ONE STEP TO HEAVEN
4 Struggle






 誰もいない、静寂に包まれた空間。

 白い光が、ただ眩しい。
 ――ココハ、ドコダ?
 虚しい問いかけの言葉だけが、その静謐な空間をこだましていく。
 まるで、人間の発するものとも思えない、機械のような単調な響き。
 自分で自分のその無味乾燥な声に驚き、オルガ・サブナックは思わずぞくりと震えた。
 ――オレハ・・・
 言葉を発するたびに、耳元でぶんぶんと音がひどく不愉快な反響をする。
 自分の発する音声なのか、それとも別のところで何か不快な雑音が発生しているのか。

 彼はたまらず口を閉ざした。
 ――俺は、どうなっちまったんだ・・・?
 彼は、大声で悲鳴を上げたい気持ちを必死で抑えた。
 ――落ち着け。落ち着いて、よく考えろ・・・
 ・・・自分に一体何が起こったのか。
 最後に自分が見た光景、あれは確か・・・?

 二粒の、異なる光を宿す宝石の色が、目の前をちらついた。
 自分を天国(ヘヴン)へ・・・いや、地獄(ヘル)へ案内してきた天使の顔をした、あの悪魔・・・
 なんていったっけか・・・
 ――シャニ・・・?
「シャニ・・・?!」
 言葉が弾けた。
 その瞬間――目の前が暗くなった。
 画像がかすみ、揺らめいた。

 まるで異次元空間を通り過ぎたかのような、異様な感覚。
 ・・・不意に彼は現実に戻っていた。
 目を開くと、そこに現実の空間があった。
 眩い白色灯。
 耳障りな音を刻むパルスメーターの電子音。
 鼻につくような薬品の匂い。

 そして・・・彼を上から覗き込む、あどけない顔をした悪魔。
「――ぼくを、呼んだ?」
 天使の顔をした悪魔が、微笑う。
「・・・おまえ・・・!」
 その顔が目に入った瞬間、オルガは思わず身を起こそうとしたが、体はびくとも動かない。
 四肢が台の上に、ベルトでしっかりと固定されているのだ。
 さらに、右腕には点滴針が差し込まれており、体のあちらこちらにつけてある検査器からの金属チップの、あのひんやりとした感触があった。
 全身になんともいえぬ倦怠感や疲弊感が漂う。
 体の芯が震えるほど寒い・・・なのに、表面は熱っぽい。
 そのアンバランスさが、苦しい。

 頭はまだ、どこかぼおっとしている。
 思考がうまく働かない。

 明らかに、いつもの自分の体ではない。
 体の機能が、何らかの異常をきたし始めている。
 しかもそれは人工的に操作されているのだ。

 あの、クスリ・・・か?
 彼は点滴針の先を見上げた。
 そこから流れ落ちてくる液体の袋・・・訳のわからない数字と記号が走り書きされているのが微かに目に入る。

 彼の本能が危険信号を発していた。
(・・・このままでは・・・俺は、奴らに壊される・・・!)
「・・・大丈夫。山は越えたって。あんたの体にちょうど合うようにあの人たちがちゃんと薬の配合を考えてくれたから。・・・もう少ししたら、楽になるよ」
 シャニが、そう声をかけた。
 相変わらず淡々として、気だるそうな物言いだった。

「・・・冗談・・・言うな・・・!俺は、絶対に・・・おまえらの仲間には・・・ならない・・・!」
 オルガはシャニを睨みつけた。
 ――そうだ。ここは、異常だ。
 こいつらは・・・狂ってる・・・!

 オルガはもがいた。
(・・・くそっ・・・!ここから・・・逃げなければ・・・!)
 しかし、どうにもならない。
 ただ、心臓の動悸だけが異様に高まってくる。
 どくん、どくん、どくん・・・
 汗が・・・額から、流れ落ちる。
(・・・どうした・・・?)
 オルガはふと、訝しんだ。
 何かが、おかしい。
「・・・あんまり、暴れない方が、いいと思うけどな。せっかく、落ち着いたところなんだから・・・」
 シャニがゆっくりと言うその言葉すら、どこか遠くから聞こえてくるかのように、妙に非現実的な響きを帯びている。
 目の前の、画像が崩れていく。
 パルスメーターの音が大きく乱れている。
 ――心臓の鼓動が・・・ますます激しさを増し、彼は血走った目を大きく見開いた。
 どくん、どくん、どくん・・・!
 息が・・・でき・・・ない・・・!
「う・・・ああ・・・っ・・・!・・・」
「・・・興奮するからだよ・・・さあ、落ち着いて・・・すぐ元に戻るから・・・」
 シャニが顔を寄せ、そっと彼の頬に手を触れてくるのがわかる。
 シャニの瞳が妖しく輝く・・・その魔性を帯びた瞳の色が目に入った途端、オルガは心の底から震えた。
 新たな恐怖が彼の全身を覆っていく。

「・・・俺に・・・触るな・・・!」
 彼は恐怖に駆られながら、叫んだ。
(・・・この・・・化け物野郎が・・・!)
 その言葉が、彼の口から実際に発せられたのかどうか・・・
 彼にはよくわからなかった。
 しかし、そのとき、彼を見つめる少年のその魔性の瞳が、ほんの僅かに暗い翳りを見せたことは、彼を驚かせた。
 それは、魔物ではない・・・寂しさや哀しみといった、人間としての生々しい感情が、少年から初めて感じとられた一瞬だったかもしれない。
「・・・俺は・・・化け物なんかじゃ・・・ない!」
 シャニは、ぽつりとそう言った。
 淡々とした口調ではあったが、その一言は、なぜかオルガにずきりと響いた。
 いつしかオルガを襲った興奮の嵐はおさまりつつあり、心臓の鼓動も再びゆっくりと元に戻ろうとしていた。
「・・・母さんも、いつもそう言った・・・けど、俺は・・・化け物なんかじゃない・・・!・・・違うんだ、違う、違う・・・違う・・・!」
 泣きそうな顔・・・幼い子供の顔そのままの表情だった・・・。
 オルガは呆気にとられた。
 しかし同時にひどい罪悪感にも襲われた。

 ――俺が・・・悪いのか・・・?
「――あ・・・お、おい・・・」
 言いかけたときには、シャニは既に後退っていた。
 何かに怯えたように肩を僅かに震わせながら・・・。

「おや、いけませんねえ。どうしたんですか。・・・この子をあんまりいじめないで下さいよ」
 その背後から不意に現れたのは、スーツ姿の例のブルーコスモスの盟主だった。
 横には白衣の男が二人付き添っている。

 震えるシャニの背中を、盟主は大事そうに後ろからそっと抱きかかえるように支えた。
 シャニは子供のように、そのまま彼の胸にすがりつく。
「・・・大丈夫ですよ。さあ、向こうでしばらく横になってらっしゃい」
 アズラエルはシャニの頭をそっと撫でながらそう言うと、彼を向こうへ押しやった。
 横の白衣の男の一人に目配せをすると、男がすかさずシャニに付き添うように、一緒に部屋を出て行った。

「・・・さて、ご気分はどうですか?オルガ・サブナックくん」
 アズラエルは改めて、オルガの方へ近づくと、おもむろに上から彼を見下ろした。
「いいわけ、ねえだろうが!・・・俺をどうこうしようっていうんなら、無駄なことだと何度も言ってるだろう。・・・早くここから解放しろ!こんなことは馬鹿げてる・・・」
 オルガはそう怒鳴るように言うと、アズラエルに激しい怒りの目を向けた。
「・・・まあ、そう短気を起こさずに・・・あんまり興奮すると、また苦しくなりますよ。今しがたでわかったでしょう。隣から、モニターで様子は見ていましたよ。
 ――きみの体はこの薬剤にまだ完全には適応してないのだから・・・もう少し微調整がいるんです。そうですね?」

 アズラエルが隣の研究員を促すと、彼が一歩進み出てオルガを見た。
 彼は手に持ったファイルをおもむろに覗き込んだ。
「・・・概ね、理想的に進んでいます。安心してください。この分なら、もう2、3日中には、新型MSに登場してもらってテスト飛行までこぎつけられそうですよ」
「お、おい、ちょっと待てよ・・・!だから、誰がおまえらのMSに乗るなんて言ったんだ・・・!」
 抗議しようとするオルガに、
「無駄ですよ。きみは必ずMSに乗ることになる。もう、私たちの仲間だ。どうしたって逃れられないんですよ・・・」
 アズラエルがぴしゃりと言い放った。
 その眼が蛇のように粘着質で、狡猾な光を放った。

「そういうもんなんですよ。人間の体は弱い。心も体も・・・という意味ですよ。
 特にナチュラルの体は脆いものだ・・・だから作り変えるのも簡単なんです。ちょっと操作すれば面白いくらいに強化できる・・・」

「――馬鹿な・・・そんなことをして、何になる・・・それじゃあ、まるで・・・コーディネイターと変わりないじゃないか・・・!」
 オルガの心に冷え冷えとしたものが流れていった。
 やはり、この男は・・・狂っている・・・!
「・・・きみも、驚きますよ。今度コクピットに入ってごらんなさい。恐怖心など、微塵も感じられないでしょう。
 きみは、何も恐れなくてよくなる。素晴らしい世界が開けるんです。きっと、我々に感謝したくなりますよ・・・」

「――俺は・・・そんなことをしてまで、飛びたいとは思わない・・・!」
 オルガはアズラエルを挑戦的な目で見返した。
 アズラエルはにやりと笑いながら、やれやれと肩をすくめてみせた。
「さあ、どうですかね・・・今にわかるでしょう・・・どちらが正しかったかということが・・・今にきっと、ね・・・」

(To be continued…)

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