ONE STEP TO HEAVEN -Phase 2-
1 The Crime
遠くの方で喧しく鳴り響くサイレン音。
行き交う車のヘッドライトが眩しく交差する。
慌しく人の駆ける足音が、冷たいアスファルトを打ちつけていく。
狂ったような叫び声。悲鳴。怒号。
それらの狂騒の下をかいくぐるように、クロト・ブエルは闇に包まれた路地を走りに走った。
(・・・捕まってたまるかよ!)
彼は嘲笑うかのように、知り尽くした狭い道を迷いなく曲がったり通り抜けたりしながら、鮮やかに追っ手を交わしていく。
――人を、殺した。
まだ胸の内がぞくぞくして、荒々しく広がる興奮の波がおさまらない。
・・・仕方がなかったとはいえ・・・。
それでも・・・あんなに多くの人間を・・・
気付いたときには、そこには・・・
血まみれになった自分がただひとり、忽然と立ちすくんでいたのだった。
そして、その周囲には・・・
彼はその情景を思い出すのを避けた。
忽ち、おさまった筈の嘔吐感が再び込み上がってきそうになる。
あのとき・・・自分でも信じられないような光景を目に入れたその瞬間、彼は思わずその場にしゃがみ込み、何度も吐いたのだ。
胃の中に残っているものを全て吐き出し、もはや吐くものがなくなってしまった後でさえも、嘔吐感は止まらず、何度も何度も・・・彼は呻き声を上げながら、吐き続けた。
唇の端からこぼれる胃液の酸っぱい味すら、もはや彼の舌は認識しようとはしなかった。
(・・・俺・・・どうしちまったんだろう・・・)
人を殺したのは・・・何もそれが初めてではなかった。
この掃き溜めのような街で生きていくためには、綺麗事など言っていられない。
面白くもない家を飛び出して以来、この街で悪い仲間たちとつるんでは数々の悪い遊びにも手を染めてきた。
しかし、それにしても――
・・・今度のこれは、あまりにも異常だった。
凄まじい殺戮の衝動が一気に自分を包み、無意識のうちに体を動かしていたかのようだった。
自分のやった行為の怖ろしさに、彼は震えた。
この手が・・・。
ナイフを握る指先が・・・まるで自分のものではないかのようだった。
誰か、他のものが彼の体を借りているかのような錯覚にさえ陥るほど・・・彼自身の意識は明瞭ではなかった。
そもそも、喧嘩のきっかけをつくったのが、どちらからだったのかということすら、彼の記憶には残っていない。
なぜ、自分があれほどまでに興奮していたのかすら・・・。
突然自分を襲ったあの凶暴な荒々しい衝動。
心臓の鼓動が激しくなり・・・呼吸が乱れ、息苦しさが増した。
全身の血が逆流していくかのようだった。
(・・・殺して・・・やる・・・っ・・・!!)
激しい殺意が渦巻き、その瞬間、頭の中が真っ白になった。
そしてその後は――・・・
――何人・・・殺した・・・?
彼は恐れを感じながら、自問する。
一人殺した後は・・・早かった。
次からはもはや本当に何の躊躇いもなく相手の首にナイフを突き立てた。
肌を・・・肉を切り裂くずぶりというあの感覚が、彼の全身を震わせ・・・これまでに感じたことのないほどの・・・目眩めくような刺激と興奮が襲った。
・・・もはや、暴走は止まらなかった。
そうして・・・全てが終わり、我に返ったそのときには・・・
彼はその場にいた者を片っ端から殺し尽くしていた。
なぜ・・・?
いや、やめよう。
今さら、そんなことを考えたって仕方がない。
全ては終わってしまったのだから。
今は・・・ただ、逃げ延びるしかない。
――畜生・・・!誰がのこのこ捕まるかってんだ・・・!!
荒々しく高ぶる心に押されるように、クロトは前方を睨み据えながら、ただ一心不乱に走り続ける。
心臓の鼓動が激しい音を打ち鳴らし、今にも彼の鼓膜を突き破るかのようだった。
奇妙な浮遊感と眩暈を感じ、クロトはふと足の速度を弱めた。
(・・・な・・・んだ、この感覚は・・・?・・・)
彼は頭を振った。
自分の体が自分のものではないかのように感じられる。
これは・・・?
いつもと・・・違う。
あの・・・クスリ・・・か?
頭の芯が妙に疼く。
さっき打った薬・・・あれが、何か自分の体に異変を起こしているのだろうか・・・?
その瞬間、彼は悟った。
(・・・まさか、あのクスリが・・・?!)
自分を自分でなくさせる原因となったもの・・・?
まさか・・・
クロトは呻いた。
足がのろくなる。
体がふらついた。
あの、仲買人(バイヤー)の奴・・・!
新しく出回っているクスリだとか何とか・・・うまいこと言いやがって・・・。
(――これはやばいくらい、イイぜ!値は少々はるが、いつもの奴より、ずっと早く昇天するぜ!・・・絶対お勧めだな)
くそっ・・・いっぱい喰わせやがったな!
クロトはたまらず立ち止まると、路地の壁に背をもたせ、はあはあと荒い息を吐いた。
心臓が破裂しそうだ。
猛烈に気分が悪い。
そして・・・体に力が入らなかった。
彼はそのまま、背を壁に擦りつけながら、ずるずると地面に座り込んだ。
思考が・・・鈍る。
彼は何も考えたくなかった。
――何も考えられなかった・・・。
ふと気付くと――
目の前・・・ぼんやりと霞む視界の中に、黒い人影が滲んでいた。
(・・・誰・・・だ・・・?)
それは、全く知らない顔だった。
スーツをすらりと着こなした、金髪の見知らぬ男が目の前に立ち、自分をじっと見下ろしている。
にやりと笑うその不敵な微笑が闇の中にほのかに浮き上がる。
忽ちクロトの本能は危険の匂いを嗅ぎ取り、彼は全身を硬直させた。
「・・・おまえ・・・っ・・・!!」
・・・何者だ、と問いたい言葉が舌の先でもつれた。
ただ唇を震わせ続けるクロトの前に、屈み込んできた相手の手がいきなり彼の顎を持ち上げるのがわかった。
しかし、その手を振り払うことすらできないほど・・・彼の体は既に彼自身のものではなくなっていた。
困惑する彼の目の前すぐ近くに男の端整な顔立ちが迫った。
美しいが・・・どこか冷酷さを感じさせるその面。
クロトは一瞬、凍りついた。
開いた唇からはただ荒い息が洩れ出るだけだった。
「・・・どうやら、あの薬はきみの体には合っているようだ・・・」
男がくすりと笑いながら、そう言った。
・・・なっ・・・!!
クロトは訳が分からず、ただ呆然と目を見開いた。
「・・・きみの動きは素晴らしかった。実に見事な殺し方だったよ・・・これなら、上手くいきそうだ・・・」
(・・・なんだよ、こいつ・・・何を言っている・・・?!)
クロトは男の手から逃れるべく、自分の腕を持ち上げようとしたが、それはどうしても動こうとはしなかった。
(くそっ・・・!!)
彼は舌打ちした。
「・・・う・・・っ・・・」
言葉さえ上手く出てこない。
――こいつ・・・!!
目の前の男を睨みつける。
男は相変わらず、不気味な微笑を浮かべながら、満足げにそんな彼を見返した。
「・・・大丈夫。心配することはない。きみは、ただ私に全て任せてくれればいい。・・・決して悪い話じゃないよ。今度目覚めたときには、落ち着いてゆっくりと話せるだろうからね・・・」
今度・・・?
ちょ、ちょっと待てよ・・・!!
クロトは抗議の声を上げようとしたが、やはり無駄だった。
体は鉛のように重く、全くいうことをきかない。
そして・・・
にやりと笑った男の片手の先に何かきらりと光るものを認めたとき、クロトの全身を訳のわからない冷たい恐怖が包み込んだ。
――何する気だよ・・・!
――やめろ・・・っ・・・!!
しかし、そう思ったときには、既に彼の首には冷たい注射針の感触があった。
肌を刺す鋭い痛み。
怪しい薬が、再び体内に流れ込んでくるその嫌な感覚・・・。
(・・・いや・・・だ・・・!)
目の前が白くなる。
逆流した全身の血が一気にどこかに吸い込まれていくかのようだった。
次の瞬間、激しい痙攣が彼の全身を襲った。
呼吸が・・・いったん止まる。
そして・・・
彼の意識は完全に、闇の底に沈んだ。
(To be continued…)
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