Blue Rain (17)














「……で?――話をつけようか」
 扉を閉め、二人きりになると、フラガは改めて相手と向き合った。
「――ああ、そうだな」
 銃口を向けたまま、スティング・オークレーは、奥へ続く扉を指し示した。
「――来いよ。続きは、あそこでしようぜ」
 その向こうに何があるのか、彼はよく知っていた。
 思い出したくもない。
 しかし、ここまで来た以上、思い出さざるを得ない。
 記憶は鋭いメスのように、彼の脳を切り刻む。
 彼が生み出された、場所。
 彼が――
 新しい彼が、再生された場所。
 今さらながら、この部屋全体に漂う腐臭に、頭が痛くなる。
 単に物理的な嫌悪というより、記憶の隅に埋もれていた忌避感が背中からじりじりと這い上ってくるような、おぞましい感覚だった。
「……どうした。早く行けよ」
 立ち竦むフラガを見て、スティングは銃で先に進むよう促した。
「――何をするつもりだ」
「話をつけるんだろ?――あんたがたった今、自分でそう言ったんだぜ」
「……俺は、ネオ・ロアノークに戻る気はない」
「あんたに選択の余地なんて、あるのかい」
 馬鹿にするような口調で、スティングは切り返した。
 片手を尻ポケットに突っ込む。
 再び出てきた掌に握られていたものを、軽く目の前にかざした。
「――これが何か、わかるかい」
 フラガの目が微かに引き攣るのを見て、スティングは満足気に唇を歪めた。
「わかるよな。――ひと押しすれば、そのまま、どかん、だ。この施設全体にどれくらいの爆薬が仕掛けてあると思う?まあ、想像してみろよ……。なかなか大変な作業だったぜ……」
 スティングは面白そうに笑った。
「言っておくが、これは冗談なんかじゃないぜ。何なら試してみてもいいが、俺が今これを押せば、一瞬で俺もあんたも、それからまだ外にいるあいつも……みんな、一緒にあの世行きだ。残念ながら、これが本物かどうか、見届けることができる者は誰もいなくなっちまう。信じるか信じないかは、あんた次第ってわけだ。――まあ、あんたは自分のことは気にしちゃいないだろうが、あいつを巻き添えにはしたくないだろう?」
「…………………」
「まさかあんたがここへ来るまで、俺が何もしないで馬鹿みたいに待っていただけだなんて思っていやしなかったろうな。……ああ、まあ、あんたの可愛がってるあいつとは、ちょっと遊んではみたけどな。あれは、なかなか良かったよ。あんた、あいつをよほど上手く仕込んだみたいだな。その辺の女よりよっぽど美味かったぜ。ありゃあ、あんたが執着する気持ちもわからないでもないな。コーディネイターってのは、そういうところまで優秀にできてるってことなのかな――」
「――黙れ」
 凄まじい目で睨みつけてくるフラガを前に、スティングは不意に笑うのを止めた。
「……あんた、本当に自分の立場がわかってねえな」
 フラガの視線を対等に受け止める瞳には、何の感情の色も見えなかった。
 目を合わせた瞬間、フラガは悟った。
 相手が自分の命にすら、何の未練も抱いてはいないということを。
 もし、彼が否と言えば、本当に一瞬の逡巡もなく、相手の指は起爆装置のボタンを押すだろう。
「――俺を黙らせたいなら、言う通りに動けよ」
 冷酷な声音に背を突かれるように、彼は歩き始めた。
 扉を潜ると、白い施術室の真ん中に、見覚えのある機械が目に入り、彼は全身を微かに粟立たせた。
 あそこから、彼は出てきたのだ。
 最初に目が覚めた時、彼はここにいた。
 試験薬の匂い。白い天井。検査機械の動く低いモーター音。
 頭は痺れ、焼けつくような痛みだけが残っていた。
 そして……
 彼の頭の中には、何もなかった。
 目覚めた瞬間のその真白い、空虚な世界。
 何一つ、思い出せない。
 漠然とした不安に包まれた、捉えようのない孤独感。
 また、同じことを繰り返すというのか。
 同じ、苦しみと、不安と、あの恐怖を……。
「……まだ、動くぜ」
 嘲笑うように、耳元で声が過ぎていった。
「――動作は確認済みだ。この間、そいつに試運転させてやったからな」
 スティングの視線の方向を辿る。
 機械の向こう側に、白衣の人間が床に横たわっているのが見えた。白衣の背に赤い染みが滲んでいる。うつ伏せになっている顔は見えないが、ぴくりとも動かないその体はとうにこと切れていることが遠目からも容易に見てとれた。
「……元、特務機関にいた奴とは到底思えないくらいの口の軽さだったよ。簡単に金で情報を売りやがった」
 スティングはそう言うと、蔑むように死体を一瞥した。
「――制御装置を解除させたついでに、せっかくだから、そいつ自身の体で実験してやったんだよ。けど、失敗だったな。どうやら普通の肉体ではもたないらしい。途中で頭がおかしくなったみたいでな。急に手のつけようもないくらい暴れ出しやがったもんで、ああせざるを得なかった。気の毒なことをしたよ」
 全く悪びれた様子も見せず淡々と説明する男に、フラガは厳しい眼差しを向けた。
「……俺も、ああやって殺す気か」
「――あんたは、大丈夫さ。そいつとは土台、素材が違う。あんたの体は強靭だ。だからこそ、生き伸びることができたんだろう」
 スティングは、にやりと笑った。
「……第一、あんたには免疫がある。既に一度はこの機械に脳を弄られてるんだからな。今度もおんなじことさ。ただちょっとだけ、我慢して目を瞑ってればいい。次に目覚めた時には、全部元に戻っている筈さ」
「……元に……」
 それは、違う。
 フラガは頭を振った。
 今ある自分が本来の自分自身なのだ。
 人為的に操作された結果が、ネオ・ロアノークだった。
 あれはあくまで一時的な人格でしかなかった。
 作られた自分に戻るなど、あり得ない。
「――違う。……そんなことは、あり得ない」
 元に戻るのではなく、新たに造り変えられるだけだ。
 また、記憶の操作が行われる。
 強制的に、記憶が削除されるのだ。
「ネオ・ロアノークは造られた人格だった。俺が再びネオに戻ることは、あり得ないことだ」
 ネオ・ロアノークに戻るというのとは、違う。
 そうでは、なく……。
 他の何になるのでも、ない。
 ただ、消される。
 過去に存在した彼も、現在の彼自身も。
 全ての記憶は削除され、リセットされる。
 彼の中には何も残らない。
 それだけだ。
 恐ろしい事実に、震撼とする。
「――ああ、そうだな。あんたの言う通りだ。けどな、たとえネオ・ロアノークに戻らなくても、今のあんたの記憶が全て消えることに変わりはない」
 スティングの瞳が熱を帯びた。
「……あんたには、何も残らない。あんたが最初に見るのは、この俺だ。――俺が、あんたの全てになる」
 貪婪で、強欲な光を滾らせる瞳。
「……あんたは、俺だけのものになるんだ」
 そして、俺たちは、共に生き、共に死ぬ。
 もう、独りでは、ない。
「あんたを、もう一度、ネオ・ロアノークと呼ぶのは、俺だ。あんたは、それに抗えない。俺は、あんたを手に入れる。あんたは、俺だけのものだ。命が燃え尽きるまで、俺たちは一緒にいるんだよ」
 スティングの心の中に、狂おしい光が灯る。
 それは、彼がずっと求めてきた、一縷の希望だった。
 絶望の底から這い上がるための、彼にとってはまさしく命綱に等しいものであった。
(……誰にもわかるまい)
 彼は独りごちた。
 ――俺には、何もない。
 超人的な肉体と知能を得る代わりに、何を失った。
 ……そしてその肉体と知能も、もう間もなく――終わりの時がやってくる。
 そんな彼の思考を粉砕するように、
「……俺は、誰のものにもならない」
 フラガの冷やかな声が、弾丸のように貫いた。
「――俺は、俺だけのものだ。おまえに俺をどうこうする権利など、ない」
 スティングの目が、吊り上がる。
 しかし、彼は滾る怒りを、一瞬で内側に抑え込んだ。
「……そう信じるのは、あんたの自由だ。何とでも言うがいいさ。結果はすぐに出る。――さあ、始めようぜ」
 それだけ言うと、彼はフラガに被験台の上に上がるように促した。





「……く……っ!」
 ――ディアッカは、床に手をついたまま、軽い呻き声を漏らした。
(俺は、何をしている……!)
 こんなところでゆっくり横になっている場合じゃない。
 ――フラガ……。
 閉ざされた扉を、睨みつける。
(行かなければ……)
 この扉の向こう……死体と腐臭に満ちた、閉ざされた空間の中で、あのイカれた野郎とフラガの間に今この瞬間にも起こりつつあることを想像するだけで、ぞっとする。
 奴は、フラガを殺すつもりなのか。
 いや――
 そうでは、ない。

 ――ネオ・ロアノークに生まれ変わらせる……

 確か、奴はそんなことを言ってなかったか。
 あれは、どういうことなのか。
 フラガは記憶を取り戻したんだ。
 もう、彼はネオ・ロアノークには戻ることはない。
 戻ることはない、筈だ……。
 本当に……?
 嫌な予感が押し寄せる。
 そんなことが、可能なのか。
 再び、ムウ・ラ・フラガを消し去り、ネオ・ロアノークに……。
 まさか、そんなことが……。
 だが、わからない。
 この研究施設自体が、ある筈のない可能性を示唆してはいないだろうか。
 だとしたら……。
 脳内で危険信号が点滅する。
 考えられないことが起こる可能性は……ゼロでは、ない。
 ――駄目だ。
 フラガ……!
 助けなければ……。
 手遅れになる前に。
(俺は、まだあんたに言わなきゃならないことが、ある……)
 まだ、あんたとちゃんと話せていない。
 言いたいことの半分も、言えていない。
 俺は……
 俺は……――
 激しい感情が、込み上げてくる。
 喉の奥が、震えた。
「――俺は、あんたを……」
 続く言葉は胸につかえて出てこない。
「……くそっ!」
 彼は歯を食いしばり、拳で壁を叩いた。
 自分のせいで、彼を窮地に追い込んだ。
 全て、自分の油断が招いたことだ。
 罠だとわかっていたのに……むざむざと誘い込まれた。
 相手の思惑通りに踊らされた。
 悔恨と自責の念で胸が一杯になる。
 肉体の痛みなど、瞬時に忘れてしまうほどに。
 それ以上に、ふがいない自分への憤りと、フラガを助けたい一心が、彼の足を前へ動かした。
 痛みと痺れは、微かではあるが、引いている。
 何とか、体が動くことを確認し、彼は息を止めて一気に立ち上がった。
 その瞬間、扉の向こうから、微かに悲鳴のような声が聞こえた気がした。
「……フラガ……?」
 ディアッカは目を見開いた。
 ――今の、声は……まさか……
「フラガっ!」
 転びそうになる体を扉にぶつける。
 隙間に手を入れ、必死で鉄扉に力をかける。
「……フラガ――っ!」
 半壊しかかった扉を、渾身の力でこじ開けた。
 扉は、僅かに動いた。その狭い隙間から無理矢理身を入れる。
 再び入った部屋の中には誰の姿も見えない。
 ただ……
 もうひとつ。
 隣りに続く扉に彼の目はぴたりと止まった。
 その瞬間――
「……うあああああ――――――……っ……あああああ………!……」
 再び、凄まじい悲鳴が聞こえた。
 間違いない。フラガの声だ。
 彼らは扉の向こうにいる。
「何をしている……やめろ――!」
 ディアッカは奥の扉に向かって夢中で駆けた。
 傷ついた左足が一足地面を踏む度に、凄まじい激痛が膝から駆け上る。
 しかし、彼はそれでも止まろうとはしなかった。
 ――やめろ。
 ――やめろ。
 ――やめろ―――――っ!
 このまま、片足が引き千切れようが、どうなろうが、構わない。
 自分のことなど、どうでもいい。
 今さら自分だけ、助かろうなどとは思ってはいない。
(あんたを、置いて行けるかよ。……俺がそんなこと、できると思ってんのかよ。見くびんなよ。馬鹿野郎……っ!)
 気魄が、高まる。
 扉の前まで来た。
 悲鳴は、いつしか止んでいた。
 それが何を意味するのか、考えたくもなかった。
(……まさか……)
(……そんなわけ、ねえよな……?)
(……フラガ……)
 押し寄せる不安を振りきるように、
「……フラガああああああ――――っ!……」
 ディアッカは、扉に体ごと突っ込んで行った。

                                     to be continued...
                                        (2011/09/12)

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