・ろ・・・!!」
 オルガは少し喘ぎながら喉を撫でたあと、女の方を振り返ると精一杯睨みつけた。
 ジェニファーは挑むようにその視線を受け止め、二人は瞬時睨み合った。
 やがて、彼女はふっと唇の端を緩めた。
「・・・やーね。・・・本気じゃないわよ。あたしだけがあんたの女だなんて最初(はな)っから思ってやしないから」
 からかうような目をオルガに向けると、ジェニファーはさらに問いかけた。
「・・・で、どんな子なの。そのシャニって子・・・あんたが毎晩無意識に名前呼ぶくらいだから、よっぽどイイ子なんでしょうねー・・・ほんと、妬けちゃうわね」
 ジェニファーは軽く息を吐いた。
 オルガは黙って聞いていたが、彼女の問いにどう答えてよいかわからず、内心ひどく困惑していた。
(・・・俺が・・・シャニの名を・・・?)
 オルガは動揺した。
 全く覚えていない。
 そんな・・・ことを、俺は・・・?
 ・・・突然、体が激しく震えた。
「・・・うっ・・・!」
 彼は苦痛に苛まれて、前かがみに床に蹲った。
「・・・ちょっ・・・ちょっと、大丈夫?!」
 ジェニファーが彼の前に屈み込み、そっと体に手をかけた。
 その激しい発作のような痙攣に、ジェニファーは真っ青になった。
「・・・く・・・く・・・すり・・・を・・・!」
 喘ぎながら言うオルガに、
「例のアレね・・・。ちょっと待ってて・・・」
 彼女は素早く立ち上がると、カプセルの錠剤と水の入ったコップを持って戻ってきた。
「・・・さ、飲んで・・・」
 渡された錠剤を震える掌で受け止めて口の中に放り込むと、彼は咳き込みながら水を一気に飲み干した。
 はあはあとなおも喘ぎながら、その場にぺたりと座り込む。
 心配そうに覗き込む女の顔を見て、オルガは安心させるように笑ってみせた。
「・・・だい・・・じょうぶ・・・だ。そんな顔・・・すんな・・・」
 痙攣が次第におさまってくる。
 相変わらずよく効くクスリだ。
 オルガは苦笑した。
 ・・・しかし、このクスリも残りはあと僅かだ。
 早いところ、医者に診てもらった方がいい。
 それはわかっている・・・。
 わかっているのだが・・・。
 それでもなぜか動く気力もなく、あの脱出以来ずっと、ここにこうしてじっととどまったままでいる。
 その原因は・・・わかっている。
 あいつだ。
 俺は、ずっとあいつの幻に捉われたまま・・・。
 あのオッド・アイの・・・。
 ジェニファーに言われて、さらに確信した。
 俺はやはりあいつを忘れることができないのだ。
 これがどういう気持ちであれ・・・
 とにかく、気になって仕方がない。
 それだけ濃厚な時間を過ごしてしまったということか。
 オルガは自嘲気味に溜め息を吐いた。
 いろんな意味で・・・あいつは・・・
 ・・・あいつは・・・
(・・・やっぱ、あいつを無理矢理にでも連れて来るべきだった・・・)
 ふと、思う。
 あいつの存在がこうも大きくなっているとは・・・。
 なぜかわからない。
 わからないが・・・。

 あいつが気になって仕方ないのだ。
 自分のこれからのことを考える気すら起こらないほど・・・。
 あいつは、どうしているのか。
 俺を逃がしたことで厄介な目に会っているのではないか。
 そういったことが、頭の中をちらついて離れない。
「なあに・・・また、例の『恋人』のこと、考えてるの?」
 落ち着いてきた様子のオルガを見て、ジェニファーが安心したように冗談めかした笑顔を向けた。
「・・・うん・・・そうかもな・・・」
 オルガは正直に答えた。
 ジェニファーは腕を回して彼に抱きついた。
「・・・あんたって・・・いやな奴!」
 そんな女がふといとおしく思えた。
「・・・おまえは・・・いい女だ」
 オルガは言うと、女のふくよかな胸にそっと顔を埋めた。
(・・・俺は・・・イヤな奴だ・・・)
 オルガは罪悪感を抱きながら、そう思った。
(・・・俺はこいつを身代わりに抱いている・・・)
 あいつの・・・代わりに・・・。
 
 
 ・・・その夜、オルガは例のナイトクラブのカウンターに座っていた。
「大丈夫なの?追われてるって言ってたのに・・・こんな目立つところにきて・・・」
 ジェニファーが酒を運ぶ途中でオルガの耳元に口を寄せ、そっと囁いた。
 しかし、オルガは軽く手を振って彼女を遠ざけた。
 ・・・もう、どうにでもなれ、とでも言った気分だった。
 ひょっとしたら、あそこに戻るきっかけが欲しいだけかもしれない。
(・・・俺って・・・わかんねえよな・・・)
 オルガは自分で自分のしていることが滑稽に思えて、思わず込みあがってくる笑いを抑えることができなかった。
 一人でふっと笑いを洩らす。
「・・・いい気なもんだねー、お兄さん」
 いきなり、横から声をかけられ、オルガは驚いて顔を上げた。
 左横に座っていた青年が、こちらに顔を向けているのが目に入った。
 短く癖のある赤毛に、まだ幼さを残す顔が皮肉っぽい表情を浮かべて真っ直ぐこちらを射抜くように見つめてくる。
「・・・何だ、おまえ」
 オルガは忽ち警戒の目を向けた。
「・・・やっと来たね。正直ここには来ないかなーって思ってたんだけどさ。良かったよ、会えて・・・オルガ・サブナックさん」
 さらりと自分の名を出した青年に、オルガはさっと顔色を変えた。
「・・・おまえ・・・あいつらの仲間か・・・!」
 オルガは低い声で詰問した。
 相手は軽く肩をすくめた。
「冗談・・・!・・・俺はあいつらの仲間になった覚えなんかねーよ。・・・ま、食わしてもらってるってことは確かだけどな」
 馬鹿にしたような瞳が、一瞬真剣になった。
「・・・オレ、クロト・ブエルってんだ。安心しなよ。あいつらに言われてここに来たんじゃねえからさ。・・・オレ、シャニ・アンドラスの代理人」
 その名前にオルガは動揺した。
「・・・シャニ・・・?!」
 クロトの目が意地悪げに光った。
「・・・その様子じゃ、ちょっとは気になってたようだね」
 オルガはクロトに体を寄せた。
 自然に上ずる声を無理に抑えるかのように、彼は意識して声を低めた。

「・・・あいつは・・・?!」
「・・・んなこと、聞かなくたって大体わかるでしょ」
 クロトは目を細めた。
「・・・あんたが逃げてから、毎日アズラエルのおっさんのお仕置き受けちゃってさ・・・まあ、お仕置きっていうか、あいつのストレスのはけ口にされてるっつうか・・・。とにかく、もう見てらんねーぜ。・・・あのおっさんもなかなか執念深いからさー。・・・あんたに逃げられたのがよっぽど悔しいんだなあ、ありゃ・・・」
 クロトはやれやれと溜め息を吐いた。
 オルガは、しかし、それを聞くと忽ち平静ではいられなくなった。
 ・・・やはり、シャニは・・・?
 シャニが具体的にどのような目に会っているのか・・・あまり聞きたくなかった。
 ただ・・・ぞくりと体が震えた。
 あのクレイジーな連中の中で・・・
 自分が既に受けたことを思い出すと・・・その恐ろしさは十分に想像できた。
「・・・かわいそうだと思うんなら、戻ってやったらどうなのさ。あんたがあそこに戻らん限り、あいつ、死ぬまでいたぶられるぜ・・・」
 クロトはそう言うと、じろりとオルガを見た。
 口調は冗談めかしていたものの、その目は全く笑っていなかった。
「・・・大体さあ、あんた、無責任じゃない?・・・あんたのせいで、あいつ、ヘンになっちまったんだぜ。あんたがたらしこんだのか、あいつがあんたをそうしたのか・・・オレにはよくわかんねーけどさ。
 とにかく、あいつ、前はあんなんじゃなかったんだ。オッサンにだってあんなに反抗するなんてこと、なかった。・・・あんた、どうせ逃げるんならさ、あいつも一緒に連れて逃げてやったらよかったんじゃないの?あんた、ずるいよ・・・。あれじゃ・・・」

 クロトは少し言葉を詰まらせた。
 彼は自分でも、ずいぶん自分らしくないことを言っているなと感じていたのだ。
「・・・あれじゃ・・・あいつが、かわいそすぎる・・・」
 彼はそう言い捨てると、目を伏せた。
 何だか、少し鼻の奥がじんときた。
 飲み慣れないアルコールをとったせいだろうか。
「・・・一緒に・・・行こうと・・・言ったんだ・・・」
 オルガの声には力がなかった。
「・・・けど、あいつは、行かないと・・・」
 クロトが目を上げた。
「・・・言い訳すんなよ、おまえ!」
 怒りに燃える双眸が、オルガを激しく貫いた。 
「・・・あいつ、おまえと行きたかったんだよ。あんなとこにいたい奴なんか、いるか!オレだって・・・オレだって・・・!!」
 クロトの手がオルガの襟首を掴んだ。
 固く握り締めた拳が、宙で止まった。
 彼は乱暴にオルガを突き放すと、立ち上がった。
「・・・とにかく・・・あいつを・・・助けてやれよ。あんたしか・・・いないんだ。でなきゃ・・・あいつ・・・死んじまうかもしれない・・・」
(・・・いつでも死にます・・・ってな、ツラしやがって・・・)
 クロトは生気の失せた色白の顔を思い起こした。
 悲しみが胸をよぎる。
「――ホントに死ぬぜ・・・あいつ・・・」
 クロトは背を向けたまま、呟いた。
(・・・シャニ・・・)
 オルガは去っていくクロトの背をいつまでも見つめ続けていた。

                                     (To be continued…)

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