ONE STEP TO HEAVEN 13 Celestial Kiss 「・・・世話になったな」 オルガは言うと、女に背を向け、上着を着始めた。 「・・・本気なの?」 ジェニファーはベッドに横になったまま、そんなオルガをまだ信じられないといった面持ちで見つめている。 「ああ、本気さ」 オルガは何でもないことのようにさらりと答える。 「・・・そろそろクスリも切れてきたしな。あれなしじゃ、俺の体はどうしようもないんだ」 ・・・医者の力を借りようなどという気はとうになくなっていた。もっとも、それでもこの体が元に戻るという見込みがあるわけでもなかったが。 毎日何をするわけでもなく、ここで女と毎晩セックスに興じ、ただずるずると薬がなくなるときを待っていただけのような気がする。 (・・・これが俺の手に入れた自由の結果か・・・?) オルガはふっと自嘲した。 ――最低だな。・・・これじゃあ、屑以下だ・・・。 本当にあそこから、逃げ出した意味があったのか・・・? ふと、そんな疑念が胸をよぎった。 (・・・あなたのために、新型MSを用意してるんですよ・・・) ブルーコスモスの盟主の気取った声が耳元に甦ってくる。 『モビルスーツ』・・・か。 その瞬間、自分の体が不思議と興奮してくるのを感じた。 彼のパイロットとしての天性が、そうさせるのか。 (・・・俺は・・・何がしたいんだ・・・?) オルガは困惑した。 自分はやはり、あれに乗りたいのか・・・。 ――そうなのか・・・? そんなオルガの様子を見ていたジェニファーが、やにわに身を起こすと、ベッドから床へ足を落とした。 彼女は怒ったようにオルガを見た。 「・・・あんた、誰かに追われてるって言ってたじゃない。ここを出て、どうするつもりなのよ?!」 「・・・いいだろ。おまえには、関係ない」 「――あるわよ!・・・行き倒れかけてたあんたを拾ってやったの、誰だか忘れた?」 オルガは肩をすくめた。改めて女の方へ向き直った。 「・・・わかってるって、そんなこたあ・・・。おまえには、感謝してる。だから、言ってるだろ。世話になったって――」 「もう!!違うのよ。あたしが言ってるのはそういうことじゃなくって・・・!!」 ジェニファーはベッドから離れると、オルガの背に手を置いた。 そのまま彼の背にしなだれかかるように顔を押し当てる。 女の香水の匂いがオルガの鼻孔を甘くくすぐった。 「・・・行かないでよ。オルガ・・・」 ジェニファーの声は聞こえないくらい低く弱々しかった。 「何で、行っちゃうのよ・・・」 ――こんなに、愛しているのに・・・。 ――あたしたち、こんなに愛し合ってきたのに・・・。 しかし、彼女にはわかっていた。 一緒に寝ている間・・・濃密な時間を過ごしているあの間でさえも・・・ 実際には、オルガの心がいつも他のどこかをさまよっていたことを・・・。 オルガの唇が無意識に例の・・・あの名前をそっと囁く瞬間・・・ 言いようもないほどの怒りと妬ましさが彼女の心を芯から震わせた。 (・・・シャニ・・・) ・・・というまだ見ぬ誰かの名前に激しい嫉妬を覚えた。 (・・・誰なのよ、あんた・・・) ――一体、何者・・・? ジェニファーは恨めしい気持ちを込めて、ひそかに呟く。 ――こんなに彼の心を独り占めして・・・。 今、彼を自分の手の届かないところへ連れて行こうとしている・・・。 こんなの・・・ずるい・・・。 今、彼の傍にいるのは、このあたし。 あんたはここにいない・・・。顔も姿も、声すら聞こえない。どこにいるのかすら、わからない。なのに、どうしてこんなにも彼を掴んで離さないのか・・・。 夢の中にしか出てこないような、幻のような存在にさえ勝てない自分・・・。それが悔しくてたまらなかった。 「・・・ごめんな」 オルガが不意に彼女の腕に手をかけた。 その腕をそっと撫でる。 彼がこんな優しい仕草をするのは・・・初めてだったかもしれない。 ベッドの中でさえ・・・オルガの愛撫は常に激しく、荒々しかった。 「い・・・やだ・・・」 彼女は首を振った。 「・・・いやよ、こんな風に優しくしないでよ・・・」 こんなのは、あんたらしくない。 これじゃあ・・・ ・・・本当にお別れって感じじゃない・・・。 しかし、止めることはできないのだということもわかっていた。 「・・・行く前に・・・もう一度だけ、抱いてよ」 彼女はオルガの手を掴んで自分の方へ引き寄せると、そっと囁いた。 (・・・この人は・・・少しでも、あたしを好きだと思ってくれていたのかしら・・・?) 今までいろいろな男に身を任せてきたが、こんなことをしおらしく思ったのはこれが初めてだった。 (・・・馬鹿みたいだ、あたし・・・) ・・・自分が妙に滑稽に思えて、彼女はふと笑った。 同時に寂しさが胸に満ちた。 (・・・また、この人に会って・・・こんな風に抱いてもらえるときがあるんろうか・・・) それは妙に恐ろしい予感めいたものを感じさせて・・・ 彼女はひそかに慄いた。 頭の中が・・・白い。 耳鳴りがする。 ・・・もはや、痛みも痛みとして感じない。 それほど・・・彼の体の感覚は現実から遠く離れてしまっていた。 逃避・・・? というのかな、これが・・・。 ・・・シャニは苦い笑みに口元を歪ませた。 実際には、そんなに自分が器用ではないことはわかっている。 少しでも感覚を押し戻せば、途端に激しい痛みの波が押し寄せる。目から自ずと涙が零れる。 自分の体が、自分のものではなくなってしまっているような・・・そんな感覚。擦り切れたぼろきれ以下・・・だろうか。 間を置かず、下半身に幾度も無理な挿入を繰り返されているせいで、治りかけては傷つけられる内壁はもはやぼろぼろに近かった。 加えて、薬が切れ、体全体が拒絶反応を起こす例の苦しみ・・・。 アズラエルは残酷なくらいに狡猾だった。 薬剤投与量を、体の機能を正常に保ち、意識を失わないぎりぎりの微妙な量に調合させているようだった。 だから、苦痛は消えない。気を失うことも許されない。・・・拷問には最適だ。 あまりにひどい失神を繰り返したときには、さすがに別部屋へ運ばれて手当てらしきものを受けたが、しばらくするとまた拷問は再開された。 『このままでは・・・』 どこか遠くの方でそんな声が聞こえたこともあった。 聞き覚えがある。恐らく、例の研究員の声だろう。 『・・・死にますよ。本当に・・・』 『・・・それを生かすのがあなたたちの仕事でしょう。報酬通りの仕事をしてくださいよ・・・』 嫌な笑みをこぼしながら、答えるアズラエルの声も遠いが、内容はなぜかはっきりと耳に入ってきた。 ――死ぬ・・・? 彼はその言葉を繰り返した。 ――そっか・・・ (・・・ほんとに、死ぬかもしれないな、オレ・・・) ぼんやりとそんな思考が頭の中に浮かんでは消えた。 いっそ死んだ方が、幸せなのかもしれないが・・・。 そうすれば、この苦しみから本当に逃れることができる・・・。何も悩まなくてもいいし、これ以上余計な思いで胸を焦がすこともなくなるだろう・・・。 ・・・オルガ・・・。 無事に逃げ出せたようだが・・・どうしてるかな、あいつ・・・。 彼の腕に身を任せたときのあのひとときの・・・夢のような安らぎ。 全てが遠いことのように思える。 オルガ・・・! (・・・一緒に行こう・・・) あのとき、あいつはそう言った。 あの瞬間、胸がいっぱいになった。 (一緒に行きたい・・・!) そう、思った。 なのに・・・それでも、なぜか俺はそれができなかった。 差し伸べられた手を取れなかった。・・・素直にうん、と首を縦に振ることができなかった・・・。 俺って、きっと馬鹿だ・・・。 でも、後悔してるわけじゃない。これで良かったって思ってる。 外に出たって、仕方ないんだ。今さら、何ができるわけでもない・・・。 俺は、母さんにさえ、見捨てられた人間なんだから・・・。 でも、こんな風にアズラエルの玩具になって死んじまうのもいやだな・・・。 ・・・こんな、死に方・・・何だか、惨めだ。 「・・・おや、また誰かさんのことを考えてるみたいですね・・・。仕方のない子だ・・・」 顎を持ち上げられたかと思うと、アズラエルの顔がすぐ目の前に飛び込んだ。 「・・・すっかり、骨抜きにされてしまって・・・全く、そんなに好きなら、何でわざわざ逃がしたりしたのか・・・わたしにはわかりませんね・・・お陰でこんな風に毎日お仕置きを受けなければならなくなって・・・かわいそうに・・・」 アズラエルの目がふとそばめられた。 「以前はわたしとセックスしていても、そんな風に切ない顔はしなかったくせにね・・・どうしてなのかな・・・?」 アズラエルの目が酷薄な光を放った。 「・・・だから、かわいそうだと思いながらね、余計に虐めたくなってしまうんですよ・・・それがわかってるのかな・・・?」 シャニはアズラエルの顔を睨みつけた。 「・・・俺を殺しちまいなよ・・・アズラエル・・・!」 珍しいオッド・アイ・・・。金色(トパーズ)と紫水晶(アメジスト)の閃きが、アズラエルを射た。 アズラエルは息を吐いた。 それでも、なんとこの生き物は美しいことか・・・。魅せられずにはおれないような・・・そんな妖しいときめきが瞬時に彼の胸を捉えた。 ・・・アズラエルは笑った。ぞっとさせるような嫌な笑みだった。 「・・・とんでもない。そう簡単には殺しませんよ。・・・おまえはわたしの大事な実験材料だ・・・。まだまだ役に立ってもらわねば・・・だから、こうしてわたし自ら調教してるわけですからね・・・」 そう言うと、彼はシャニの下半身に一気に自分自身を挿入し、突き上げた。 いつも以上に荒々しく、激しい動作で・・・。 シャニの口から弱々しい悲鳴が漏れ・・・突然、消えた。あまりの激痛に、一時的に意識が途切れたのだ。 アズラエルが舌打ちしかけたとき、インターカムが鳴った。 「・・・オルガ・サブナックが・・・!」 そのとき、失ったはずのシャニの遠い意識の隅に、その言葉だけがなぜかはっきりと響いていた。 「・・・奴が、今、ここに・・・!!」 死んだら、せめて天国(ヘブン)へ行きたいな・・・。 行けるかな・・・? ダメだ・・・行けそうにない・・・。 地獄(ヘル)に堕ちるか・・・? それでも、ここよりマシかな・・・。 でも、一人はイヤだ・・・。 何だか怖い・・・。 ひとりぼっちは・・・イヤだ・・・。 もう・・・ひとりでは・・・ 涙が溢れて・・・止まらない。 寂しくて、切なくて・・・ 心が寒い・・・体がどうしようもなく震えた。 なぜだろう。もう、ずっと慣れているはずなのに・・・。 ずっとそうしてきたはずなのに・・・。 何で、今さら・・・? わからない。 でも・・・今・・・一人でいることの辛さが、身に沁みた。 肉体的な痛みよりも・・・この心の痛みが何よりも・・・辛く、苦しかった。 あいつ・・・ やはり、浮かぶのはあいつの顔・・・。 あいつの声・・・。 あいつの腕・・・。 俺を包んでくれたあいつの胸の暖かい、あの感触・・・。 (・・・オルガ・・・) ――オルガ・・・! ここに、いてくれれば・・・ 今、ここに・・・傍に、あいつがいてくれれば、どんなにいいか・・・。 涙が頬を伝う。 彼はもう、何も構ってはいなかった。 ――オルガ・・・!! 本当なのか? 本当に、戻ってきたのか、おまえ・・・?! 「・・・オルガ・・・!!」 「・・・シャニ・・・?」 その声に、目を開けた。 すると・・・そこに―― ・・・あいつがいた。 金髪に緑の目の背の高い姿が・・・じっとこちらを見下ろしていた。 まぎれもなく、あいつ・・・オルガ・サブナックだ。 その瞬間・・・ 彼は全てを忘れた。 ただ・・・必死で身を起こし、目の前の若者の胸に身を投げた。 オルガは驚いたように目を見開きながらも、しっかりとその体を受け止めた。 「・・・馬鹿だな、あんた・・・」 シャニは、オルガの胸に縋りつきながら、小さく呟いた。 ――本当に・・・戻ってきたんだ・・・ 「・・・ああ、馬鹿なのさ、俺は・・・」 オルガはふっと笑った。 この感触なのだ・・・と、彼は悟った。 自分がこの数日、ずっと求めてきて得られなかった感触は・・・。 彼はそれ以上何も言わず、ただ傷だらけのシャニの華奢な体をそっと抱き締めた。 ・・・よく、生きてたな、おまえ・・・。 こんなに、ぼろぼろになって・・・それでも・・・ ――待っていてくれたのか・・・ひょっとして・・・? ――俺が戻ってくるのを・・・? いとおしさが満ち・・・彼はシャニの顔に目線を落とした。 オッド・アイ・・・最初彼を妖しく捉えたあの魔性めいた瞳。 その瞳が今は縋りつくように彼を一心不乱に見つめている。 こぼれ落ちる涙の雫を指でそっと拭ってやると、彼は自然に・・・相手の唇に自分の唇を重ねた。 (・・・オル・・・ガ・・・?) シャニは、そっと瞳を閉じる。オルガの頬に触れてみる。彼がそこに存在していることを確かめるかのように・・・。 ――俺たち、まだ生きてるよな・・・? そんな風に思えるほど・・・ そのキスは・・・天国の味がした。 (To be continued…) |