Blue Rain (18)











 飛び込んだ瞬間――
「……あ……――」
 異様な臭気が鼻を突き、薄暗い空間を包み込むエネルギーの熱い波動を感じる。
 耳に障る機械音に気付き、彼はごくりと唾を呑み込んだ。
 廃墟と化した施設の中で――確かに今、何かが稼働している。
 足が、竦んだ。
 忽ち本能が危険を察知し、引き返すようにとしきりに警告を発する。
 しかし――動こうにも、動けなかった。
 びりびりと、全身に痺れるような刺戟が走る。
 目に見えぬ強い電磁波の網に捉われたかのようだった。
 機械音が、高まる。
 瞬くセンサーの光。
 目を凝らすと、光の狭間の中で、中央に設置されたドーム状の施術台が、徐々にその輪郭を露わにする。
 台の上に蹲るように座っているものの姿に目を止めると、ディアッカははっと息を止めた。
 ジジ、ジジ、という耳障りな電子音が、まだ鳴り止まぬ中で、不思議なことに人間の息の音だけが、妙にはっきりと耳につく。
 息を吐く、音。
 心臓の、鼓動。
 それが己のものであるのか、目の前の人間から発せられたものなのかさえ、区別がつかぬまま……。
 息詰まるような沈黙が、続いた。
 機械から閃く光を背に、ゆっくりと顔を上げた、相手の顔。
 両の眼が、矢のように射竦めた、その時。
 ――見知った顔が、既に見知らぬ顔に変貌していることを、彼は本能的に感じ取った。
 ムウ・ラ・フラガの顔、ではない。
 これは――……
 また、逆戻りだ。
 彼は、遠い場所へ行ってしまった。
 そんな、どうしようもない、暗い絶望感が彼の心を覆う。
「……フラガ……」
 震える喉が、ようやくその名を吐き出すと、相手は僅かに眉を顰めた。
 その顔には、明らかに理解できない言葉への不審の表情が表れている。
「……どうしたんだよ、あんた……何でそんな目で俺を見てんだよ……。しっかりしろよっ……俺だよ、ディアッカ・エルスマンだよっ!わかんないのかよっ!フラガっ!なあっ――……」
「――黙れ」
 突然、背中に冷たいものが押しつけられ、彼の言葉はいったん途切れた。
「……両手を後ろに回せ」
 銃口を押しつけたまま、冷徹な声が、命じる。
「……てっめ――……!」
 ディアッカは肩越しに、怒りの眼を向けた。
「――フラガに、何をしやがったっ!」
「――聞こえなかったのか」
 背中に突き当てられた銃口が抉るように促すと、ディアッカは止むなく、言われたように両手を背後に差し出した。
 途端に手首を掴まれ、ひんやりとした感触と共に、かちり、と金属の輪が嵌まる音がする。
 拘束されたと同時に、背に衝撃が走り、あっと声を上げる間もなく、床に全身を叩きつけられていた。
「……馬鹿か、おまえ」
 もがく体に足をかけ、冷酷な瞳が嘲笑を浮かべながら見下ろしてくる。
「――何で戻ってきた?そんなに奴に未練があるのか?」
「……っ、る、せえっ……てめえなんかに……っ……!」
 後の言葉は、思いきり蹴られた衝撃で全て吹っ飛んだ。
 壁に頭を打ちつけられ、一瞬目の前が暗くなる。
「……っ……!」
 声もなく、沈んだ体は痛みすら麻痺しているかのようだった。頭や体の動きが鈍いのは、拘束されている以外に、やはり薬物の影響がまだ残っているせいだろう。
 頭の奥に霞がかかったかのようにぼんやりとした意識をかろうじて保っていたのは、まさに彼自身の強靭な意志の賜物だった。
「……く……そっ……!」
 口の中に溜まる血を吐き出して、彼は目の前に佇む男を憎しみを込めて睨み上げた。
「――まだ、そんな眼で睨む余裕があるのかい?しぶとい、というか……あんたも、つくづく往生際が悪い男だなあ……」
 憐れみとも嘲笑ともつかぬ眼で見下ろすと、スティングは大仰に肩を竦めた。
「――じゃあ、自分で直接聞いてみればどうだい?……ネオ!」
 『ネオ』という名に、ディアッカは眼を瞠った。
「ネ、オ……?」
「――ああ、ここにいるのは、ネオ・ロアノークさ。あんたの知っている男は、もうどこにもいないんだよ」
 勝ち誇ったように宣言する男を前に、ディアッカは激しい抵抗を込めた目を向けた。
「……どこにも、いない……だと……?馬鹿言ってんじゃねーよ。……そう、簡単に、あのムウ・ラ・フラガが……消えちまうわけ、ねえ……。ついさっきまで、ここにいた男が……」
 短く交わした会話、触れた時の息遣い、唇の感触、呼気……伝わってくる心拍音……その全てが甦る。
「……じゃあ、あれは誰なんだ?フラガでなかったら、あれは誰なんだよ!」
 首を伸ばし、向こうにいる男の影に向かって声を上げる。
「――フラガ……あんた、フラガだよなっ!なあっ……!」
 返ってこない答えを否定するように、激しく頭を振る。
「……何で答えねえんだよ……フラガ……っ……!」
 そんな筈はない。
 絶対に……
 フラガが、いなくなるなどということが……
 あるわけが、ない。
「………………」
 ディアッカを見下ろすスティングの瞳が、僅かに眇められる。侮蔑と冷酷さの宿る瞳が、挑むようにディアッカを射た。
「――ネオ、こいつをどうする?……殺すか、それとも……」
 スティングはそう言いながら、ディアッカの体の上に腰を落とした。
 馬乗りになった体が、ずしりとのしかかってくると、嫌な予感に彼は体を捩って逃れようとしたが、強い力で顎から床に押さえつけられると到底抗うことはできなかった。
「……俺は、殺す前に、もう一度、こいつの中にぶち込みたくなってきたんだが――」
 ずりっと、下半身を剥がれる気配に、ディアッカは心もち青ざめた。
「――おい、冗談――……」
「……さっきは、中途半端で終わっちまったからな。……まあ、死体と犯るのもアリだが、今はそういう気にならねーし……」
「……糞……野郎……っ……!」
 体が自由に動けば、今すぐにも目の前の澄ました面に何発も喰らわしてやるところだが……と、ディアッカは歯噛みした。
「――何ならスリーピースでもいいんだぜ。そう言ってたろう?」
 ちらと背後に視線を振り向けながら、さらりと言い放つ男に、ディアッカは心底嫌悪感を抱いた。
「……殺せよ」
「――嫌だね」
 スティングは鼻で笑うと、ディアッカの露出した下肢を撫でた。
 撥ねそうになる体を押さえつけながら、顔を耳元に寄せると、耳朶を舐める。
 熱い息と、濡れた舌の感触に、ディアッカは思わず喘いだ。
「ほら、好きだ、って言ってるんじゃねえか?」
「――……っ……よせ……っ、この、変態がっ……あ……っ……!」
 ペニスを愛撫されて、思わぬ刺戟が走ると、ディアッカの唇から小さな悲鳴のような音が漏れた。
 そんな様子を面白そうに眺めると、嬲るように男は嗤う。
「こんな状況でも、感度は良好ってか?――あんただって、相当変態じゃねえか?」
「……ちっ……違……これ、は……っ、てめえが……っ……あ――……!」
 体を転がされ、姿勢を変えられた。
 顔が床に押しつけられる。自分の吐き出す熱い息が頬を湿す。体温が上昇していくような感覚。
「……ん……う……ッ……!」
 熱い。
 意に反して、体が興奮しているのがわかる。
(俺……こんなに、変態だったか……)
 体の隅にまだ残っている薬のせいなのか。
 それとも、こんな風に欲情することを覚えさせられるほどに、この男に慣らされたせいか……。
 そう考えるとさらに屈辱感が増した。
「……や、め――……」
「――やめろ」
 低くよく通る声が、頭上を通り過ぎた。
 よく知っている、声。
 同じ、だ。
 少なくとも、声音は変わってはいない。
 この、声……
 ぼんやりと考える。
 これは……
「――何だよ、あんたも入りたいのか?」
 笑いながら答えるスティングの声に、
「おまえは、退いていろ」
 割り入ってきた声が、有無を言わせぬように言い返す。
「――俺が、犯る」
 そう言い切った声は、何ものにも従わぬ強固なプライドと意志の強さを感じさせる。
 それは、彼のよく知っている男の声に他ならなかった。
「全く……仕方ねえな……」
 男の体が、一瞬離れた。
 体が自由になる。
 息を吐きながら、彼は肩越しに、振り返った。
 そこに佇む男の姿が視界に入る。
 肩に手が触れたかと思うと、男は背後からそのままディアッカの体を包み込むように抱いた。
 床に押し倒されたまま、彼はその抱擁に、一瞬酔った。
 そういえば、最後にフラガと交わったのは、イザークとの一件の後……あの最悪な状況下でのことだった。
 あの時の荒々しさと比較すると、今は不思議にも暴力的なものは何も感じられなかった。
 ただ、触れる手が、急くように肌を撫でた。
 一秒の間も惜しむように。
 壁に押しつけられた顔に、相手の顔が近付いた。
 耳朶に触れた唇が、僅かな動きを見せたかと思うと――
「――何で戻って来た」
 思いもかけない言葉が、ディアッカを揺さぶった。
 信じられないものを見たかのように、その目が大きく見開かれる。
「…………………!」
 何か言おうとするその唇を、大きな掌が塞いだ。
「――おまえは、馬鹿だ……」
 聞き慣れた、口調。
 それは……いつもの、『彼』だった。
 胸の底がじわりと熱くなる。
(――馬鹿……か)
 言われるまでもない。
(……そんなことは、わかっている……)
 ――自分は、馬鹿だ。
 ――あんたの本当の気持ちもわからなかったほどに……。
 ぐい、と尻が持ち上げられ、そこに男の熱く、脈打つ塊が押しつけられるのがわかったが、抗おうという気持ちは全く湧かなかった。
 むしろ、それを待ち構えている自分に気付いて、ディアッカは泣きたい気持ちになった。
 自分がずっと、この男を求めていたことを、どうやって伝えればよいのだろう。
 今、こんな形でしか、男を受け容れることができない自分に憐れみを覚えた。
「…………う…………あああ………っ……ん……――!」
 押し殺す声が掌に伝わる。
「……フ……ラ、ガ……っ……」
 小さく呟かれた言葉が、掌の隙間から零れ落ちると、男の抱く腕が痛いほど、強くなった。
「――フラガは、もういない……」
 低い声が、囁く。
「……わかったな……」
(……わからない)
 わかるものか。
 何で……
(俺は、あんたを……)
「……あんたを……失いたく、な、い……」
 もはや声にもならない声が、吐き出そうとする言葉を封じ込めるかのように、熱を帯びた楔が彼の体の深奥まで、深く、深く打ち込まれた。


                                     to be continued...
                                        (2011/11/19)

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