Bad Medicine (1)





 
・・・ギルバート・デュランダルの私室に入るその前から、既に何となく調子は悪かった。
 よほど行かないでおこうかと思ったが、先程、艦橋(ブリッジ)で見たギルバートの眼差しに吸い寄せられるかのように、気が付くとレイの足は自然に彼の部屋へと向かっていた。
「・・・来たね」
 レイが来るタイミングをちょうど見計らったかのように、彼が部屋の前に来た瞬間、扉がすっと開いた。
 扉口に立ってにっこりと彼に微笑みかける姿。
 それは・・・私服に着替えた、彼にとってはごく見慣れたいつもの『ギル』だった。
「・・・ギル・・・」
 その呼び名が唇からこぼれたとき、なぜかぞくりと胸が震えた。
 ――ギルバート・・・
 
(・・・レイ・・・)
 
 いつか聞いたあの言葉が、再び耳の奥でこだまする。
 
(・・・おまえを・・・愛している・・・)
 
 ――本当・・・なのか・・・?
 
レイの体は小さく慄く。
 ――本当に・・・あなたは俺のことを・・・?
 
(・・・信じて・・・いいのだろうか・・・?)
 
 不安と期待が入り乱れ、彼は惑う。
 
 自分の抜け落ちた記憶を、埋めてくれるたった一人の存在・・・。
 暗い闇の中で、寒さに震えながら、絶望の孤独の淵にただ蹲っていた彼。
 
そんな彼のもとに手を差し出してくれた唯一の光・・・
 
彼を暗闇から救い出してくれた人・・・
 それが、ギルバート・デュランダルだった。
 彼の、『全て』――・・・だった。
 ――だから・・・
 
 ・・・ただ、縋りつきたいと思った。
 
自分の生きている証を示してくれる唯一の存在・・・。
 自分を『愛している』という、この人に・・・
 
(・・・俺も、あなたを・・・)
 
――愛して・・・いるのだろうか・・・?
 
 レイには、人を愛するという気持ちがどういうものか、わからない。
 今まで、本当に誰かを愛したことなど・・・一度もなかったから。
 愛したことも・・・
 
愛されたことも・・・
 彼の記憶の中には・・・何もない。
 何も・・・
 ――ギルに出会うまでは・・・。
 
「・・・会いたかった・・・」
 こんな言葉を他の誰に言えるだろう?
 ――ギルだけだ。
 他の誰にも・・・
 こんな顔、見せたことはない・・・。
 あなただけなんだ。
 ギルバート・・・あなたには、それがわかっているのだろうか。
 あなたは、俺にとってこんなにも、特別な存在になってしまった・・・。
 
「・・・私もだよ、レイ」
 微笑が、近くなった。
 背後で扉が閉まり、その直後に響く電子ロック音が微かに耳を震わせた。
 ギルバートの腕が、そっとレイの背を引き寄せた。
 レイの体が、僅かに震えた。
 何か・・・胸の奥がきりりと痛むような気がした。
 打ちつける心臓の鼓動がやけに大きく鼓膜に響く。
 呼吸が、僅かに乱れていた。
 おや?・・・と、ギルバートが傍でふと首を傾げた。
 レイの様子がおかしいことに気付いたのだ。
「・・・顔色が、悪いな」
 そう言うなり、レイの背に当てていた手を肩から首筋に回すと、顎を持ち上げ、その顔を自分の方へ向けさせた。
「・・・どこか、具合でも悪いのか?」
 ルビーの光を放つその謎めいた双眸が、瞬きもせず、レイの少女のような白く美しい面をじっと覗き込んでくる。
 レイは忽ち落ち着かなくなって、相手の視線を避けるように、僅かに顔をそむけようとした。
「・・・いえ・・・別に――・・・」
 大丈夫・・・と言いかけて、彼は突然言葉を途切らせた。
 
 
――あ・・・ッ・・・!・・・
 
 突然、その痛みがやってきた。
 きりきりとした、胃を苛む鋭い痛み。
 彼は、思わず小さな呻きを洩らすと、庇うように片手で胸を押さえた。
 体がぐらりと揺らめく。
 そのまま、倒れてしまわなかったことが不思議だった。
 ギルバートが支えてくれたからだと気付くのに、数秒を要した。
 
「・・・ここが、痛むのか?」
 ギルの声が、耳元で囁く。
 同時に、彼の手が自分の手をそっと押しのけて、痛む箇所に触れようとしているのがわかった。
(・・・ギル・・・?)
 戸惑うレイをよそに、ギルバートの手が、ゆっくりと彼の胸から腹部を撫でさすっていった。
 制服の上から、暖かく力強いその指の感触が伝わってくる。
 痛みが・・・和らいでいく。
 人の手のぬくもりがこんなに心地よいものであるとは、レイは思ってもみなかった。
 それは・・・
 心地よくもあり、同時に・・・奇妙な興奮を伴う接触でもあった。
(・・・・あ・・・・っ・・・・・?!・・・・・)
 レイの唇から、言葉にもならぬ息が洩れた。
 ギルバートの指がそっと彼の腹部を撫でていくその感触は・・・どこか、彼の体の内奥を刺戟する動きでもあった。
 なぜか頬が熱く火照った。
「・・・もう・・・いい・・・から・・・――ギル・・・ッ・・・!」
 レイは必死で呟いたが、ギルバートはまだレイを放さなかった。
「苦しいのに、我慢することはない。ほら・・・力を抜いて・・・」
 レイの腹部に手を当てながら、ギルバートはレイの顎を持つもう一方の手に僅かに力を入れた。
 恥ずかしがるレイの上気する顔を目の前にして、彼は微笑した。
「・・・大丈夫だよ、レイ・・・。何も考えなくていい・・・おまえはただ、私を信じていればいいんだ・・・」

 ――私は決しておまえを見捨てない・・・。
 ――私はいつも、おまえの傍にいる・・・。
 
 その深い紅の双眸の中に吸い込まれていきそうな錯覚に襲われ、レイは思わず叫びそうになった。
 しかしそのレイの唇は次の瞬間には、相手の口に塞がれていた。
(・・・・・・・!!)
 レイは驚きに目を見開きながらも、抗いもせず、ただそのくちづけを受け容れた。
 ギルバートの舌は、壊れ物に触れるかのように、そっとレイの口内をやさしくまさぐっていった。
 レイは目眩めくような感覚のまま、ただギルバートの舌の愛撫になされるがままになっていた。
 ほんの僅かな間の接触。
 一刻の後・・・
 
何事もなかったかのように、不意に唇は離れた。
 微笑むギルバートの瞳が霞んで見えた。
「・・・良薬は苦いものだというが・・・これではあまり効果はなさそうだね」
 苦笑しながら、そう言うギルバートの言葉に、何と答えてよいかわからぬまま、レイはただ瞳を閉じ、黙って相手の体に身を任せた。
 ふわりと体が浮き上がり、ギルバートに抱き上げられたことがわかった。
 
そしてそれが、彼の僅かに残った意識が知覚した最後の瞬間だった・・・。

                                         (To be continued)


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