Blue Rain (23)











 ヘルメット越しに頬に当たる風は、爽やかだったがどことなく湿り気を帯びているようにも感じられた。
 この分では、またひと雨くるかもしれない。
 前方遥か彼方の空は、案の定暗い雲で覆われている。
 あと一時間もしないうちに、雨が降り出すことは間違いないように思われた。
 その前に目的地に到着したい。
 アクセルをふかして少しスピードを上げる。
 例のごとく、ホテルから借りてきた古いモーターバイクだ。
 やはりエアーバイクよりもこちらを選んでしまう。
 一度乗ってから、どうも病みつきになってしまったらしい。
 オートナビゲーションより、自分の手で操作する方がずっとスリリングで面白いし、何より行先を探られにくい。コンピュータを使えば、プログラムに履歴が残る。手動ではその心配がない。
 以前イザークに尾けられて所在は知られてはいるものの、敢えて行先をおおっぴらに公開する必要もない。
ホテルのロビーから、慎重にすり抜けて出てきたつもりだった。出てくる時誰かに見られていたとは思えないし、スピードと小回りがきくことを利用して、途中の市街地周辺で十分撒いた自信はあるが、まあ尾けられていたとしてもどうということはない。
そこへ行っても、恐らくすぐに引き返すことになるだけだろう。
(……俺は、何をやっているんだろうな)
 フラガが生活していた、あの『隠れ家』。通い慣れたあの山荘へ向かって、彼は今バイクを走らせている。
 行っても無駄ではないかと思う半面、もしかしたら……と心のどこかで何かを期待している愚かしい自分がいる。
(普通に考えりゃ、あり得ねーよな。馬鹿か、俺は……)
 それとも、彼と過ごした場所へ戻って、ただ過去の思い出に浸りたいとでも思っているのか。
 ますます自分が愚かしく思えて、ディアッカは、心の底ではあ、と憂鬱な溜め息を吐いた。
 いやしかし、と萎えそうな心を何とか奮い立たせる。
 ――フラガは、生きている。
 生きている、という言葉が胸にずしりと重く響く。
 あくまで自分がそう信じているというだけだが、それでも実際に、彼の体の一片の骨すら出てきていないではないか。
 生きているにしろ、死んでいるにしろ――人間の体が煙のように消えてしまうわけがない。
 だから……探すしかないのだ。たとえ1パーセントでも望みがある限り、諦めるわけにはいかない。そうしている間にも時間はどんどん過ぎていく。
(――俺にできることは、これくらいしかねーんだ……)
 どんなに僅かでもいい。何らかの手がかりが、欲しい。
 だから今、自分はこうして行動している。
(……迷ってんじゃねーよ!)
 彼は昂然とヘルメットを被った頭を反り上げるように前へ向けた。





 バイクを止め、ヘルメットを脱いだその瞬間を見計らったかのように、ぽつりと水滴が頬に落ちてきた。
 見上げた空はどんよりと暗い雲で覆われていた。
(くそ、案の定だ……)
 内心毒づきながら、早足で山荘の門をくぐる。
 水滴はそれ以上落ちてはこなかった。
 しかし、じきにまとまった降りになることは、これまでの経験でわかっていた。
 中に入れなかったら、取り敢えず軒下ででも雨宿りしていくしかないな、と思いながら、改めて目の前の家屋を眺めた。
 プラントでは滅多に見ない、木造の小さなヴィラは、何度も通ううちにいつしか彼にとってもう一つの家(ホーム)となっていた。
 この場所は、二人だけの秘密の隠れ家のようなものだった。
(ここに、あの人はいた……)
 短いひと時を、幾度となく彼とともに過ごした。
 思い出すと、切なくなる。
 当たり前のように過ごしていたあの時間が、今となっては、このうえもなくいとおしく思える。
 玄関先に立ち、撫でるように扉に触れた。
「………………?」
 彼ははっと息を詰めた。
 手応えを感じたのだ。
 扉の取っ手が、動く。
 思いがけず開いた扉に、ディアッカは驚きの目を瞠った。
(……開いている……?)
 彼は急速に心臓の鼓動が高まるのを感じた。
 足が竦む。
(……中に、誰かいるのか……?)
 ――まさか……
 逡巡する彼の鼻先を、強い独特の香気が掠めていった。
 嗅いだ瞬間、彼はあっと叫び声を上げそうになった。
 ――この、匂い……。
 いつも、フラガが挽くコーヒーの匂いだ。
「……フ……ラガ……?」
 まさか、まさか、と繰り返しながら、心臓が激しく動悸を打つ。
「……フラガ……っ!……いるのかっ?おいっ!」
 ようやく四肢の感覚が戻ってきた気がした。
 我に返ると、ディアッカはリビングへ駆け込んだ。
「――フラガ――っ!」
 まだ治りきっていない左足を庇うことも忘れて、僅かな距離を息もつかずに駆けた。
 転ばんばかりに居間に駆け込んだ瞬間、ソファーに背を向けて座っている人物がゆっくりと頭を回した。
 その顔を見た瞬間、ディアッカは愕然とその場に立ち竦んだ。
 フラガでは、ない。
 失望と同時に、意外な顔を見た愕きがみるみる彼の顔いっぱいに広がる。
「……あ、あんた……!」
 ディアッカはぽかんと口を開けたまま、しばし相手を茫然と見つめた。
「……ド、ドク……な、何であんたがここに……――」
「――意外に早かったねえ」
 ゆったりとした口調。持ち上げた右手にコーヒーカップが湯気を立てている。
 こちらが動揺しているのに対して、相手は小面憎いほど、落ち着き払った態度を見せていた。
「……ちょうどコーヒーも入ったところだし、こっちに来て一緒に飲まないか」
 エドワード・ウォルマーは悠然と手招きした。髪を綺麗に撫でつけ、白衣の代わりに洒落た紺のスーツを着込んでいる、その姿はまさしくホストクラブのメンバーそのものだった。
「――いつもこうやって、一緒に飲んでたんだろう?――『彼』と」
 『彼』というところにアクセントを置くわざとらしい言い方が、ディアッカの勘に障った。
「あんたには、関係ないだろう。――それより、説明して欲しいもんだな。何であんたがここにいるのか、ってさ」
「……恐い顔だねえ。まあ、仕方がないか。驚かして悪かったよ。……きっと君がここに来ると思ってね。先回りして待っていた、ってわけさ。しかしまたまたビンゴだったなあ」
 そう言うと、エドワード・ウォルマーは、はははと軽く笑った。
「――取り敢えず、そんな顔で立ってられちゃあ、話すにも話せない。こっちにおいで。話はそれからだ」
 警戒心も露わに顔を顰めたまま、ディアッカは男の前へ回り込むと、向かい合わせのソファーにどかっと座った。
 ローテーブルに置かれたもう一つのコーヒーカップを見て、ディアッカは改めてウォルマーに猜疑の視線を向けた。
「――もう一人、誰かいるんじゃないのか。俺のためにわざわざ淹れてくれたとは思えねーんだけど」
「いやいや、それは君のために用意したんだよ。無理にとは言わないが、毒は入ってないから良かったらどうぞ。私ももう一杯飲むよ」
 そう言いながら、ウォルマーは手前のコーヒーサーバーに手を伸ばした。
 目の前で、サーバーから注がれるコーヒーを睨むように眺めていたディアッカは、相手が二杯目のカップに口をつけると、ようやくカップを手に取った。
 口につけ、呷るように飲む。
 コーヒーの苦味が口の中いっぱいに広がった。
 いつもの豆とは、違うように感じた。
「……ちっ、不味いな」
 忌々しげに呟く声をすかさず聞き取った相手が、にやりと口の端を緩めるのが見えた。
「――悪いね。大佐のように美味く淹れられなくて」
「……『大佐』……」
 思わず繰り返したディアッカを見て、ウォルマーはしまった、という風に頭を掻いた。
「……っと、もう『大佐』じゃなかったか。はは、けどつい、習慣でそう呼んでしまうな」
「――あんた、一体フラガの何なんだよ!」
 我慢しきれなくなって、ディアッカは拳でテーブルを打った。コーヒーカップがテーブル上で軽く躍った。
 ウォルマーは苦笑した。
「――そう睨むなよ。ちゃんと話すと言っているだろう」
「なら、さっさと説明しろよ!」
「……ああ、私がここにいる理由だね」
 ウォルマーはコーヒーを飲み干すと、空になったカップをテーブルに戻した。
「……私の家は代々医者でね。それも連邦軍直属の研究機関で働いてきた。――きみたちコーディネイターに匹敵する、いやそれ以上の『強化された』人間を造り出すための施設さ。……と言えば、きみにもわかるだろう。それがどんな所か……」
「……まさか……」
 ディアッカはごくりと唾を飲み込んだ。
「――エクステンデッド、か……」
 地球軍が『エクステンデッド』――人間以上の力を持つ存在、いわゆる『強化人間』を人工的に造り出すため、極秘研究機関において、非道な人体実験を繰り返していたことは今や周知の事実だった。
 彼は自分が連れ込まれた例の旧実験施設内で見た光景を思い出した。
 あの場所には、人間の体を機械の部品であるかのように取り扱い、弄んだ痕跡がなおも凄惨に、生々しく残っていた。
 硝子ケースに保存されていたあの人体の標本を思い出すと、再び吐き気が込み上げてくる。
 動揺するディアッカの前で、ウォルマーは皮肉げに唇を歪めた。
「……言い訳はしないよ。実際非人道的なことに携わってきたことは事実だからね」
「誰が言い訳なんか聞くかよ。――反吐が出るだけだ」
「――きみたちコーディネイターが、それを言うか?……同じ人間の『劣等種』を平然と淘汰しようとしたきみたちが……」
 ウォルマーの瞳が刺すようにディアッカを見た。
 その視線に貫かれた時、ディアッカは初めて相手から自分に向けられるその深い憎悪の感情に気付いた。
 これだけコーディネイターに対して激しい憎しみを抱いている男がなぜ、自分を治療したのか不思議だった。
「……と、すまない。まだ本題に入ってなかったね。私が大佐をなぜ知っているのか。きみの知りたいことをまだ話していないな」
 茫然と凝視するディアッカを見つめるウォルマーの眼が、不意に緩んだ。しかしもはやそこには一片の好意も見られなかった。
「――私が彼を知ったのは、ヤキン戦で瀕死の重傷を負い、宇宙を漂流していた彼が私たち連邦軍の手で救出された時だ。そしてあれから彼がどんな風に脳の中を弄られたかも、記憶を操作され、ネオ・ロアノークが生まれた過程も、全て――私は知っている。……といえば、きみは私を許さないかな……」
 語られる言葉の一つ一つが、空気を重くする。
 ディアッカは拳を固く握りしめていた。
 目の前の、この男の口から……仮にも自分を治療してくれた医師の口から、こんな恐ろしい事実が語られようとは、思いもしないことだった。
(……何で、こんな……!)
 ディアッカは、軽く頭を振った。
 信じたくなかった。
「……わから、ねえ……じゃあ――あんたは、何で俺を……」
 これは、全て何かの陰謀の一部なのだろうか。
 疑いが一気に頭を擡げる。
 まさか、地球連邦軍自体が関わっているのだとすれば、とんだ猿芝居が仕組まれていたことになる。
「――なぜ、私がきみを担当したかって……?」
 ウォルマーの声がすぐ傍らから聞こえた気がして、ディアッカはぎょっと横に顔を向けた。
 気のせいではない。
 いつの間に、こんなに近くにやってきたのか、すぐ横にウォルマーが座ってにやりとこちらを見つめている。
「……きみが、必要だったからだよ」
「――必要……?何で、俺が……」
「……きみは、大佐を縛る大切な切り札だからね……」
「……大、佐……?」
 その言葉の意味を悟った時、ディアッカの心臓は大きく跳ね上がった。
「……生きて、いるのか……」
 ぽつりと呟く。
 しかしウォルマーの冷やかな顔を見ると、一瞬生じた希望の光は、忽ち暗い不安と猜疑の波に覆われた。
「……知ってるんだな、あんた……!」
 答えない相手に焦れるように手を伸ばすと、両肩を掴んだ。
「答えろよ!――あの人をどうした……!」
 その時、傍らにもう一人いる気配を感じ、彼ははっと顔を上げた。
 ソファーの背越しに一人の男が彼らを見下ろしていた。
「………………!」
「――よお」
 にやりと笑うと、男は屈み込み、顔を近付けた。
 モスグリーンの短髪に、醜い傷痕の残る顔。
「――また、会えたな」
「……て、めえ……――っ……!」
 すぐには声が出なかった。
「……てめえら……グルだったのか……」
 煮えたぎるような憤りに、全身が熱くなる。
 ――こいつ……!
 この男こそ、全ての元凶ではなかったか。
 そして、あの爆発でフラガと共に行方がわからなくなっていた……。
 ――やはり、生きていやがった。
 すなわちそれは、フラガも生きているということを意味する。
 しかし……
(何で、こいつがのうのうと、こんなところに……!)
 姿の見えないフラガはどうしているのか。
「――取り敢えず、この手を放してくれないか」
 ウォルマーはそう言うと、肩にかかったディアッカの手を払いのけようとした。しかし、ディアッカは彼の肩から手を放そうとはしなかった。
「……フラガは、どこにいるんだよ……まだ答えてねーだろ」
 緊迫した空気が、流れる。
(くそっ、何でこいつはこんなに落ち着き払ってやがるんだ……!)
 目の前の男の悠然とした顔に、苛立ちが募った。
「……フラガは……ど……こ、だ……っ……――」
 動悸が、速まる。
 息苦しい。
 体が、熱い。
 冷や汗が首筋を伝い落ちていくのがわかった時、何か変だと思った。
「……っ……――!」
「――ようやく、効いてきたみたいだな……」
 男の唇が呟いた言葉を捉えて、ディアッカは愕然と口を開いた。
「……何、を……っ……!」
 口の中に広がる苦味は、さっきのコーヒーの味と同じだ。
 が、同時に全身を蝕んでいくような、嫌な感覚……。
 ――これは……
 薬物の感覚だった。
「……く、そ……」
 彼は自分の軽率さを悔やんだ。
 汗ばむ体を背後から抱え込まれる。
「――触、るな……っ……!」
 言葉とは裏腹に、拒む力は既に失われていた。
「――再会を祝して、また楽しもうぜ……」
 耳元で囁かれた言葉に、強く首を振ってみせたが、逃れるすべはなかった。

                                     to be continued...
                                        (2012/05/19)

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