ONE STEP TO HEAVEN
5 Intermission






「どうですか?彼の様子は・・・」

 ムルタ・アズラエルは、入ってきた研究員が口を開くより先に、気ぜわしく声をかけた。
「はあ・・・それが・・・」
 白衣の男は困ったように言葉を濁した。
 それを見て、アズラエルは僅かに眉を上げた。
「なるほど・・・まだ頑張ってるわけですね。なかなか、しぶといな。・・・まさか、投与する薬の量が足りないのではないでしょうね」
 そう言うアズラエルの言葉は、明らかに鋭い棘を含んでいた。
 じろりと見上げるその眼には、相手をぞくりとさせるほど冷やかな光を湛えている。

「い、いえ、そんなことは・・・」
 男は慌てて否定したが、敢えてアズラエルとは視線を合わせようとはしない。
 そんな男を小馬鹿にしたように見ると、アズラエルは急にその話題から興味を失くしたように、ぷいと顔をそむけた。
「・・・ま、よいでしょう。では、もう少し続けましょうか。しかし、あまりのんびりもしていられませんのでねえ・・・。何かもっと効果的な方法を考えてもらわねば・・・――頼みますよ」
 その言葉に、男が大きく安堵の溜め息をつくのが聞こえた。
(・・・ふん、役立たずめが・・・)
 アズラエルは、ひそかな苛立ちを覚えながら、そう独りごちた。
 
 
 ――誰かが、泣いている。
 誰だろう?
 聞き覚えのある声・・・
 彼がよく知っている誰か――
(・・・あなた・・・!)
(・・・やめて――・・・)
(・・・やめてください、あなた・・・!)
 すすり泣く声。
 怒号。悲鳴。
 物が倒れる音。
 血に塗れた顔・・・あれは――
 あれは・・・母の、涙と血に塗れた、あのいつもの・・・
 そう、あの惨めな悲愴感に溢れた悲しい笑顔だ・・・
 ・・・二度と見たくもないと思っていた――
(――何でなんだよ・・・!)
 彼はいつもそう思っていた。
 なぜ、母はあんな目に遭いながらも、それでも、いつも無理に笑おうとするのか。
 正気をなくし、暴れまくるあの父から、気を失うほど、殴られて・・・
 ・・・それでも、彼女は微笑んでいた。
 鼻や唇から滴り落ちる血を拭いもせず・・・

 彼女は一心に、愛する男に微笑みかけようとしていたのだ。
 ――いいのよ、あなた。
 たとえあなたがどうなろうとも、わたしにはあなたのことは全てわかっている。
 ――だから、あなたが何をしようとも構わない・・・わたしは、あなたを赦すから・・・。

 ・・・超然と、全てを悟りきった者のみが持つ、あの独特の賢い光を目の奥に閃かせ、彼女は唇をそっと緩める。
 その慈愛の光に満ちた瞳を傍らの男に投げかけながら。

 まるで、何十世紀も昔に描かれたフラスコ画の聖女像のように、にっこりと、たおやかに。
 相手への思いやりに溢れる、博愛美の精神を具現化したかのような、この上もなく美しい一人の女性の姿。
 しかし・・・それは同時に、何と悲愴で、陰惨な光景でもあったことか。
(・・・何でなんだよ・・・!)
 オルガは再び同じ問いを繰り返す。
 絶望的な、それでいてなお何かに縋りつこうとする哀れなその瞳に、募りくる苛立ちを隠せず・・・。

 ――惨めだ・・・
 哀れみとも軽蔑ともつかない感情が、彼の中に激しく湧き上がってくる。
 ぐっ・・・!
 と、その瞬間、彼は強い吐き気を催した。
 胃の腑を引っくり返すかのような、突然の激しい嘔吐感・・・
 彼は・・・吐いた。
 吐瀉物から、忽ち鼻につくような化学薬品の臭いが立ち昇った。
 ――畜生・・・!
 オルガは呻いた。
 全身から冷たい汗が噴き出すのがわかる。
「・・・何なんだ・・・何でそんな目で俺を見やがる・・・!」
 彼は目の前の母の幻想に向かって、狂ったように叫んだ。
 ――消え失せろ・・・!
 胸の内でなおも苦しい叫びを上げながら、全てを打ち払うように頭を強く振り、顔を上げたその前にいたのは、しかし、母親の姿ではなかった。
 彼の意識は突然現実に立ち戻った。

 冷たい床の感触。
 暗い箱のような小部屋。

 横たわる自分のすぐ傍でじっと見守る少年。
「――おまえか・・・」
 オルガの中に忽ち全ての記憶が甦った。
 あの実験室での最後の少年とのやりとりが・・・。
 彼の色の違う例の瞳が闇の中で、無表情に揺れていた。
 不思議なくらいに今はその瞳が自然に映る。
 怖れは、ない。
 ただ、そこに感じられるのは、そう・・・かつて母から感じたのと同じものだ。

 彼が今さら母の幻を見たのは、この瞳のせいだったのかもしれない。
(・・・俺は、化け物じゃない・・・!)
 少年の震える声が、彼の耳元に再び甦ってきた。
「・・・悪かった・・・」
 オルガはぼそりと呟いた。
 相手の肩が僅かに反応するのがわかった。
「・・・おまえは、化け物なんかじゃねえよ・・・」
 そう・・・本当に化け物と呼ばねばならないものは、他にいる・・・。
「・・・ほんとに・・・そう、思う・・・?」
 淡々とした声が、囁くように返す。
「――ああ」
 オルガはそのとき、シャニの細い手が彼の顔にかかるのを感じた。
 驚いた彼が口を開こうとしたその唇の上を、少年の指がそっと撫ですぎ、口元に残った汚れを拭い取っていく。
「・・・苦しいだろう?・・・早く楽になればいいのに・・・」
 皮肉ではなく、それが少年なりの正直な思いであるということが、ようやくわかった。
 だから、それまでのような腹立たしさは感じなくなっていた。

「おまえ――」
 オルガは、少年の腕を掴んだ。
「・・・おまえ、何でこんなところにいるんだ?・・・おまえには、わかっているのか。
 あいつらは、俺たちを人間として見ちゃいない・・・俺もおまえも、ただの実験台として、利用しようとしているだけなんだ・・・
 このままこんなことを続けていれば、ボロキレみたいになって、最後は自分が誰かさえもわからなくなっちまうんだぞ・・・」

 ――そう、『あいつ』みたいに・・・
 最後は、自分を愛した女さえ、その手にかけて。
 しかも、そのことすら、わからなくなって。
 既に『あいつ』の意識の中には彼女は存在しない。
 恐らく自分自身の存在さえも――

 そして、ただ――馬鹿みたいに笑い続ける・・・
 自分の顎に当てた筒先・・・そのトリガーにかかる指先が動き・・・
 サヨナラ・・・一発で、全てが終わる――
 少なくとも、『あいつ』にとっては。
 ただ、一瞬、世界が振動し・・・それで、ジ・エンド。
 ――だが、俺にとっては、そうではなかった。
 俺にとっては――それは始まりでしかなかったのだ・・・
 ――全身に、激痛が走った。
 オルガはシャニを掴んだ手を思わず離した。
 苦痛に身をよじる。

「くっ・・・!」
 彼は歯を喰いしばって必死にその痛みと戦おうとする。
 そんな彼の体を、ふわりと包み込むような柔らかな感触。
 シャニが、彼の痛みに震える体をそっと抱え込もうとしているのだった。
 その無邪気な瞳が、何かを訴えるかのように、じっとオルガを見つめる。
「・・・それでも、いいんだ・・・」
 シャニはやがて一言ぽつりとそう言った。
 無感情な、淡々とした口調は変わらないが、それでもなぜかオルガには彼の哀しみやその孤独感が少し垣間見えたような気がした。
「・・・だって、俺は、とっくに死んでたんだから・・・」
 ――俺は・・・
 ――俺は、母さんに殺されたんだ・・・
 その言葉は、苦痛に悶えるオルガの胸に、新たな衝撃の引き金を引いた。

(To be continued…)

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