Blue Rain (12)













 暗い。
 ここは、どこだ。
 風の音が、微かに聞こえる。
 雨はもう体を叩いてはいない。
 どこか――暗い部屋の中に、うつ伏せに横たわっていた。頬に触れるタイルの冷たさに、唇が震える。
 不自然な体勢でいるのは、両手が背中で拘束されているせいだった。
 ぼんやりとした頭を僅かに持ち上げる力すら湧いてこなかった。
(――俺、は……)
 記憶が曖昧で、あれから自分に起こったことをすぐに整理することができないことに、苛立ちを覚える。
(しっかりしろ……)
 こうしている間にも、取り返しのつかない時間が刻一刻と過ぎ去ろうとしているのかもしれないというのに。
 体を引きずられるようにして、前も見ずにただ必死で歩いたところまでは、覚えている。
 しかし、途中で左足の痛みに耐えられずに、転倒した。
 再び引きずり上げられたが、もはやまともに地面を踏みしめる力はなかった。相手の腕の中でしばらくもがいていたが、そのまま脱力した。どれだけ起きろと蹴られようが、僅かに頭を持ち上げることさえできなかった。このまま殺されてしまうなら、それで構わない、と疲れ切った頭が、ぷつりと思考を止めた。
 そこからどうなったか、覚えていない。
 ただ、まだ生きていることだけは、確かだった。
 意識が戻ると同時に、麻痺していた感覚機能も戻ってくる。
 寒い。
 まだ、体はぐっしょりと濡れたままだ。
 がくがくと、歯の根が合わず、全身の震えを抑えることができない。
 寒いと同時に、焼けるような熱を感じる。
 ず、と膝を動かそうとした瞬間、太腿から突き上げるような激しい痛みに、思わず喉の奥から声が上がる。
「……ぐ……あ……っ……」
 一気に心拍数が上がり、呼吸が荒くなる。
 はあ、はあと息を弾ませながら、再び力なく床に頭を落とした。
 左足を撃たれたあの時の情景が、鮮やかに脳裏に甦った。
 容赦のない、眼。
 ――一瞬の躊躇いもなく、ぶち抜きやがった。
(……あんの、野郎……っ……!)
 心臓が跳ね上がるようだった。
 相手の目論見通りに事が運んだというわけだ。
 挑発に乗り、相手の懐に見境もなく飛び込んだ結果、まんまと捕まった。
 何の抵抗も、できなかった。
 仮にもザフトの軍人ともあろうものが。
 何だ、このざまは。
 そんな屈辱感と、自分自身のふがいなさに押し潰されそうになる。
 撃たれた左大腿部は、布できつく縛ってあり、滲み出る血で真っ赤に色を染めているものの、応急の止血処置が施された跡があった。
(とすると、まだ俺を生かしておこう、ってわけだな)
 ご親切にどうも、と相手の寛大な処置に感謝せねばならないところかもしれないが、とディアッカは皮肉な笑みを浮かべた。
(……けど、当然か。あいつの目的は、俺じゃない)
 そう思うと、笑みは、一瞬で消えた。
 ……そうだ。
 ――あいつの目的は、俺じゃない。
 自分を利用しようとしている相手の邪な意図に、暗澹とした気持ちになる。
(……くそ……っ!)
 奴は、はっきりと宣言した。
 自分の標的が、どこにあるのかを。

 ――あの、人を……

 どうする、つもりなんだ。
 恨みつらみによる、復讐か。
 それとも、他に何か、もっと……。
 自分の身以上に、彼に降りかかるかもしれない災厄を想像すると、ぞくりと背中に震えが走った。
 こんな、ことに……。
 こんなイカれた野郎の茶番劇に、あの人を巻き込むわけにはいかない。
 自分の馬鹿な行為が原因で、あの人を危険な目に会わせるなんて、絶対に、そんなことはあってはならない。
 なぜなら、あの人は、俺にとって……。
 ディアッカは、吐息を吐いた。
(――特別、なんだ……)
 あの人が、俺を特別だと言う以上に、俺にとっても、あの人は特別な存在、なんだ……。
 ――もっと、はっきりと伝えておけばよかった。
 今さらながらに、悔いた。
 しかし、もう、遅い。
 この状況では、もう一度、彼と顔を合わせることができるかどうか……。
 突然、床が振動した。足音が近付いてくる。
 彼は緊張した。
「……よお」
 惚けた声が、降りかかる。
 サーチライトの白い光が、いきなり顔を照らし、眩しさに目を伏せた。
「気が付いたようだな」
 相変わらず、人を小馬鹿にしたような、耳に障る喋り方だった。
「……無視すんなよ」
 声が近付いたかと思うと、喉首を掴まれ、そのまま引き上げられた。
 無理な体勢のまま、嫌でも相手と顔を突き合わさねばならなくなる。
「目ぇ開けて、こっち見ろ」
 頬を軽く打ちながら強要され、嫌々ながら、ディアッカは重い瞼を上げ、真上から見下ろしてくるその傲慢な瞳を睨みつけた。
「……ひでえ面だな。そんな目で睨むなよ」
「……誰、なんだよ、てめえは……っ……!」
 まだ、相手の正体さえ掴めていないことがもどかしく、つい声に焦りの色が混じる。
「おや、いつか名乗ったと思うが。……覚えてないのか」
「……なわけ、ねえだろう。糞野郎が……っ……」
「糞じゃなく、『ブラッド・オークランド少尉』だよ。――ディアッカ・エルスマン」
 汗と血で汚れた顔を相手の好奇の目に晒されている羞恥以上に、相手からのあからさまな侮蔑を含んだ物言いに憤りが増した。
「名前なんか、どうでもいいんだよ。俺の言ってるのは、てめえが何でこんなことをしたのか、ってことだ……!」
(少尉、だと?仲間にあれだけぶっ放しといて、よく言うぜ)
 しゃあしゃあと未だに所属階級を名乗る相手の面の厚さに半ば呆れた。――どうせ名前も偽名だろうが。
「それなら、もう話したろう」
 オークランドの目が、鋭い光を瞬かせる。
「……俺の用のあるのは、あんたの大切なお友だちの方なんだ、ってな。ほとほと、物覚えの悪い奴だな、あんたは」
 やはり、この男は自分を餌に、彼をおびき出そうとしている。何らかの邪な意図をもって。
「……俺を利用するつもりなら、無駄なことだ」
「――何だと」
 オークランドの顔に仄かに暗い影が差した。
「……あの人は、来ねえよ」
 ディアッカは、皮肉げな笑みを見せた。
 男の目が僅かに細められた。
「へえ、そうかな」
「……そうさ。てめえのやってることは、全くの無駄骨なんだよ」
「無駄骨、ねえ……」
 男はくつくつと低い笑い声を上げた。
「――俺はそうは思わないがな。……奴は、来るさ。必ず、来る」
 そう言うなり、相手はいきなり彼の左足を蹴った。
 そのまま掴んでいた体を床に投げ捨てる。
「……う……ああっ……!」
 床の上を転がり、痛みに悶えるディアッカを悠然と眺めながら、オークランドは満足気に笑った。
 笑い声の上に、カメラのシャッター音が重なる。
 その音に気付いて、ディアッカは一瞬痛みも忘れ、目を見開いた。
「……っめえ……なに、して……やがる……っ……!」
「直接目で見て貰った方がいいだろう。今、あんたがどんな目に会ってるかってことを、さ。そうすりゃ、奴にもわかるだろうからな」
「……よせ……っ!」
 目を背け、逃れようともがくディアッカの体を、再びオークランドの腕が無理矢理引きずり上げた。
「――じたばたするなよ。言ったろう。殺しはしない、ってな。その足だって、ちゃんと治療もしてやっただろうが。これでも、丁重に扱ってるつもりだぜ。……本当なら、もう片方もぶち抜いてやってもよかったんだがなあ。それともそっちの方がいいかい?今よりずっと悲愴感があって、効果はあるかもな」
 相手の低い声音が、耳朶を焼くようだった。
「……く……――」
 何か言おうとして、相手の顔を見た瞬間、ディアッカは言葉を失った。
 その口元に漂うぞっとするような残酷な冷笑が、背筋を凍りつかせた。
「……て、め……っ……!」
「――足が嫌なら、その片腕を斬り落としてやろうか?それとも、その綺麗な目玉を抉り出すか?……まあ、生きたまま、実験台にかけられることを思えば、たいしたことでもあるまいがな……」
 途中から、オークランドの目は、どこか遠い場所を見ているように見えた。
「生きながらメスを入れられ、脳の中を弄り回され、人としての機能を全て排除された……」
 ディアッカにというよりも、自分自身に語りかけるかのように、男は忽然と続けた。
「……おまえも、味わってみるか?俺がかつて味わったものと同じ苦しみを……。おまえらは、生まれる前から遺伝子を弄って造り出された化け物だが、俺たちは生まれ出た体を、ぼろぼろになるまで人為的に操作され、改造された。俺たちの体は、人間の悪意と恣意で生み出されたものだ。それも、人を殺すための戦闘用機械として、意図的に、な。同じ化け物でも、おまえらと俺たちは、まるで違う。不公平だとは、思わないか」
「……何、言ってやがる……」
 オークランドの独白に近い言葉を聞きながら、ディアッカは初めて彼の内面深くに存在する暗い闇の部分に触れたような気がした。
(こいつ……)
 ――まさか、こいつの体は……。
「俺たちが今いるこの場所は、かつてそういうところだったんだよ。そういう『化け物』を生み出すための、な。……俺の故郷さ」
「……『化け物』を、生み出す……?」
 頭の中が激しくざわめく。
 まさか……。
 聞いたことはあるが、かつて地球軍が極秘に置いていたという、例の人体実験施設の一つだとでもいうのか。
 暗い闇に隠れて、周囲の様子がわからないだけに、不気味さを感じさせる。
 向こうに黒く蹲っている塊は、機械装置の一群か。
 恐らく、被験体を切り刻んだ手術台か、或いは――想像するだけで、軽く悪寒が走った。
「……俺だけじゃない。奴にとっても懐かしい場所である筈さ」
「……何、だと……?」
「――ここへ来れば、思い出すだろうさ。一度刷り込まれたものは、そう簡単には消せないもんさ」
 ネオ・ロアノークとしての、彼の記憶が……。
 そういう、ことなのか。
 ディアッカの胸は、今や激しく波立ち始めた。
 駄目、だ。
 ここへ、彼を来させては、いけない。
 何としても……。
 強い忌避感に駆られる。
「……あの人を……殺す、のか……」
 問いかけた言葉が、ずしりと重く響いた。
 相手は、ふと視線を落とした。
「――殺す……?」
 彼は、軽く首を振った。
「……さあ、どうかな。殺す……か?」
 やがて、乾いた笑いが男の肩を揺らした。
「……不死身の男が、そう簡単に殺されるわけがない。それはあんたがよくわかっていることだろう?」
「………………」
 ディアッカは、唇を噛んだ。
 その通り、だ。
 しかし、それなら、この男の目的は……。
 とてつもなく、恐ろしい――嫌な予感がした。
「……よせ……」
 声が、震えた。
 ――こいつは、正気じゃない。
 こんな奴に今さら何を言っても、仕方がないかもしれない。しかし、言わずにはいられなかった。
「――てめえが何企んでるのかは知らねえけど、あの人を巻き込むのは、やめろ……!」
「………………」
 男の目がディアッカを射るように見つめる。
 喉元を捻るようにきつく引き寄せられて、一気に距離が近付いた。
「……ぐ――……」
 呼吸が、できなくなる。
 冷や汗が、出た。
 男の目が、獰猛な光を放っている。
「――へえ……」
 獣のような瞳が、一瞬緩んだ。しかし、到底それは友好的な笑みではなかった。
「……そんなに大切なお友だち、ってか」
 不意に、彼は手の力を抜いた。
 解放された喉が、噎せながらも、再び貪るように空気を吸い込んだ。
「……笑わせてくれる」
 オークランドの手が、荒々しくディアッカの体を再び床に突き倒した。
 暴行を受ける前兆に、身を硬くした彼の予測に反して、いつまでも痛みは襲ってはこなかった。
 代わりに、恐ろしいまでの沈黙。
 そして相手の体が近付く気配がした。
 間近にしゃがみ込んだ男のブーツの爪先が見えたかと思うと、不意に顎を軽く持ち上げられた。
「おい、何怖がってるんだよ。殴られるとでも思ったか」
「……っ……怖がって、なんか……っ――」
 反論しかけたディアッカは、相手と目が合った瞬間、言葉を途切らせた。
「――全く、ほとほと、むかつく奴らだな、あんたらは。……あまり、俺を苛々させるな」
舐めるような視線に、肌が粟立つ感覚に襲われる。
(こいつ……っ……)
 嫌な眼だ。
 ――何考えてやがる……。
 傲然と見下ろす男の目が、今度こそ容赦なく彼を射抜く。悪意と憎悪に満ちた視線、だった。
「……さて、奴が来るまで、あんたをどうしてやろうか」


                                     to be continued...
                                        (2010/12/30)

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