Blue Rain (24)











 白い天井が、見えた。
 ぼんやりとした意識の中ですら、シーツの上で動く四肢の感覚だけははっきりとわかる。

 ――まだ、生きている……。

(……ああ……)
 ムウ・ラ・フラガはゆっくりと手を上げた。
 指先で、額に触れる。
 傷痕の感触……それは馴染みのある手触りでもあった。
 彼は浅く、そして次に深く息を吸い込んだ。
 痛みは、感じない。体は無傷のままだ。
 爆風で地面に体を叩きつけられた際に意識を失っただけだったのだろう。
(……また、死に損なったか……)
 意識が鮮明になるにつれ、込み上げてくるのはただ無念さと悔恨の思いだけだった。
 どのみち、この体はもう長くはもたないだろう、と思っていた。
 だからこそ、自分で最後の死に場所をつくったつもりだった。
 それが、なぜ……
「――なぜ、まだ生きているのか。……と思っているのでしょう?」
 不意に声がかかり、フラガを驚かせた。
 目覚めた時、室内に人の気配は全く感じられなかった。てっきり、部屋の中には自分以外には誰もいないものと思い込んでいた。
「……人は思うほど、そう簡単に死ねるものではありませんよ。残念ながら、ね……そして、それはあなたご自身もよくおわかりの筈だ――」
 足音が近付く。
 上から覗き込む顔には、どことなく覚えがあった。
「……おまえ……以前に見た顔、だな……」
「覚えていて下さいましたか。光栄です、大佐――」
 にこりと笑う紳士然とした容貌に、フラガは瞬いた。
(――こいつは……)
 曖昧な記憶の彼方に、この男は確かに存在していた。
(そうだ。……確かあの時も、こんな風に……)
 その時もやはり、病室の中で、こんな風に応答をしていた。
「……エドワード・ウォルマーです。ネオ・ロアノーク大佐」
 相手がその名を繰り返すと、フラガの顔が険しくなった。
「その名前の男は、もう存在しない。――俺は、ムウ・ラ・フラガだ。ついでにいえば、地球軍に所属していたのは過去の話だから、今は階級もない。大佐と呼ぶのもふさわしくないな」
「――そうですか。お気に障ったなら、申し訳ありません。しかし、私にはやはりあなたは、ネオ・ロアノーク大佐でしかないのですが……」
 まだ若く、一見穏やかで丁寧な話し方をする。それなのに、その傲岸不遜な瞳から静かにかけられてくる圧力には、息苦しさすら覚えるほどだった。
「そりゃそうだろうな。『ネオ・ロアノーク』という人格を造ったのは、貴様らだ」
「あなたを救うためでした」
 皮肉交じりの言葉をウォルマーはさらりと受け返した。
「死ぬ寸前の恐怖を知った脳内の記憶を消し、新たな記憶を植え付けたのは、極限状態にあったあなたの精神を崩壊させないための最後の手段でした。あなたの脳が受けた衝撃は肉体以上に大きかったのです。我々はただ、あなたを救うために最善を尽くしただけですよ……」
「……随分最もらしい説明だが、そんなことを俺が信じると思うか。――貴様らはただ、俺を利用しただけだろう。ファントム・ペインの指揮官として、な……」
 フラガが言うと、ウォルマーは悪びれた様子もなく、軽く息を吐いた。
「――まあ、そうですね。結果的にはそうなったかもしれませんが……」
 その間にフラガはゆっくりと半身を起こすと、青年と向き合った。
「……で、今回もまた、これか。偶然にしては、できすぎだな」
 鋭い視線を受け止めると、ウォルマーは不敵に笑った。
「……さすがは、大佐。読みが鋭い」
「――最初から、仕組まれていたというわけか。……えらく手の込んだことをするじゃないか」
「……オークレーは少し暴走しすぎましたが、確かに、吹き込んだのは我々です」
「――で、何が目的だ……」
 フラガが尋ねると、ウォルマーの顔から笑みが消えた。
「……我々に、もう一度力を貸して頂きたいのです」
 相手の真剣さに対して、フラガは困惑したように肩を竦めた。
「……おいおい、気は確かか。俺はもう昔の俺じゃあないんだぜ」
 そう言うと、フラガは自嘲の笑みを漏らした。
「――こんな死にかけの体に、貸せる力なんかあると思うのかよ。……ったく、えらく買いかぶられたものだな」
 しかし、ウォルマーは真剣な態度を崩さなかった。
「……ご自分の力をそんなに過小評価されなくてもいいでしょう。――まだあなたには、十分力がある。あなたの遺伝子に伝わるその特殊能力のことですよ。我々の力で、あなたにもう一度強靭な肉体を与えることもできる。そしてあなたは再び優秀な指揮官として生まれ変わるのです。――我々の理想とする、清浄なる、美しい世界を実現するために、あなたのその力を役立ててはもらえませんか。この地球を、我々の手でもう一度、元の地球に戻すために……」
「……元の、地球……?」
「――宇宙史以前の、純粋で美しかった頃の地球ですよ。無論――少なくとも、コーディネイターなどという、化け物が生まれ出される以前の世界に、ということです……」
 ウォルマーの目が次第に熱を帯びてくるのがわかる。
 危険な兆候だ、とフラガは警戒を強めた。
「……つまり、もう一度この世界を戦争に巻き込もうとしているわけか……。どこのどいつが、そんなくだらないことを考えている?――黒幕は誰だ……?どこかの狂信的な民族主義者の生き残りか何かか?」
 フラガは、嬉々として狂信的な理想論を語り始めたウォルマーに怒りのこもった目を向けた。
 ――この世界を、また愚かな戦争に導いていこうとする者がいる。
 そう思うと身内から沸々とした怒りが湧き上がってくる。
 こんな奴らがいるから、世界はいつまでも、変わらない。
「……誤解しないで下さい。我々は、平和のために戦うといっているのです。人類の真の平和と共存のために……」
「何が平和と共存だ。――貴様らは、ただ戦いの火種を撒こうとしているだけだろうが」
「かりそめの平和ではなく、真の平和のためです。あなたは何もわかってはいない。――大佐、今、我々に必要なものは、たとえ多くの血を流しても、我々を脅かす異分子をこの世界から完全に排除することなのですよ。――今度こそ、完全に奴ら――あのコーディネイターを殲滅するのです」
「…………………」
 フラガは目の前で語られていくその誇大妄想的な話をどこまで信じてよいものか計りかねて、しばし黙り込んだ。
「――私の言っていることが信じられませんか、大佐……」
 ウォルマーは、フラガを見てにっこり笑った。
「……このままでは、あなたの命はあと半年ももたない。しかし、我々の仲間になって頂けるなら、あなたは普通に生きながらえることができる。悪い話ではありませんよ」
「俺が今さら、それほど生きることに執着していると思うのか――」
 フラガは苦々しく笑った。
「――冗談じゃない。もう、この体を利用されるのは、真っ平だ。……貴様らに頭の中を弄られ、ネオ・ロアノークという人格を与えられたせいで、俺はそれまで自分が持っていた大切なものをたくさん失った……知らないうちに多くの過ちも犯した。二つの生を生きた代償は、思った以上に大きかった。未だに俺は自分の頭の中に疼く知らない記憶や感情の波に悩まされている。――全部、貴様らのせいだ。だから、もうこれ以上は……」
「――失うものは、ありませんか」
 微妙なニュアンスの問いかけに、フラガははっと目を開いた。
 男と、目が合う。
 男の目に、笑いはなかった。
 その瞬間、相手が自分の中にある大事なものに触れようとしていることに気付いた。
「……どういう意味だ……」
「――言葉通りですよ。もうこれ以上、あなたには、失うものはありませんか……?」
「……貴様……何を――」
 フラガの前に、一枚のIDカードが差し出された。
 ザフトの制服姿の青年が真面目な顔でこちらを見つめている。
 それを受け取りながら、フラガは自分の心臓の動悸が激しくなるのを感じた。
 嫌な予感が、一気に現実になる。
「……こいつを、どうした……」
「――あれから彼は、あなたを探すと言って、地球に残りました。……ちなみにあの後、軍の病院で彼を治療したのは、私です」
 くすりと揶揄するように笑うと、ウォルマーはフラガから、ふいと目を逸らした。
「……コーディネイターとは思えないような、不器用さですね、彼は……こういう人間ばかりなら、コーディネイターもたいしたことはないとたかを括れそうなものですが……」
 話しながら、窓際まで歩いて行く。
 窓辺に立ち、窓から外を眺めながら、彼は一瞬不思議な表情を浮かべた。それが何を意味するのか、フラガにはよくわからなかった。しかしそれもどうでもよいことだった。
「――こいつを、どうしたと言っている!」
 フラガは苛立ちに、声を荒げた。
「……だから、あなたを探していたんですよ。――こちらから何も仕掛けなくても、自分からあっさり飛び込んで来てくれたってわけです。全て、予想通りにね……」
 ウォルマーはようやくフラガの方へ顔を向けた。
 氷のような瞳が、真っ直ぐにフラガを射抜く。
「――失いたくないでしょう、彼を」
 冷たい沈黙が部屋を支配した。
 フラガの胸を重く浸していく感情の波。
 怒りというより、それはむしろ深い悔恨に近い思いだった。
(……なぜ、巻き込んだ……?)
 自分自身を糾弾するように彼は心の中で苦渋に満ちた叫びを上げた。
(……こうなる前に、なぜ俺は自分自身の始末がつけられなかった……?)
 彼は、荒ぶる心を静めるように、いったん深く息を吸い込んだ。
 窓辺に立ち、こちらを見つめる青年に改めて視線を据える。挑むように、そして冷やかな怒りを込めて彼はウォルマーを見た。
「……コーディネイターを殲滅すると言った人間が、コーディネイターを人質にして取引をしようというのか。――笑わせるな」
「……今すぐにでもお返ししますよ。あなたが我々に力を貸すと約束してくれるなら」
「…………………」
 相手が何と応えるか当然分かっているかのように、青年は余裕の笑みを浮かべてフラガをじっと見つめ返した。
「――選択の余地はなさそうだな」
「おわかり頂けたなら、話は早い」
 ウォルマーは、再びにこやかな笑みを見せた。
「今後とも宜しくお願いしますよ、大佐」

                                     to be continued...
                                        (2012/07/15)

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