Blue Rain (20) 抱えられた体が小刻みに揺れる。 はあはあ、と耳元で吐き出される相手の呼吸音は、やや乱れがちであった。 突然不安に駆られ、目を上げると、フラガの顔が、息を吐き出すたびに、僅かではあるが、苦しげに歪むのがわかった。 施術台に蹲っていた男の姿を思い出し、どのようなことが具体的に行われたのかはわからないが、やはり彼が受けたダメージは大きかったのだと実感する。 (それなのに、俺は……――) 足を引っ張っているだけだという事実が、ディアッカの心を悄然とさせた。 階段を上がるに従い、闇が薄れ、地上の鈍い光が目を射る。 雨は降っていないが、まだどんよりとした雲が頭上を覆っているのがわかった。 最後のステップを上りきり、地上に出ると、フラガの足取りは一瞬緩んだ。やや平衡を崩したように、体が斜めに傾ぐと、 「……もう、いいよ。歩ける、から……っ!」 ディアッカは堪らず叫んだ。 ちょうどその瞬間、頭上遥か彼方から徐々に近付いてくる飛行音を、彼の耳は確かに捉えた。 「……あ……――」 目を上げ、遥か上空に視線を凝らす。 「――どうやら、間に合ったようだな」 フラガが同じ方向に顔を上げ、目を細める。 強張った表情が、僅かに緩んだ。 ザフトの飛行艇がゆっくりと近付いてくる。 駆動音が近くなり、風が狂ったように体を叩きつけた。 豪風の中で砂埃が舞い、目を開けていられなくなり、ディアッカは片手で顔を覆った。 「……イザーク、か……」 「――ああ。ようやく、な……」 フラガは吐息を吐くと、ディアッカを地面に下ろした。 「……立てるか」 フラガの手を支えに、何とか立ち上がった。地を踏んだ途端、傷ついた足から凄まじい痛みが全身に駆け上るが、ディアッカは敢えて顔に出さぬよう歯を喰いしばって痛みに耐えた。 左足を巻いている布は元が白布とは思えぬほど、彼自身の血液で真っ赤に染め上げられていた。無理をしたせいで、いったん止まった傷口から再び出血していることは明らかだった。 「――もう少しの辛抱だ。我慢しろ」 「……何、言ってんだよ。――大丈夫だって、これくらい……」 ディアッカは、青ざめた顔で、無理に笑った。 「――それより、あんたの方こそ……」 言いかけて、言葉を呑んだ。 フラガの顔は、穏やかだった。 先程まで見せていた苦痛の表情は、微塵も感じ取れない。 「……俺が、何だって……?」 語りかける声の静けさが、どこか遠すぎて不安になる。 「――あ、いや……」 ディアッカは茫然と相手の顔を見つめた。 「……苦しそう――だった、から……」 そう言った途端、頭をがしがしと掻き回すように、撫でられた。 「……ちょっと、何――!」 何をするんだ、と言い終わる前に、ぐい、と頭を掴まれ、そのまま相手の鼻先まで引き寄せられた。 すぐ目の前から、フラガの真剣な瞳が覗き込んでくる。 竦んでしまうほど厳しく見つめていた瞳がふっと和らいだ。 「――おまえは、本当に馬鹿だな」 そんな風に言う口調は、普段彼がよく知っているムウ・ラ・フラガそのものだった。 「……なっ、何だよ、馬鹿って……俺は――」 「いいから――」 ディアッカを遮ると、フラガは続けた。 「……俺のことなんか、考えるな。――おまえは自分の心配だけしてりゃいいんだよ。わかったな」 「………………」 「俺のことなんか、考えるな。二度と、考えるな」 「――あんた、何、言って――……」 相手の言っていることの意味を計りかねて、戸惑う。 何と応えればよいか、言葉が思い浮かばず、ただ黙って相手の顔を見つめ返すばかりだった。 「……俺のことは、忘れろ」 目を、逸らせない。 食い入るように、強く、深く、見入ってくる青い瞳。 この瞳と、何回こんな風に向かい合ってきただろう。 いや…… 本当に、ちゃんと向かい合ってきただろうか。 (俺は……この人に……) ――伝えなければ。 今、言わなければ、一生後悔する。 その瞬間、切羽詰まった思いが彼を急きたてた。 「……フラガ……俺――」 いったん目を閉じ、息を深く吸い込んだ。 今から言う言葉の重みを、相手は本当に理解してくれるだろうか。 目を、開く。 フラガの目を見ながら、ゆっくりと口を開いた。 「……俺は、あんたが――……!」 その時、すぐ背後に迫った飛行艇が着陸する際に立てる轟音が、彼の続く言葉を一気に呑み込んだ。 舞い立つ風に、身ごと吹き飛ばされそうになるところを、フラガが強い腕でその全身を抱きしめ、支えた。 唇が相手の耳朶に触れた時、ディアッカは囁くようにその続きの言葉を吐き出した。 「……好き、だ……」 声に出した瞬間、相手の体がひくりと反応するのがわかった。 堪らなくなり、縋りつく手に力をこめた。 「……俺には、あんたが必要なんだ……!あんたと、一緒にいたい……」 必死に言葉を絞り出す。 顔を上げた。 茫然と見下ろすフラガの視線と目が合った。 「……気付いたんだ。本当に俺が必要としているものが、何なのか……」 伝わっているのだろうか。それでも……。 「……あんた、俺が特別だ、って言ったよな。――俺も……俺も、そうなんだよ。ずっと……そう、だったんだ。たぶん、初めて会った時から、ずっと――」 驚きの表情が消え、やがてフラガの顔にはうっすらと微笑が広がっていた。 「……隊長さんじゃなかったのか?おまえの『特別』は……」 「――それとは……違う、んだ……違うんだよ……」 ディアッカは、くそっ、と相手の胸を拳で軽く突いた。 「……わかってるくせに、聞くなよ……俺は、本当に――」 「――ディアッカ――!」 背後に着陸した飛行艇から飛び出してきた影が叫ぶ声が、二人の会話を中断させた。 フラガの唇から小さな吐息が漏れた。 やがてその手が、軽くディアッカの背を叩くと、フラガは唐突に体を離した。 途端に、吹き抜けていく風が冷たく頬を撫で、突然感じた肌寒さに僅かに全身が粟立つのを感じた。 まだ、彼はすぐ傍にいる。 なのに、なぜこんなに不安を感じるのだろう。 「――ほら、お迎えが来たぞ。続きはまた後でな。――おーい、ここだ――!」 フラガは駆けてくる銀髪の青年に大きく手を振った。 「……………………」 ディアッカは黙って拳を握りしめた。 (――どうでも、いいのかよ……) ――まだ、最後まで言っていないじゃないか。 ――聞いてくれよ。俺は…… ――俺は…… 「――ディアッカっ!無事かっ!」 足音がすぐ傍まで近付き、いきなり背後から肩を掴まれた。 その勢いで、振り返らざるを得なくなった。 しかし振り返ったそこに見た、必死の形相の友の顔を見ると、フラガとの会話の邪魔をされた文句も何も言うどころではなくなった。 「……イザーク……」 「――ディアッカっ……この――ばっ、馬鹿野郎っ!……貴様、勝手なことばかり、しや、がって……っ……人が、どれだけ、心配したと――!」 吐く息も荒いまま、それでもディアッカの姿を見てほっと安堵したのか、いつもの調子で立て続けに罵倒を浴びせかけたイザークだったが、彼の傷ついた足を見た途端、彼ははっと息を呑んだ。 「おまえ、その足――……」 「大、丈夫だ。ちょっと酷くやられたけど、まだ動ける」 イザークに支えられながらも、自分の足で何とか立とうとして、ディアッカは痛みに顔を顰めた。 「だいぶ失血してるくせに、無理するな」 フラガはディアッカに向かってそう言ってから、イザークを見た。 「――こいつを連れ帰って治療してやってくれ。かなり出血している。立っているのがやっとの筈だ」 「……あっ、ああ。わかった。――ディアッカ、俺の肩に掴まれ」 イザークはよろめくディアッカの腕を取り、自分の肩に回した。 と、その時―― フラガの顔に、突然緊張が走った。 「……伏せろっ!」 肩越しに振り返りざま、彼は庇うように二人の前へ飛び出すと自らも銃を引き抜いた。 光が交差したかと思うと、熱線の矢が彼らの鼻先すれすれに走って行く。 それを避けた勢いで、イザークはディアッカを肩に支えたまま、地面に軽く横転した。 「……っ……大、丈夫か……」 何とか起き上がると、イザークはすぐにディアッカの両脇を抱えて引き起こした。 「――あっ、ああ……それより――……」 ディアッカの焦燥に駆られた視線は、目の前に蹲る男へと注がれていた。 右肩を押さえた指の間から、じわじわと滴り落ちていく鮮血の色が、やけにはっきりと目に映った。 服の繊維が焼け焦げる、嫌な匂いが鼻を衝いた。 「……フラガ……あんた、腕を――!」 「――慌てるな!掠っただけだ」 振り向かぬまま、相手は鋭く一蹴した。 声音の強さに、伸ばしかけた手が、空で止まった。 激しい拒絶の意志を感じ、ディアッカは茫然と相手の背を見つめた。 「――ネオ!」 施設の入り口の前に立つ男が叫ぶ声が、大気を鋭く引き裂いた。その肩にのっている長口径の熱線銃は、なおもこちらへ正確に狙いを定めていた。 「――逃がさねえぞ!ネオっ!」 「……奴か……っ!」 イザークは舌を打ち、銃を抜いた。 「よせ!」 フラガに制止され、イザークは心外な顔をした。 「なぜ、止める。奴より先に仕留めればいいだけのことだ!」 「……奴に構うな。奴が用のあるのは、俺だけだ。おまえたちは、さっさと行け!」 「……しかし――」 「しかしも糞もあるか!隊長のくだらんプライドで、大事な部下を殺しちまってもいいのかっ?ええっ!」 突然激しい罵声を浴びせられ、イザークは目を瞠った。 「……なっ、何、…………――」 ようやく肩越しに振り向いたフラガの目が、ディアッカの視線を捉えた。 ディアッカはどきりと胸が震えるのを感じた。 (……何だよ……) 声が、出ない。 言葉が、出てこないのだ。 「……頼むから、行ってくれ。これ以上、こいつを巻き込みたくない……」 ――ディアッカ…… 最後に唇が小さく動き、彼が何か言いかけたような気がした。しかし結局それは、音となって伝わりはしなかった。 瞳が一瞬和らいだかと思うと、彼はついと顔を元に戻した。 「――俺は逃げない!逃げないから、撃つな!」 フラガは前方へ向かって大きな声で叫んだ。 「――早く逃げろ。今のうちに……」 最後に一言、背中越しに声をかけると、彼はゆっくりと歩き出した。 (……何だよ、それ……) ディアッカはいつしか拳を握りしめていた。 (……何なんだよ……!) 「……い、嫌だ……!」 絞り出すように、声が喉を衝いて出た。 「――馬鹿野郎っ!あんたを置いて行けるかよっ!」 彼はイザークの腕を振り解いて、前へ出た。 「……待てよ、フラガっ!」 「ディアッカっ!」 イザークが背後から、ディアッカを止めた。 「……な、せよっ!」 もがくディアッカを、羽交い締めにする。 「イザークっ!……放せっ!」 「冷静になれっ、ディアッカ!今行けば確実に撃たれるだけだぞっ!」 「構うかよっ!――俺は……あの人を……っ!」 ディアッカは遠ざかっていく背中を必死で追った。 「――あの人を、もう一度失うわけには、いかないんだ……!」 いったん振り解きかけた体は二、三歩行きかけてよろよろとあえなく地面に崩折れた。 (くそっ!……くそっ!……何へばってんだよっ!……) どくん、どくんと心臓の鼓動が激しく打ちつけるのがわかった。 しかし既に痛みは感じられなくなっている。 汗がじわりと滲み、前に垂れた髪が額に纏わりつく。 視界に霞がかかる。 それでも、目の前の男の姿だけは、くっきりと映っていた。 (……動けよっ!) ――こんな、時に…… 情けなくて、悔しい。 「行くなっ、フラガ――!」 軽く手を振る男の背が、遠くなる。 「ディアッカっ!」 ぐい、と体を後ろに向けられ、イザークと目が合った途端、強い拳が鳩尾に入った。 「――っ……う……――!」 衝撃で、目の前が一瞬真っ暗になった。 「――イザ―、ク……て、め……――」 ちょうどその瞬間―― ――どんっ! 体が一瞬浮き上がるような感覚。 ――激しい衝撃が地を走り、地鳴りと爆音が耳を打った。 「……ディアッカっ!」 切羽詰まった声が聞こえる。 イザークの、声だ。 ――何が、起こっている? 爆風と、焔が、目を焼いた。 人間の姿は微塵も見えない。 噴き上がる焔が、空一面を覆っていた。 ――激しい爆発音が続き、爆風や噴煙が体を舐めるように過ぎていった。 「……フ、ラガ……」 彼は、どこにいる? それだけが、気になった。 体が持ち上げられるのを感じたが、意識が朦朧としてもはや目を開けることもできなかった。 to be continued... (2012/01/29) |