Blue Rain (16)














(……生きて、いたのか……)
 コンソールパネルに向かい、気ぜわしく小型艇のナビゲーションシステムを起動させる一方で、フラガは茫然とした思いに捉われていた。
 先程見た顔。
 傷痕で面相はやや変わっているが、間違いない。
(……あいつ……)
 ネオ・ロアノークとして目覚めた記憶の中に、鮮やかに浮かび上がる男の顔と一致していた。
 思い出したくない、記憶だった。
 しかし、完全に消すこともかなわない、過去だった。
 彼は軽く目を閉じ、封じ込めた記憶の一部を引き出す苦痛に耐えた。
「――くそ……――何で、今頃……」
 もう一人の、自分。
 作られた、過去。
 作られた、記憶。
 一度死んで、再び戻ってきたこの世界で、新たに命を吹き込まれた時、彼はそれまでの自分とは違う、もう一人の人間に生まれ変わっていた。
 それまでの記憶は封じ込められ、新しい人格が取って代わった。
 何の疑念もなく、そのもう一人の自分――ネオ・ロアノークという、もう一人の男がこの体を自由に使い、動いていた。
 思い出すだけで、吐き気がする。
 ――俺は、何も考えることができなかった。
 消された記憶とともに、思考は遮断され、ただ自分は命令されたことだけを忠実に実行しようとしていた。
 あの時の自分は、かろうじて人間の姿をとどめているだけで、実のところは軍の殺人兵器の一つにすぎなかった。
 ――目の前に存在する敵を殺すことだけが、俺の目的の全て、だった……。
 殺人兵器として、二度目の生を授けられた、場所。
 思い出したくもない場所ではあったが、奴の言う通り、見た瞬間、すぐにそこだとわかった。
 既に研究所自体は閉鎖され、今は使用されていない筈だ。それでも、建物を取り壊すことができないのは、そこで使用された膨大な量の化学薬品や機械類、被験体の保存資料等を処理しきれないゆえのことだろう。
 そうだ。
 あの場所には、まだ見たくもないおぞましいものがたくさん放置されたままになっている筈だ。
 あの場所に行くことは、再び過去と向かい合うということだった。
 生と死を繋いだ、あの空白の時間を。
 ――奴は、それをもう一度、俺に思い出させようとしている……。
 脳の奥で何かが蠢くような奇妙な感覚が襲った。
 目の前が一瞬暗くなった。
 操縦桿を握る手が、震え出す。
 機体が、ぐらりと揺れた。
 一時的に、操縦を自動モードに切り替える。
 軽く息を吐き出し、目を閉じた。
 顳から噴き出す汗を手の甲で拭う。
 自分は、動揺している。
 その事実が、彼自身を震撼とさせた。
 もう、思い出すこともないと思っていた過去の一部が、再び彼の肉体と精神を確実に浸食し始めていた。
 自分を破壊しようとする悪意ある種が、体の奥で芽吹こうとする気配を感じた。
(……くそ……っ……)
「……しっかり、しろ……っ……!」
 フラガは声に出して叫ぶと同時に、震える拳をコンソールに叩きつけた。
 鈍い痛みが、麻痺しかかった神経を正気に戻したようだった。
 ――まだ、俺にはしなければならないことが、ある筈だ……。
 彼は目を開き、行く先に視線を据えた。





「――う…………」
 ディアッカは、頭を軽く振ると、自分の意識が現実に戻っていることを確かめた。
 両腕の戒めは解かれ、既に自由になっていたが、不自然な格好で寝かされていたためか、痺れて殆ど感覚がない。
 ぬるぬるとした感覚に、目を向けると、左足がまた出血しているようだった。包帯が、真っ赤に染まっていて、床にまでその赤い色が染みだしているのが見えた。
(奴は……どこへ行った……)
 目を細めて周囲を見回してみるが、暗い部屋の中には他に人のいる気配は全く感じられなかった。
 闇に慣れた目が、半開きの扉口に視線を止める。
 あそこまで、行けば……
 ――外に、出られる。
 そう思うと、胸の鼓動が速くなった。
 そろ、と体をゆっくりと動かしてみた。
 全身が軋むようだ。
 しかし、無理をすれば動けないことは、ない。
 片手を床について、右足を軸にゆっくりと起き上がる。
 だいぶ時間がかかったものの、何とか体を起こすことができた。
 息が、荒い。呼吸をするのにも全身に力が必要になるほど、自分の肉体がひどく消耗し、疲弊しているのがわかった。
 痛みで半ば頭が朦朧とするが、あの妙な薬で神経を興奮させられるよりも、余程マシだった。
 壁によりかかりながら、痛みを堪え、歯を喰いしばって立ち上がる。右足に負荷がかかるが、止むを得ない。壁によりかかりながら、体を引きずるように歩く。
 歩き出すと、痛みは一層激しさを増した。左足に少しでも力を入れると、激痛が走り、そのまま崩れ落ちそうになる。
 右足で踏ん張りながら、何とか前へ前へと体を押し出すように進んだ。
 扉口まで行くと、開いているその三分の一程度の空間から、体を差し入れるようにして、外へ出た。
 ひんやりとした空気が頬に触れる。そこは、狭い通路だった。
 やはり薄暗くて周囲の様子ははっきりしないが、少し先に上へ続く階段らしきものが見える。
 そこを上れば、建物の外へ出られるかもしれない。
 外へ出たとしても、逃げられるかどうかは、甚だ心もとないが、取り敢えず行くしかない。少なくとも、ここで嬲り殺しにされるのを待っているよりは、いくらかマシだろう。
 進むにつれ、一帯に立ち込める化学薬品の強烈な匂いが鼻孔を強く刺激し、ともすれば意識が飛びそうになった。
 どこかから毒が漏れているのではないだろうな、と訝しみ始めた時、その異臭が最も強く漏れてくると思われる部屋の前まで来て、彼は思わず立ち止まった。
 余計なことをするなという心の警告を無視して、ディアッカは開いた扉の隙間から、中を覗き込んだ。
 途端に襲いくる激しい刺激臭に、目を閉じ、噎せ込んだ。
 再び目を開いた時、その薄暗い実験室の奥に並んでいるものを見て、ディアッカは息を飲んだ。
 遠目ではあっても、それが何であるか大体見当がついた。
 薬品の匂いがなぜこんなに強いのかが、わかった。
 近付くべきではなかったかもしれない。
 しかし、何か見えない力に引かれるように、彼の足はふらふらとその陳列ケースの方へ向かった。
 すぐ前まできて、歩みが止まり、液体の中に浸されたものをまじまじと見た彼の目が、驚きと恐怖に大きく見開かれた。
 かつて人間――と呼ばれたであろうものの残骸が、実験管の中にひっそりとその異形を晒していた。
 無論、既に息をしているものはいない。しかし、そこにいる限り、少なくとも人間の世界でいう、死をも許されてはいないのである。
「……な、何――……」
 途端に激しい嘔吐感に襲われ、声もなく、その場に膝をつく。
 吐きながら、自分自身の胃液の強い酸味が鼻につき、さらに気持ちが悪くなってそのまま床に顔を突っ伏していると、
「――驚いたか」
 背後から無機質な声が降ってきた。
 振り返るまでもなく、そこにオークランドがいることがわかったが、逃げようとする気力も残っていなかった。
「なかなかいい眺めだろう。貴様らが見下してきた、ただの人間が足掻いた成れの果て、といったところかな。大方は失敗作として廃棄処分された筈だが、こんな風に資料的価値のあるものは、まだご丁寧にこうして保存されたままだ。まあ、この研究施設自体、放置されたままだからな。その中に埋まっているこんな気味悪い生体標本の処理を、わざわざ買って出ようという奇特な奴もいないだろう。……こうして眺めてみると圧巻だが、実に恐るべき、そして憐れむべき光景だ。まさしく我々人間の愚昧さを代弁している。そうは思わないか」
「……よく喋る野郎だな。学者かよ、てめえ……」
 ディアッカは、皮肉を込めてそう言い返した。しかしその顔には笑みは微塵も見られなかった。
「……こんなものを、作りだした奴が、本当にいたとしたら、そいつは、イカれてる……」
 ディアッカが吐き捨てると、オークランドは笑った。
「……俺たちを狂わせたのは、おまえらだろうが。おまえら、コーディネイターの存在が、地球人を狂気に駆り立てたんだ」
 オークランドの吐く熱い息が、首筋を舐めた。
 抵抗する間もなく、背後から押し倒された。
「……この部屋で、もう一度、犯してやろうか?」
 相手の呼吸が、荒い。
 危険な匂いを感じた。
「……う……」
 急に部屋を満たす薬品と死臭が、耐え難いまでに肺を侵し、息苦しくなった。
「――あそこ、見ろよ」
 顔を無理矢理、反対側へ向けられる。
 そこに並んでいる小さな試験管の中に入っているものを指して、男は嗤った。
「――生殖器なんて、飾っても仕方ねえのにな……。ありゃあ、どこかの糞科学者の趣味なのかもな」
 くくく、と低い声で笑いながら、ディアッカの前を握る。
「――…………っ……!」
「……なあ、知ってるか。世の中にはな、死体見て勃つ奴もいるんだぜ……ちょうど、ここはそういう奴にはもってこいの場所ってわけだ。何せ、部屋中死体の標本で囲まれてるときてる」
 ズボンを脱がされかかって、ディアッカは我に返ると、激しく抵抗した。
 今、この不気味な場所で性行為を強要されることに、生理的にたまらない忌避感を覚えた。
「……この、変態野郎が……っ!」
「何とでも言え」
 萎えた性器を執拗に擦られる。
 そのうち、意図に反して下半身に痛痒感を覚えた。
「……くそ、……やめろって……っ!」
「……奴が来れば、スリーピースでやってもいいんだぜ。……どうだ?想像するだけで興奮するだろう?」
「――っ、てめ……っ……!」
 突然、警報が鳴った。
 侵入者を告げる音に、オークランドの目が光る。
「……噂をすれば、だ。――ようやく、来たな」
 呟きながら、ディアッカの顎を掴み上げる。
 口をこじ開けるように、指を突っ込んだ。
「――……ッ……!」
 錠剤を飲まされたと気付いた時には遅かった。
「安心しな。エロい薬じゃねえよ。ちょっとした筋弛緩剤だ。――動き回られちゃ鬱陶しいんでな」
「……ん……っ――」
 そのまま唇を寄せると、舌を入れられた。
 緩慢な動作で、手足をばたつかせたものの、抵抗らしい抵抗にはなっていない。
 貪るように口内を弄られた後、半分意識が朦朧とした体を、ずるずると引きずられる。
「――く、……っ……」
 鼻孔に纏わりつく空気に含まれた死臭が強くなる。
 死体の標本の近くまで連れて行かれているのかと思うとぞっとした。
「……ここが、いい」
 男の声が、遠くなる。
 建物全体に響いていた警報音が、いつしか波のように緩やかな背景音楽となって脳内に一定のリズムを刻んでいた。
 薬が効き出しているのか、体の動きが目に見えて鈍くなっていた。
 体ばかりか、脳の動きも麻痺しかかっているかのようだ。
 だが――
 感覚だけは、妙に研ぎ澄まされたように、敏感になっている。
 背中から感じる、そのひんやりとした、ガラスケースの感触に、硝子を通してそこにあるものの存在を強く意識して、忽ち気分が悪くなる。
 強い酸気を伴った腐臭に、胃が悲鳴を上げ始めた。
 しかし、吐くだけの力も出てこない。
 離れたいが、力を奪われた体は、指の先一本すら動かすことができない。
「見られてるぜ」
 くすり、と男の笑う声が聞こえたかと思うと、顔を無理矢理硝子に押し当てられた。一瞬目の前に見えたものに、声のない悲鳴を上げる。
 元は、人間の顔であっただろうもの――その暗い眼窩が、硝子越しに、確かにこちらを見つめているように感じられた。
「――…………ひ……あっ………!」
「……いいだろう?何かぞくぞくこねえか?」
 引き下ろされたズボンの中へ手を入れられた。
「……っ……やめろ……ッ……!」
 乱暴に掴まれて、痛みに顔を歪めた。
「――何だよ、萎えてんのか。情けねえな」
「……ったり前だ……っ!――て、っめえ、みたいな、変態じゃ……ねえ、から、な……っ!」
 喘ぎながら、そう言い返すのが、やっとだった。
「……慣れたら、案外くせになるかもよ」
 オークランドは低く笑った。
「そしたら、おまえも変態の仲間入りってわけだ」
「……る、せえ、誰が……ッ……!」
 途端に締め付けられる痛みに、ディアッカは息を飲んだ。
「――役に立たないようなら、おまえのこれも切り取って、そこに並べてやってもいいんだぜ」
 男の口調が、変わる。
 冷然とした、残虐さを含む声音。
 冗談で言っているのではないということだけは、はっきりとわかった。
 恐怖が、ディアッカの混濁しかかった意識を突然覚醒させた。
「……な、にを……っ……」
 冷たい汗が、噴き出す。
「――ブラフ(はったり)じゃねえよ」
 オークランドの目が意地悪く光る。
「……もうちょっと弄ってからでもよかったが、そろそろ遊んでいられる時間もなくなってきたようだからな……」
 ねっとりと、いたぶる者の声が耳を打つ。
「――見せしめに、おまえの体を全部バラして、一緒にそこに飾ってやるよ。そして、奴に一番に見せてやろう。どんな顔をするか、楽しみだ」
 笑い声の波が、押し寄せてくる。
 狂った哄笑が、室内を何重にもこだましていた。
「……く、そ……――!」
 冗談じゃない。
 こいつは、狂っている。
 こんなイカれた野郎に……。
 ――やられて、たまるかよ。
 そう思いながら、動かない四肢を前に、絶望的な気分に陥る。
 男の手に、光る刃の切っ先が見えた。
 声が、出なかった。
 やられる、と思い、彼は目を閉じた。
 しかし、その瞬間は、すぐにはこなかった。
 凍りつくような数秒が、過ぎた。
 ――何を、している?
 異変を感じて、ディアッカはゆっくりと目を開いた。
 押さえつける男の手はそのままだったが、その顔つきは暗く険しかった。
 殺意に満ちた瞳は、こちらを通り越して、その先のガラスケースに映る何ものかを真っ直ぐに凝視していた。
 開いた扉の先。
 通路に佇む背の高いシルエットが、霞む視界の淵にぼんやりと映る。
「――約束は、守って欲しいもんだな」
 聞き覚えのあるその懐かしい声に、思わず心の箍が外れそうになる。
「――約束?」
 オークランドの唇が、僅かに歪んだ。
「……俺が来れば、そいつを解放する、と言ったろ?」
 フラガの声は淡々として、恐ろしいほど静かだった。
 まるで嵐の前の静けさを思い出させるかのように。
 そういう言い方をする時、彼が身の内にどれほどの怒りを溜めているのか、ディアッカはよく知っていた。
 しかし、オークランドは怯む様子はなかった。むしろ彼はそんな相手の反応を楽しんでいる風でもあった。
「――生きたまま、とは言ってなかったよな?」
「……ああ、そうかい。なら、今、訂正してもらおうか」
 靴音が、近くなる。
 部屋に踏み入ってくるフラガの手の先に、光る銃口が見えた。
「――そいつを、生きたまま、解放しろ。今すぐにだ。……それ以上そいつを傷つければ、俺は貴様をこの場で殺す。――ただ、殺すだけじゃない。……貴様がそいつに与えたのと同じだけの痛みと苦しみをそっくりそのまま、貴様自身に返してやる……」
 ゆっくりと、冷静に、紡がれる言葉は、それだけで聞く者を竦ませてしまうほどの凄味を感じさせた。
 初めて、オークランドは肩越しに振り返った。
 光る双眸が、フラガの存在を捉える。
 無言の攻防が続いた後、睨みつけていた瞳が、不意に緩んだ。と思うと、彼は突然くつくつと笑い出していた。
「……なるほどね。本当に、あんたの大事なもんだったんだ……。あんなにあんたに懐いてたステラにだって、そこまで言わなかったろうにな……」
 そう言うと、オークランドは小さく肩を竦めた。
「……けど、さすが、だな。ネオ……あんた、やっぱり迫力あるよ。変わってねえよな……」
「――おまえは、随分変わったな。俺の知っているおまえは、こんな姑息な真似をするような奴じゃなかった筈だが。――スティング・オークレー」
「俺の名前、覚えててくれたんだ」
 スティングという名で呼ばれた男は、フラガに皮肉めいた視線を送った。
「忘れられたかと思ったぜ。ネオ」
「――おまえのことは、忘れてはいないよ。だが、おまえの知っているネオ・ロアノークは、もうこの世には存在しない」
 フラガはそう言い放つと、スティングを一瞥した。
「……俺の名は、ムウ・ラ・フラガだ。――ネオは俺が記憶を失っていた間につけられた、名だった。それだけだ」
「……へええ……じゃあ、俺たちと一緒に戦った、あの頃のことは、全部なかったことにしようってわけかい?ネオ・ロアノークが存在しない人間だったのなら……つまり、そういうことだよな?」
 ディアッカから手を離すと、彼はゆっくりと立ち上がり、近付いてきたフラガと向かい合った。
「ずいぶん、都合のいいことだなあ。――それじゃあ、死んじまったあいつらだって浮かばれねえよな……。俺にしたって、そうさ。半分死んじまったようなもんだからな。この体だって、そう長くはもたない……。いや、あんただって、そうなんだろ?――本当なら、とうの昔に死んじまってた筈の体だからなあ……」
 スティングは、もう笑ってはいなかった。
 暗い、熱をもった瞳が、フラガを射るように見つめていた。
「……俺が何であんたをここへ呼び出したのか、わかるか?――俺の望みはただ一つさ。あんたを、もう一度、ネオ・ロアノークに生まれ変わらせたいだけだ。……そうさ。あんたは、ネオ・ロアノークの記憶だけを持った、全く新しい人間に、もう一度生まれ変わるんだ。過去の記憶やしがらみは全て、もう二度とあんたを煩わせることはない。――なあ、どうせ長くはない命だ。最後の時間を、俺と一緒に面白く過ごしてみないか。――どうだい。別に悪い取引じゃないと思うが」
「……フ、ラガ……」
 ディアッカは、からからに乾いた喉から、ようやくのことで言葉を絞り出した。
「……だ、めだ……こいつの、言うなりに……なるな……!」
「――声が出るようなら、大丈夫だな。安心した」
 フラガの目が、自分を見つめていることを意識して、ディアッカは不意に目頭が熱くなるのを感じた。
 いつもと同じ、さりげない笑顔だった。
 ――こんな時に……何で、そんな普通の顔してんだよ。
 胸の内で吐き捨てると、湧き上がる感情の波を持て余す。
 この間会ったばかりなのに、なぜこんなに懐かしく感じるのだろう。
 もう一度、あの腕の中に飛び込みたい衝動に駆られた。
 彼に、触れたい。
 彼の体温を、この手で感じたい。
 動かない体に、焦りと苛立ちが募る。
 すぐ、そこにいるのに、なぜ――
「――おまえの取引には全く魅力を感じないけどな。……まず、そいつを解放しろ。そうすれば、後は、おまえの自由だ。俺はおまえの言う通りにする」
「……銃を向けられたままじゃ、取引は成立しねえよ」
 スティングの視線に促されるまま、フラガは銃口を下げると、相手の手にそれを渡した。
「――いいだろう。取引成立だ」
 そう言うと、スティングは取り上げた銃を、逆にフラガに突きつけた。
「……ほら、さっさとそいつを外へ出せよ。約束通り、解放だ」
 顎でディアッカを指し示すと、フラガは黙ってディアッカに近寄ると、その体を抱え起こした。
「……フラガ……っ……」
 ディアッカは近付いてきた顔に、目を瞠った。
「――動けないのか」
 小さく囁く声に、僅かに頷いた。
「……薬の、せいで……」
「そうか……。足は?」
「……だいぶ出血した……けど、何とかもってるよ……」
 何で、この人は……、とディアッカは唇を噛んだ。
 ――俺のことばかり……。
 懐かしい、体温を感じた。
 求めていた温もりが、痛めつけられた全身に、心地良く沁み渡る。
「――おまえの隊長が、迎えに来る。少しの間、我慢していろ」
 短い会話を小さく交わしながら、フラガはディアッカを抱きかかえるようにして、扉口まで連れて行った。
 最後にその体を外へ突き放す前に、彼はディアッカの唇に、いきなりくちづけた。後ろからは、無論見えない。あっ、と驚きの目を見開く彼の口の中に、小さな顆粒が入り込んでくるのがわかった。
 瞬間で唇を離したフラガは、にやりと笑った。
「……中和剤だ。効くかどうか、わからんが、ちょっとはマシになるだろう」
 小さく囁くと、彼の体を押し放し、扉を閉ざしかける。
 それへ、ディアッカは必死で縋りついた。
「……フラ、ガ……っ……」
「おい、よせよ。奴に怪しまれる」
 フラガが制止しようとするのも無視して、ディアッカは懇願するように相手の腕を掴んだ。
「――このまま、逃げろ。俺なんか、どうでもいいからさ……あんた、ヤバいって。このままじゃ――!」
「……いいから!俺のことは心配すんな」
 フラガは軽く言い放つと、強い力で縋るディアッカを押しのけた。
 力の入らない体は、廊下の反対側まで弾け飛んだ。
「――悪い。ちょっと力入り過ぎた」
 苦笑しながら、フラガは手を軽く振った。
「――じゃあ、な」
 背を向ける。
「……待てよっ!」
 ディアッカが顔を上げた時には、既に扉は閉ざされていた。
「――フラガっ!……フラガ――――!」
 くそっ、と毒づきながら、ディアッカは床を這いながら、扉まで行き着いた。
 扉は開かない。
 中で何が行われるのか、想像するだけで鳥肌が立った。
 ――駄目だ。
 ――絶対に、駄目だ……!
(……フラガ……っ……!)
 どうにもならない体を床に押しつけながら、ディアッカは、ただひたすらに胸の中で狂おしく叫び続けていた。

                                     to be continued...
                                        (2011/06/26)

<<index     next>>