Blue Rain (11)













 意識が飛んだのは、ほんの一瞬のことだったろう。
 だが、その一瞬が勝負を決した。
 目を開けたときには、コンソールユニットは全て灯が消え、狭いコクピットの中は死んだような静寂に包まれていた。
 詳細な状況はわからないが、取り敢えずは、何とか地表に着いたようだ。
 とはいえ、ぐずぐずしているわけにはいかない。
 敵も近くに着陸している筈だ。
 機体が使い物にならない以上、外へ出るしかない。これ以上不利な状況をつくるわけにはいかないのだ。
(……っ……!)
 体を起こそうとして、ディアッカは思わず顔を顰めた。
 骨や関節がぎしぎしと痛む。恐ろしいほど体が重い。
 それでも何とかシートベルトを外し、非常用の電源を入れた。仄かな灯がコクピット内を照らしたとき、彼は心底ほっとした。勿論機体を飛ばすことは無理だろうが、少なくともここに閉じ込められることはない。彼は隣りについている非常用のハッチ開閉ボタンを押した。
 鈍い電子音とともに、ゆっくりとハッチが開き始める。
 冷たい風と水滴が吹き込んでくると、そういえば、と外の天候が荒れていたことを思い出した。
 ちっ、と舌を打ち、ハッチを閉めようと思ったそのとき、目の前を黒い影が覆った。
 突きつけられた銃口が、彼の動きを止めた。
 呆然と見上げたその先に、にやりと笑う顔が見えた。
 見覚えのある、顔だった。
 たった一度会っただけなのに、すぐに認識できた。
 それだけ、強く印象に残っていた。
「……て、めえ……っ……!」
 声が上ずった。
(……何て野郎だ……!)
 全身の血が沸騰するようだった。
 怒りと、同時に震えるような戦慄が走る。
「……安心しろ。まだ、殺さない」
 酷薄な笑みが広がる様を目の前に見ながら、その冷えた声音に、心臓を掴まれるような息苦しさを覚える。
 この威圧感は、何だ。
「……何企んでやがる……」
「――さあ、何だろうな……」
 とぼけた物言いに腹が立つというより、その機械的で無機質な声音にぞっとした。人間と話しているという感触が、まるでない。ディアッカは何も言い返せぬまま、ただ相手の顔を呆然と凝視していた。
「……本当は、用があるのはあんたじゃない」
 銃口が、僅かに揺れた。危険を察知しながら、体は麻痺したかのように、ぴくりとも動かない。
 追いつめられた獲物を前に、相手は楽しそうに目を細めた。
「残念だったなあ……」
 僅かに下を向いた筒先から、突如、閃光が炸裂した。その瞬間、凄まじい激痛がディアッカの下肢を貫いていた。
「……ぐ……あっ……!」
 皮膚が焼ける匂いが立ち込める。左太腿部から噴き出す鮮血がコクピット内に血の花を散らした。
「……く……っ……!」
 片手で抑えても、容易には血を止めることはできない。みるみる膝から下が真っ赤に染め上げられる。
「さっさと、出ろ。――もう一方の足も撃たれたくなかったら、な」
 冷徹な瞳が促す。選択の余地はなかった。彼は歯を喰いしばり、片足を引きずり上げながら、何とかコクピットから外へ這い出した。雨に濡れた装甲に足を取られて、そのまま地面まで転がり落ちる。
 地面に体をしこたま打ちつけ、容易には立ち上がれず、しばらく草の上に蹲っていると、すぐ前に、相手のブーツの爪先が迫った。
「立てよ」
 言葉とほぼ同時にブーツが勢いをつけて彼の頭を蹴り上げる。目の前で火花が飛ぶ。跳ね上がった体をそのまま、引き上げられた。半壊のバイザーが、脱げ落ちた。
 雨粒がまともに頬を叩く。傷ついた皮膚に、水滴が沁み込んでくる。とても目を開けていられない。
「へええー……」
 馬鹿にしたような声が耳を打った。
「何だよ。顔まで、血だらけじゃねえの。――それじゃあ、男前も台無しだなあ」
「……っるせえ……!……」
 掴み上げられたその手を払いのけようとして、逆にその手首を捉えられる。
 ものすごい力で捻じられ、抵抗することはおろか、ほんの僅かな動きまで封じ込められた。
「――わかったろ?抵抗するだけ無駄だってさ」
 確かに、そうかもしれない。
 というより、抵抗する力など、とうに残ってはいないことはわかっていた。
 激しく打ちつける心臓の音が、耳に煩く響く。
 絶えず苛む痛みを堪え、呻き声を噛み殺すのも、もはや限界に近付いていた。
 酷い出血で、意識は半ば朦朧としかかっている。
 吹きつける風雨に晒される中で、呼吸をするのもやっとという状態だった。
 左足から噴き出る血が、雨滴とともに流れ落ち、地面に真っ赤な血溜まりをつくっている。見ただけで、気分が悪くなり、すぐに目をそむけた。
 自分は今、かなり情けない格好をしていることだろう。
 こんな姿を見れば、白い服を着た上官は何と言うだろう。つくづく貴様は馬鹿だと、呆れ、罵られるだろうか。
 大体、深追いしたこと自体、迂闊だと責められるような気がする。
 もし、もう一度、あいつの前に立つことがあれば、だが……。
 そしてもう一人、瞼の裏を掠めたのは、つい最近最悪な別れ方をした、『彼』の顔だった。
 どうしてあんな風になってしまったのか、未だに後悔の念がちりちりと胸を焼く。
 本当は、自分が一番悪かったのではないかという思いが残っている。
 お膳立てしたとフラガは言ったが、そもそもそんな風に仕向けてしまったのは、自分のフラガへの曖昧な態度だ。
(フラガは俺の気持ちがわかっているから、わざとあんな風に……)
 結局自分はフラガに甘えていたのだ。
 都合のいい時だけ、寄りかかり、欲望やストレスを解消する場所として、彼を利用していただけではなかったのか。
 いくら相手がそうしろと言ったとしても、よりにもよってフラガがいる、その同じ屋根の下で、別の男にあんな行為を仕掛けるべきではなかったのだ。
 つくづく自分は馬鹿だったと思う。自分が反対の立場であったとしたら、とてもあんなものでは済まなかったかもしれない。
 俺は、本当はフラガのことを、どう思っているのか。

(――俺も、そうだよ……)

 フラガの言った言葉を、不意に思い出した。
 自分がイザークのことを特別なんだ、と言ったときだ。

――おまえだけ、特別だ……

 じん、と胸の底が熱くなる。
 あんな風に言ってくれた人は、誰もいなかった。
 あのときの、あの人の目は、真剣だった。真っ直ぐ見返すのが怖くなるほどに、穏やかで優しい表情ではあったが、それでいてどきっとするほど、熱のこもる、真摯な瞳が自分をじっと見つめていた。
 わかっていた筈だ。
 あんなにストレートに、向けられてきた、あの人の気持ちが。
 わからなかった筈はない。
 なのに、自分は……。
 胸が、苦しい。
 髪の先から垂れてくる雨の滴が、目の中に染み込んでくる。滴を振り払うように、瞬きしているうちに、滲み出てくる水滴が、いつの間にか別のものに変化していることに気付いた。
 ますます自分が馬鹿のように思える。しかし、流れ出るものを止めることはできなかった。
(……痛っ……てえ……)
 肉体の痛みだけではない。
 この痛みは、違う。
 深く、穿たれるような、この痛みは……。
 なぜ、今、気付く。
 何で、俺は――

 ――俺、は……あの人のことを……。
 
(くそ……こんなときに、俺はまた……!)
 どうしても、考えてしまう。
 俺は、おかしい。
 今はそんなこと、考えている場合じゃ……
「――今考えていることを、当ててやろうか」
 男の声に、ディアッカははっと我に返った。
 目を見開き、愕然と顔を上げる。
 目と目が、合った。
 男の目は、仄かに嘲笑っているようだった。
「……『あいつ』のことだろう」
「……『あいつ』……?」
 ひやりと冷たいものが背を走り抜けた。
 それが誰のことを指しているのかは、明らかだった。
 まるで、自分の思考を読んだかのように。
(知っている……)
 猜疑と確信が交互に胸を去来した。
(こいつは、あの人のことを、よく知っている……)
 ――敵、だ。
 はっきりと悟った。
 ――こいつは、あの人の、『敵』なんだ。
相手の目の中に宿る明らかな憎悪の光を、今やはっきりと見取った。
(なのに、俺はまんまとこいつの罠に嵌まって――)
 ディアッカは、今度こそ、自分の軽率さを悔いた。
 なぜ、気付かなかった。
 なぜ、なぜ、なぜ……!
 そんな彼の葛藤を知ってか知らずか、相手は悠々と答えた。
「きまってるだろう。あんたの大事なお友だちだよ」
 男の目はもう笑ってはいなかった。
 恐ろしく、冷たい光の筋が見えた。
 心の中まで突き通すかのような、鋭利な氷の刃だった。
「――俺の用のあるのは、そいつだ」

                                     to be continued...
                                        (2010/11/11)

<<index     next>>