ONE STEP TO HEAVEN
9 Escape






「・・・なんで、なんだよ?」
 シャニがぽつりと呟く。
「・・・ん?」
 オルガがふと首を傾げる。
 もうどれくらいの時間が経っていただろう。
 あれから・・・彼らは互いに一言も口をきかず、ただずっと体を寄せ合ったままの状態を続けていた。
(・・・少しだけだぞ)
 そう思いながらも、オルガはいつしか、相手を抱き締める感触に心地よさを感じている自分自身を意識し、ひそかに困惑していた。
 しかし、それでいて、腕の中の少年を突き放す気にもなれない。
「なんで、って・・・何が?」
 オルガは自分でも意味のない答え方をしているなと思いながらも、そう聞き返した。
「・・・オレ・・・今まで、こんな風に誰かから抱き締められることって・・・なかった。こんな風に・・・こんな風に自然に、さ・・・」
 シャニは明らかに戸惑っていた。
 彼の中で、何か葛藤が生じているように見えた。

 そうだ。
 今まで、自分はこんな風に、心から安心して誰かにすがりつけたことなど一度もなかったのだ。

 彼は、不意にそう悟った。
 誰かが彼を抱き締めるとき・・・それは、常に相手に何か欲求があるときだった。
 彼はその見返りを必ず要求された。
 そして、求められるまま、『報酬』を支払ってきたのだ。
 誰かの腕の中に抱かれるときは・・・いつも、そんな風だった。
 愛情がなかった・・・とはいえない。
 ただ、その愛情には、いつもどこかに歪みがあった。

 だから・・・彼も、誰かにこんな風にすがりつけることがあるとは、今まで想像もしていなかった。
 生まれてこのかた、母の胸の中に抱かれた記憶さえない。
 そんな彼が、こんなに心地よく、今、他人の腕の中に身を寄せている。
 何の抵抗もなく、受け入れられて・・・。

 ――オルガ・サブナック・・・不思議な奴。
 シャニは彼を見上げた。
 何で、なのかな。
 何で、オレ、こいつのことを、こんなに・・・?

 オルガと、視線がぴたりと合った。
「何だよ・・・心配すんなよ。俺にはその手の趣味はねえって言っただろ!」
 オルガはシャニのその独特の瞳をまともに覗き込むと、忽ち落ち着かない気分になって、何となく目をそむけた。
「そんな風に見んな!・・・妙な気分になっちまう・・・」
 最後の言葉は、聞こえないくらいぼそりと呟いた。
 ――ちっ、こんなところ、誰にも見られたかねえな。全く・・・。
 オルガは罰が悪そうに、ふと溜め息を吐く。
 ――妙な気分・・・か。
 ほんと、こいつ、妙に色っぽく感じるときあるんだよな。
 まるで・・・まるで――女抱いてるときみたいに・・・。

 そこまで考えて、オルガは急に体がかっと熱くなるのを感じた。
(馬鹿!俺、何考えてんだ!)
 彼は妙に焦った。
「――いいよ」
 そのとき、不意にシャニが言った。
 彼はそっと身を起こして、オルガをじっと意味ありげに見つめた。
「え?」
 オルガはどきっとして、それでも思わずシャニを見つめ返した。
 何だか妙に頬が火照る。
(わっ、何だ、このシチュエーション・・・!)
 オルガはどぎまぎしながら、この妙な間を何とかしようと、取り敢えず口を開く。
「いや、その・・・いいって言われても、だな。こっちは、その・・・そういう趣味は・・・ほんと、ダメっつーか、いや、ほんとに・・・俺、困るんだよな・・・だから、悪いんだけど・・・その・・・」
 訳のわからない言葉が次々と飛び出してくる。
 シャニはにやりと笑った。
「・・・何考えてんの、おにーさん」
「ええっ?」
 オルガはまたまた間の抜けた応答をした。
 そして相手のいかにも人を食ったような顔を見て、忽ち自己嫌悪に駆られた。
 ――畜生、こいつ・・・!
 からかわれた、ということがわかった瞬間、彼の頭にかっと血が上った。
 突然、力いっぱい少年を押しのける。
「・・・じょーだんじゃねえよ!」
 彼は怒鳴った。
 突き飛ばされた少年は、驚きも怒りもせず、すぐ目の先で、まだこちらを見ながらにやにや笑っている。
 その様子を見ていると、ますます彼の苛立ちは募った。

「・・・どーいう奴なんだよ、おまえって奴はよ・・・!」
 オルガはシャニを睨みながら、言った。
(・・・子供みたいに泣きじゃくってるかと思えば、急に大人びやがって・・・。
 こんな風に、したたかな計算高い顔になって――人を馬鹿にしたように見下ろしてやがる・・・)

 オルガは腹立たしい思いに駆られながらも、やはり一方ではそんな彼に惹かれずにはおれない自分がいることも、よくわかっていた。
 それは、彼と出会った瞬間・・・
 ・・・あの、ナイトクラブで初めて彼に声をかけられたあのときから、既にオルガはシャニ・アンドラスの不思議な魔力のとりこになっていたのかもしれない。

 そうだ・・・こいつが、俺をここまで引っ張ってきた。
 こいつでなけりゃ、こんなところまで、のこのこついてくることもなかったのかもしれない。
 そう考えると・・・シャニに全ての責任を押しつけたくなってくる。
 だが、憎めない。
 なぜか、こいつだけは――。

 いろいろな思いが渦巻いて、オルガはおかしくなりそうだった。
(俺は、こいつが嫌いなのか、好きなのか・・・どっちなんだ?)
「おまえって・・・」
 オルガは思わずそんな胸中の複雑な思いを声に出した。
「・・・おまえって、ほんとわかんねえ奴だよな。見てるとなんか、腹の立つ奴っつうか、イライラしてくるっつうか・・・くそっ、けど、何でだろうな。 おまえ見てるとなんか、ほっとけねえんだよな・・・! ほんと、おまえって、どんな奴か、考えれば考えるほどわかんねえーよ。何なんだよ、おまえはさ・・・! 何で俺の前に、現れたんだよ。何で俺をほっといてくれなかったんだ・・・おまえと出会ってから・・・俺、おかしくなっちまった・・・。 これは、クスリのせいじゃねえぜ。 ――おまえだ。全部、おまえのせいだよ・・・クソッ!」
 オルガはそう一気にまくし立てると、ふうと大きく息を吐いた。
 何だか、言わなくてもいいことまで言ってしまったような気もするが、感情の波に煽られて、自分でも止めようがなかったのだ。
 彼は、ふと相手の反応が気になって、さりげなく視線を上げた。
 シャニは、相変わらず、感情の読み取れない淡々とした瞳でじっと彼を見つめていた。
 だが、そこにふと何か柔らかな光が灯ったように見えた。
「・・・おんなじ、か」
 シャニは、つと視線を落とすと、静かにそう言った。
「・・・なに?」
 オルガは気をそがれた。
 予想していた反応と、あまりにも違う。
「オレも・・・おんなじだよ」
 シャニは、今度ははっきりと、言った。
 それでも、驚くほど穏やかで静かな口調だった。

「オレも・・・あんた、見てるとイラつくんだ・・・何でかな」
 そう言うと、シャニはにっこり笑う。
 いかにも天使のように、あどけない微笑がその口元に広がる。

「・・・だからさ、何か、虐めたくなるんだよね」
「あのなあ・・・!」
 にっこり笑って言うことか、それが!
 オルガは悔しそうに言いかけたが、それ以上言葉が出てこない。
(・・・何だよ、全く。さっきまで人にぎゅっとすがりついてきてた奴のいう台詞か、これが・・・!)
「けど、もう、やめた。・・・あんたをからかうのも、これで終わりだ」
 シャニはそう言うと、オルガの前に、何か小さな金属製の箱をぽんと投げ出した。
「何だよ、これ・・・」
 オルガがそれを不審げに手に取って見る。
 蓋を開けると、中には幾つかカプセル薬が入っていた。

「それで、何日か、もつはずだ」
 シャニが事も無げに言った。
「・・・早いとこ、専門の医者に診てもらって、体を元に戻すんだね」
 彼は立ち上がると、壁際に行き、持っていたカードで扉のロックを解除した。
「・・・出たいんだろ、ここを?」
 呆然と座り込んでいるオルガをじろりと一瞥し、促す。
 オルガは何が何だかわからないまま、立ち上がった。
 ふらつきながらも、彼の足は何とか床を踏みしめることができた。
「・・・どういうこと・・・なんだ?」
「見てわかんない?あんた、ボケてんの?・・・連合軍の元エースパイロットさん」
(くっそー、いちいち、腹の立つ・・・!)
 しかし、怒っている暇はなかった。
 シャニの瞳は真剣だった。
(こいつ・・・マジかよ?)
「おまえ・・・マジ――なのか?」
 今さら聞き返すような質問ではなかった。
 案の定、シャニは大仰に溜め息を吐いてみせた。
「ここでずっと頑張ってるつもりってんなら、別にいいんだけどね」
 オルガはふっと笑った。
 彼の瞳に忽ち、生気が宿った。
「冗談!・・・やなこった」
(・・・賭けて・・・みっか。もう一度・・・生き延びるって方に・・・)
 こいつが、チャンスをくれるっていうのなら・・・。
 彼はシャニを、真っ直ぐ見つめ返した。
 同じように、真剣な瞳で。

「・・・もちろん、逃げてやるさ。チャンスがあるってんなら・・・俺は、おまえを信じるぜ!」

                                     (To be continued…)

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