Blue Rain (13)














(……いつまで寝てんだ。起きろよ!)
 生意気な顔が突然浮かび上がり、はっと彼は目を開いた。
「――ディアッカ?」
 思わず跳ね起きた一瞬後には現実に返り、誰もいない部屋を呆然と眺めていた。
(……夢、か)
 そう思うと、小さな溜め息が漏れた。
 ソファの上で横になっているうちに、いつの間にか眠り込んでしまっていたようだ。
 静まり返った部屋の中で、自分の吐いた溜め息の音だけが、妙に尾を引いて耳に残る。
 視線が落ち、テーブルの上の携帯電話に焦点を結んだ。
 あれから、連絡が取れぬまま、まる一日が過ぎている。
(――そうだ。あいつ……)
 携帯を取ろうと手を伸ばした途端、ずきりと頭の奥が痛んだ。
 嫌な前兆を感じ、顔を顰める。
(くそ。こんな時に……)
 じわり、と汗ばんだ首筋を手の甲で軽く拭う。
 そのまま、掌を額に押しつけ、痛む頭を抑え込むように、膝を立ててソファの上に蹲った。
 しばらくして、錠剤を取ろうと立ち上がりかけたその時、ドアホンが鳴った。
(……誰、だ?)
 こんなところに訪ねてくる者など、誰もいない筈だ。
 第一、ここを知っているのは、ごく限られた者だけである。
 近頃定期的に訪ねて来る者といえば……『彼』くらいだろうが、まさか現在の状況で、当の本人がやって来る筈もない。
 では、誰が……。
 久し振りに聞くドアホンの響きは、彼の胸をわけもなく不安に駆り立てた。
 それでも彼はともかく玄関に向かい、扉を開いた。
 そこに佇んでいた人物の顔を見た瞬間、彼は目を大きく見開いた。
「――あれ、あんた……」
 銀色の髪がほんのりと濡れている。長いフロックコートの裾も水分を吸って重く垂れ落ちていた。
 外はまだ小雨が降り続いているようだった。
「……一体、どうして――」
「――頼みが、ある」
 何の前置きもなく、突然相手はそう言うと、食い入るように目の前の男を見つめた。
 自分の色と同じであって、異なる青。
 同じブルーでも、こんなに違うのか、と彼は一瞬その曇りのない、澄み渡る空のような瞳の色に見惚れた。
「……あいつを……」
 次の言葉を待たずに、イザーク・ジュールは続けた。
 その声には、はっきりとした苦渋が滲んでいた。
「――ディアッカを、助けてやって欲しい。……あなたしか、いないんだ」
「……助ける……って、おい……」
 フラガの顔が強張る。
「何があった。――あいつは、どこにいる……?」
 イザークの腕を掴むと、軽く揺すった。
「わからない」
「……わからない?」
「あなたにしか、わからないんだ。……だから、ここに来たんだよっ!」
 腕を乱暴に振り解いたイザークは、眼を怒らせて相手を見た。
「――あなたになら、わかる筈だと――奴が、そう言ってるんだ!」
「ちょっと待て。そう言ってる、って……誰が?何のことか、さっぱりわからん。ちゃんと説明しろ――」





「……………ふ…………」
 溜め息が、零れる。
 その唇を、指先が撫でる。
 舌を出し、舐めようとすると、それは嬲るように行きつ戻りつを繰り返した。
「…………ん…………」
 逃れた指が、頬から顎へ落ちると、ぴくりと全身に弱い電流が走ったかのような、淡い快感が駆け巡る。
(…………お、れ……………?)
 自分がどこにいて、今、何をされているのか……。
 ――わからない。
 ただ、朦朧とした意識が、時折与えられるその肉感的な刺戟を感じ取り、剥き出しの快楽に悶えている。
 欲しくて、欲しくて、たまらない。
 なのに、焦らされる。
 疼く体がどうしようもなく、それを求めているのに。
 ほんのりと熱を帯びた体を、持て余す。
 呼吸が、荒くなる。
 なぜ、こんなに興奮しているのか、わからない。
 ――確か、俺……
「――だいぶ、効いてきたみたいだな……」
 どこか……ずっと上の方で、誰かが呟く声が聞こえた気がした。
 その声には、覚えがある。
 しかし、誰のものか――考えようとすると、新たに押し寄せてくるその刺戟の波に呑まれ、もうどうでもよい気分になる。
 眼を開けても、すぐに蕩けるように瞼が落ちてくる。
 頬を叩かれ、促されるたびに、重い瞼を上げると、そこには誰かの顔が浮かんでいた。
 ――誰だろう。
(あれ、どうして……?)
 金髪に、青い瞳。
 整った顔立ちに影を落とす、傷痕。
 悲しそうに、見つめる顔。
「……フラガ…………」
 呟いた声は、からからに乾き、掠れていた。
「――あんた、なのか……」
 返事をしない相手に、苛立ちを感じながら、彼はなおも声をかけ続けた。
 胸を締め上げるような、切ない感情。
 堪え切れないくらい、強く湧き上がってくる。
 みっともない。そう思いながらも、もはや抗しきれなくなった。
「……ごめん……俺……――」
 言いたいことが、あった。
 言わなければならないのに、言えなかったこと。
(フラガ、あんたに……)
 何とも後味の悪い、嫌な別れ方をしたことを、思い出した。
 まるで、もうあれきりで、終わってしまうかのような……。
 沸々と後悔の念が、湧き上がった。しかしそう思った時は、既に遅かった。
 あんな筈ではなかったのだ。
 あれは、自分の本意ではない。
 それを、伝えたかった。
 もう、生きて彼に会えないかもしれない。
 そんな風に思った時……。
「……俺――俺、は……あんたのこと……――」
 込み上がってくるものを、必死で抑える。
 この人の前で、情けない姿を晒したくない。
 彼なりの意地とプライドだった。
 唇を強く噛んで、堪えた。
 目を、固く瞑る。
 そのまま、しばらく待った。
 しかし……。
 何の反応も、ない。
 ただ、そこにあるのは凍りつくような沈黙のみ。
 微かな、不安が首をもたげる。
 目を開けるのが怖くなった。
 ――どうして、だよ。
 ――何で、返事してくれないんだよ。
 何か言おうとしたその時、突然、掌が頬に触れた。
 その瞬間、冷たさに跳ね上がりそうになった。
 指が、頬を掴み上げるように、動く。
 冷やかで、無機質な触感。
 相手の冷えた心が突き刺さってくるかのようだ。
 増幅する悪意と、深い憎しみ。
「……あ……――」
 首筋に触れてきた唇が、肌を吸う。
 強く、噛みつくような、激しいリズムが全身を揺らした。
 意図的に加えられる、その痛み以上に、麻薬のような刺戟が恐ろしいほどに体中を浸透していく。
「……う、……やめ……ろ……っ……ああ、あ……っ……!」
 抗う声が上ずる。
 抗いながらも、じわじわと乱れかけつつある、自分の肉体の過敏な反応に、戸惑う。
「……フ、ラガ………………?」
 眼を瞬くと、相手は苦々しい笑みを浮かべたように見えた。
 視界が、ぶれた。
 幻のように、その顔が眼の前で薄く滲んだ。
 酷薄な、微笑。
 許さない。
 そんな風に言っているように見えた。
 恨み。憎悪。
 負の感情が、一気に流れ込んでくる。
(……フ……ラ……ガ…………じゃ……ない…………)
 眼の前の顔が一瞬ぼやけ、そして輪郭を変えた。
 ――ふっ、と笑う息が漏れた。
 顎をぐい、と持ち上げられる。
「――よく見ろよ」
 嘲るような声音に、はっと眼を開くと、そこにあるのは違う男の顔だった。
「………………!」
 冷や水に打たれたように、体を硬直させたディアッカを面白そうに眺めながら、彼は嗜虐的な笑みに顔を引き歪めた。
「……俺が、あの男に見えるか?」
「――て、め……――!……」
 噛みつくように唇を合わせられた瞬間、驚く間もなくそれが喉の奥へ落ちていくのがわかった。
「……なっ、……何、飲ませやがった……っ……」
「……安心しろ。毒じゃない」
 くくく、と笑いを噛み殺しながら、男はぞっとするような甘さを含んだ声で囁いた。
「――もっと、いい気持ちになれるものさ。――最初に入れてやったのより、ずっと、ずっと……いい夢が見れるかも、な」
「――な……――!」
 相手の忌まわしい意図を嗅ぎ取ると、彼はぞくりと肌を粟立たせた。
(……くそ……何しやがるつもりだ……っ!)
 激しい忌避の感情が、ディアッカに奇跡的な力を与えた。
(冗談じゃ、ねえ……!)
 彼は必死で体を捻った。
 突然の抵抗は相手の予想外だったのだろう。
 一瞬、拘束していた腕が、緩んだ。
 その隙を縫って、彼は腕の中から抜け出した。
 左足に激痛が走るが、構わなかった。
 後ろ手に括られたままの姿勢で身を起こすことは至難の業だが、彼は器用に身を起こした。
 くらくらする頭を持ち上げ、目をしっかり見開いて前を見た。はっきりと映る視界の中、前方に見える扉まで、もはや何も考えず、走った。
「――こいつ……!」
 男の呪詛の声に、追いかけてくる足音が重なる。
 途中までは走れたものの、急に目の前がぶれたかと思うと、足元が縺れ、忽ち感覚がなくなった。
(……な、んだ……?)
 自分でもわからない不思議な力の抜け方だった。
 全身の血が一気に下がっていくかのような、感覚。
「……あ……っ――……」
 体が、宙に浮く。
 まさしくそんな感じがした。
 気付いた時には、床に蹲っていた。
 そして、オークランドが覆いかぶさってくる。それを撥ねのけようともがき始めた体を、抑えつける容赦ない手。
 しばし格闘するが、元から無駄なあがきだった。
 それでも、その無益な抵抗は余程相手を苛立たせたらしく、暴れ出した体を組み敷いて、床に押さえ込んだ後も、相手はしきりに舌打ちを繰り返した。
「……ったく、あれだけ注入したのに、まだ、そんな力が残っているのか。やっぱりコーディネイターの体は特別だな」
 忌々しげに吐き捨てると、拘束した相手の両手をぐいと引っ張った。体を引き寄せ、ぐったりとした相手をさらに嬲るように、その喉元を両手でわざと締めつける。
「――……っ……――……」
 苦しげにのけぞるディアッカの顔を上からおもむろに見下ろすと、オークランドはにやりと笑った。
「――けど、もうじきさっき入れたのが、効いてくる……そうすりゃ、そんなくだらない抵抗もしていられなくなる。――さて、どうするかな?さすがにあんたでも、ちょっとキツいと思うぜ。まさか、軍でその手の訓練まではしてないだろ?……黙って耐え凌ぐか、それとも泣きながら、赦しを請うか?……ちょっとした見ものだな。どうせなら、それも画像に撮って奴に見せてやるか」
 男が掴んだ喉を緩めた途端、ディアッカは激しく咽んだ。苦しい呼吸もままならぬうちに、再び顔から下へ床に押し倒された。
「……初めてじゃないんだろう?入れるのも、入れられるのも、さ」
 背中から露骨な言葉を浴びせかけられて、ディアッカはかっと頬を熱くした。
「……こ、のっ……下種野郎、が……っ……!」
 怒りとともに吐き出した言葉も、虚しい響きを残すだけだった。
 何を言っても、これから起こることを止めることはできないだろう。自分は今、無力以外の何ものでもない。
 そしてこいつは、本気だ。本気で、それをするつもりでいる。拷問以上の行為を……。
 想像するだけで、反吐が出そうだった。それが自分の身に起こることであるとは、信じられない。信じたく、なかった。
「ああ、俺は下種だよ。だが、この俺よりもっと酷い糞みたいな野郎は、まだいくらでもいる。……エリートお坊ちゃん方にはわからない世界のことだろうがな……」
 オークランドの眼が、ぎらりと光った。
 毒を含んだ、危険な瞳だった。
「……だが、これであんたにも、わかるだろう。――わからせてやるさ……」
「――よ、せ……っ……!」
 からからに乾いた声が、喉の下に落ちる。
 ――それ以上声が、続かなかった。
 どくん、どくんと破れるように高鳴り始めた、激しく打ちつける心臓の鼓動に、呑まれていく。
 ゆらりと目の前が、揺れた。
 痛みは、感じない。
 しかし、これは……――
 何だか体が引きちぎれ、ばらばらになっていくような、嗜虐的な酩酊感に襲われる。
 さっき飲まされたもののせいだ。
(くそっ……何、飲ましやがっ……!)
 毒づいていた言葉が、突然途切れた。
 余裕が、ない。
(……な、に………………)
 憤りや屈辱が、いつの間にか、子供のように純粋な恐怖感に取って代わられていた。
 体を覆っていく、熱。
 心臓の、音。
(何だよ、これは…………)
 ここは、どこだ……。
 自分は、今、どこにいる……?
 ――怖い。
 ――嫌、だ……!
 自分が、自分でなくなっていく。
 際限なく、貶められていく、その墜ちていく感覚が彼の最後の矜持をずたずたに切り裂いた。
「――そんなに、悦いのか?」
 優越感に浸る男の声が、脳の中枢を麻薬のように犯す。
 首を振りながら、その快楽を必死で体の中から締め出そうとした。
 じわじわと、感じやすい肌が悲鳴を上げ出した。
 抑圧されていた感情が、一気に噴き出す。
(――く……っ……あ、ああ――)
 貫かれていく感覚に、頭の奥で火花が散った。
 体内を、熱い潮が流れる。下半身に熱が集まっていく。
「……簡単に気持ち良くなるんじゃねえよ」
 意地の悪い男の声が耳を打ったかと思うと、
「……う、……あ――何、す……」
 前を根元から縛られて、どうにもできなくなる。
 後ろから容赦なく攻められると、行き場のない欲望が内側で火のついたまま、暴れ出す。
 苦しい。
 頭がおかしくなりそうだった。
 しかし……

(――泣いて、赦しを請うか?)

 誰が、そんな真似……
 突き上げられた瞬間、ああっ、と大きな声が上がる。
 血が出るほど強く、唇を噛んだ。
 しかし、堪え切れなくなり、再び声を上げた。
「……っ……!」
 声を上げてから、悔しさを噛みしめる。
 そんなディアッカを、男は冷たく見下ろした。
「……苦しければ、もっと泣き叫べばいい。そのうち、助けに来てもらえるだろうからな。あんたの大切な人に、さ。もっとも……」
 オークランドの声は、非情だった。
「――あんたが、それまで持ちこたえられればの話だけどね……」


                                     to be continued...
                                        (2011/02/14)

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