Blue Rain (25) 懐かしい匂いがする。 シーツに鼻をつけ、そのまま目を閉じた。 (フラガ……) 求める男の顔をぼんやりと頭の中に思い描く。 奇妙なことに、浮かび上がる顔は全て初めて出会った頃の顔だった。 連合の制服を着た、背の高い精悍な軍人。 『エンデュミオンの鷹』と呼ばれた男。 普通ならあり得ないような出会い、だった。 ――あの頃の俺は、今以上に馬鹿だった。 いっぱしの軍人気取りだったが、本当はまるで軍隊や戦争のことなんかわかっちゃいなかった。わからないまま、連合のモビルスーツをかっぱらって乗り回していた。たくさんの人間を殺した。殺して、殺して、殺して…… ディアッカは、頭を抱えた。 (――くそっ!何で今さら、こんなこと……) あの時、投降しなければ―― 捕虜となってアーク・エンジェルに収容されなければ―― フラガと出会うこともなかっただろう。 今、こうして、ここにいることも……。 いや、違うか。 ディアッカは愚かな自分を笑った。 ――あの時投降していなければ、そもそも俺は今生きてここにいることもなかっただろう…… 自分は生きることを選んだのだ。 その結果が、これだ。 ――出会わなければ、良かったのか。 ――そうすれば、こんな目に会うこともなかっただろう。 (こんな、どうしようもない……) そう思いながらも、一方でその出会いを強く肯定している自分がいる。 (たぶん、あの人を知らなければ、俺は……) ――俺は空っぽのままだった。 自分が今こうして生きているのは、あの人を知ったからだ。 それだけは、確かだ。 自分でも、正直未だにわからない。何であの人なのか。けど、そんなことはどうでもいい。どうでも、いいんだ……。 (――俺は、ただ……あの人に、生きていてもらいたい……) ……もう一度、会いたい……。 ディアッカは泣きそうになる自分の感情を押さえ込むように、ベッドの上に猫のように丸くなって蹲っていた。 そういえば、捕虜になった時も、こんな風だったかな、と思う。 やたら昔のことを思い出すのは、今の状況があの頃と似ているからかもしれない。 ただ、囚人としての待遇は悪くはない。 片足を鎖で繋がれてはいるものの、部屋の中を動き回れるだけの自由は与えられている。 食事も毎日まともなものが運ばれてくる。 じめじめとした暗い牢獄の中に放り込まれているわけではないのだ。 ここはまともなコテージの部屋の中で、窓もある。外の景色も見え、日中は十分明るい。繋がれている足枷さえなければ、そして扉が外側から施錠されていなければ、招かれた宿泊客であるといっても差し支えないだろう。 (けど、現実はこれだ) ディアッカは片足を軽く上げ、鎖の擦れる音を確認すると、皮肉な笑みを浮かべた。 (俺は、こうして繋がれている) 彼はのろのろと起き上がった。 サイドテーブルの上のコップを手に取ると、残っていた水を一気に飲み干した。 生温い水に、彼は軽く眉を顰めた。 湿った唇から、思わず溜め息が零れる。 (……くそ……っ……) 苛立ちをぶつけるように、シーツを拳で叩いた。 迂闊だった。 本来ならとても考えられない迂闊さだ。 何も考えずに、ただ気持ちだけが先走った。 わかりすぎるほど、単純でストレートな行動。 相手にとってはまさに飛んで火にいる……といったところだろう。 (俺、ザフトの一部隊の副官なんだよな、これでも……) 今の状況にはあまりにもそぐわない身分に、笑える。 イザークに知られれば、どんなに酷い叱責を食らうかわかったものではない。 (まあ、それもここから出られればの話だけどな……) 気になるのは、自分が今ここにいることと、フラガがどのようにリンクしているのかということだった。 (生きている……と、奴は言った) だから、自分が必要なのだ、と。 (フラガは、本当に生きているのか……) ――あれから、丸三日が経つ。 あの時――コーヒーの中に入れられていたのは微量の睡眠薬だったらしい。 しばらく意識が抜け落ちて、気が付くとこの部屋のベッドの上に寝かされていた。 最後に笑っていた男の台詞が耳に残っていたせいか、まさか寝ている間にまた突っ込まれでもしたかと尻に手を当てたが、幸いにその形跡はなかった。 (まあ、さすがに犯られて覚えてねーってことはねえよな……) ディアッカはくだらない心配をした自分に思わず苦笑せずにはいられなかった。 ――くだらない心配、か。 しかし、くだらない心配をしなければならないだけの理由は十分にあるようにも思えた。 あの男……オークランド、いや、本当の名はスティング・オークレーといったか。 あの男の姿を見ただけで、嫌でも体が思い出す。 痛みと熱に浮かされ、意識も朦朧とした中で、何度も体の奥まで執拗に突き込まれ、否応なしに喘がされた。 これまで経験した中で、最低最悪のハードなセックスだった。 なのに、あいつを見た瞬間、体の底からぞくりと震えが湧き上がった。それが何を意味したのか、ディアッカ自身よくわからない。しかし、少なくとも、体があまりにも素直に反応したことに、彼は戸惑い、怖れと不安を感じずにはいられなかった。恐らく相手もそのことに気付いていると思うと余計に彼は総毛立った。 (――また楽しもうぜ……) 男の言葉に一瞬でも反応した自分を彼は心底恥じた。 (……くそっ、馬鹿にしやがって……) シーツの上をさらに拳で二度三度と打ちつける。 人を何だと思っている。 (――誰が……二度と……てめえなんかに犯らせるかよ……っ……!) 鍵が外れる音に、ぎくりと扉に目を向ける。 扉が開くと、ちょうど怒りを滾らせていた当の相手、スティング・オークレーがにやにやと笑いながら姿を現した。 食事を乗せたトレイを片手にずかずかと入って来る。 「――ほら、飯だ。食えよ」 サイドテーブルの上にトレイを置くと、ベッドの上のディアッカに向けて目を細めた。 「――いい加減残さないで全部食えよ。何度も言ってるが、毒は入れてねえからな」 「……信用できるかよ」 ディアッカはトレイに目を向けると、胡散臭げに答えた。 「第一、こんな状況で腹なんか空かねえよ」 「いいから、食え。俺の手製だぞ」 「だから余計嫌なんだよ」 空腹を覚えないのは、事実だった。 何が入っているかわからないという警戒心から食べたくないという気持ちもあった。 それでもいつここから出られるかわからないという不安から、少しでも体力を維持しておかなければと思い、少しは口をつけるようになった。 本当に食事には何も異物は入っていないようだったが、依然として食欲は湧かなかった。 「……何なら、俺が食わせてやろうか」 スティングは不意にディアッカの方に顔を近付けてきたかと思うと、いきなり手を伸ばし、両肩を掴んだ。 突然のことで避ける間もなく、ディアッカはベッドの上に仰向けに転がされていた。その上に男の体がのしかかってくる。 抵抗しようとした両手首を掴まれ、恐ろしい力でシーツの上に縫いつけられた。股間に男の膝が入り込み、圧迫する。 「…………っ……何……――っ――!」 「――食欲はなくても、こっちはイケるんだろ?」 耳元に男の熱い息がかかる。 ぞくりと体が震えた。 頬が火照る。 「……馬鹿言うんじゃねえよっ……放せ……っ……!」 「……なあ、いいだろ。ちょっとだけ、挿れさせろよ」 「――じょ、冗談――……!」 必死で両手を振り解いて起き上がろうとする。もがいているうちに、その手を再び引き上げられ頭上で一つにまとめられる。 嫌な予感がした。 「放せっ、この……――っ!」 かちり、という金属音と同時に、両手は手錠でベッドの頭に固定されていた。 「……くそっ……この変態野郎が……っ!――外せよ!」 「嫌だね」 スティングはようやく体を浮かすと、勝ち誇ったようにベッドの上に繋がれた獲物を見下ろした。 「……そんなに犯りてーのかよ。――野郎相手にそこまで興奮できるとはな。……つくづく、変態野郎だよ、てめーは……」 両手を激しく動かすと、手錠が耳障りな音を立て、ベッドが小刻みに揺れた。無意味な抵抗であると知りながら、なおも目の前の男を睨み据えた。 「――てめーみたいな変態と誰がするかよっ!……さっさとこれを外しやがれっ!」 「この状況でおまえに拒否権はないだろう?いい加減、諦めろよ。無駄に暴れると、痛くなるだけだぜ」 スティングの手が、ディアッカの股間に伸びる。 不意に前を掴まれ、ディアッカはひっと声を上げた。 「……やっ……触、るな、っ……あ――!」 こんな…… よりにもよって、『彼』の寝室で……他の男に抱かれるなど…… ――冗談ではない、と思った。 身を捩り逃れようとする体を、男は自分の体重を乗せながら抑えつけた。 「……やめろっ!やめろって……!俺は、やらねえって言ってるだろうがっ!放しやがれ、このっ……!やめろっ!やめ、―――っ……!」 不意に口を掌で塞がれ、声が出なくなる。 「……ったく、うるせーんだよ……!――」 スティングは面倒臭そうに、苦しげに喉をひくつかせるディアッカを見下ろした。 「――声は喘ぐ時だけにしておけよ。うるさくて苛々する……」 片方の掌で相手の口を押さえたまま、スティングはディアッカの股間から後方へもう一方の手をスライドさせる。ズボンを脱がせようとするとますます抵抗が激しくなるのを、さらに体重をかけて抑えつける。 そうしている間に、さすがにスティング自身の息も上がりつつあった。 「……ふうー、くそっ、やっぱり薬使わねーとおとなしくなんねえな。ったく……せっかく気持ち良くしてやろうってのに……暴れると痛くなるばっかだって言ってるだろうが。――まあ、いい。こっちは、さっさと挿れさせてもらうぜ――」 「――もう、いい。やめろ」 突然、背後から鋭い制止の声がかかり、彼の手はぴたりと動きを止めた。 肩越しに振り向くと、いつの間にか扉が開いていることに気付いた。そこに佇む厳しい顔をした医師の姿を認めて、スティングは軽く舌を打った。 「――そこまでにしておけ。オークレー」 「……何だよ、覗き見か?趣味悪いな」 「――そいつには手をつけるなと言った筈だが」 エドワード・ウォルマーはにこりともせず、冷やかにスティングを見つめていた。 「……固いこと言うなよ。俺たちはもう何度もヤった仲なんだぜ。今さら、ちょっとくらい遊んだってたいしたことねーだろ。女じゃあるまいし――」 含み笑いを浮かべた顔を相手に向けると、ウォルマーは露骨に嫌な顔をした。 「――そんなことは知ったことではない。今すぐそいつから手を離して、さっさと出て行け」 「…………それは、命令、って奴かい?」 スティングの顔から笑いが消えた。 「――ああ、命令だ」 ウォルマーの手の先には銃口が鈍い光を放っていた。 「……なるほどね。分かったよ」 スティングは溜め息を吐くと、抑えつけていた獲物から手を離し、のろのろと起き上がった。 「……っ……おいっ、て、めえっ……!これ、外してけよっ……!」 息を弾ませながらも、離れていく相手の背に向かってディアッカはがちゃがちゃと頭上の手錠を揺すってみせた。 男は肩越しにくすりと笑った。 と同時に、その指先からきらりと光るものがカーブを描いて空を舞うと、ディアッカの頭のすぐ傍に落ちた。 「誰かに外してもらいな。ま、しばらくそのまんまでいてもいいかもしれねーけどな。なかなかいい格好だぜ。今度はそこのお堅いドクターと別のお遊びでもすれば?――いや、違うか。ドクターはそんなことはしねえよな……――ん?」 スティングの言葉が不意に途切れた。 ウォルマーの背後にいる人物の姿を見た瞬間、顔色が変わる。出て行こうとする足がいったん止まり、その目が大きく見開かれた。 「……あんた……」 「――人の家の中で、あんまり勝手なことをされちゃあ、困るな」 静かに吐き出された言葉は、十分な威圧感を伴っていた。 聞き覚えのある声に、ベッドの上のディアッカの耳がぴくりとそばだった。 (……この、声……?) ――まさか…… 心臓がどくん、と大きく撥ねる。 「……へえ……」 スティングの瞳がみるみる険しくなった。ウォルマーの方へ苦々しげな視線を向ける。 「――そういうこと、か……」 「――そういうこと、だ……」 ウォルマーは無機質に答えた。 「……わかったなら、軽はずみなことはするな」 「――殺されたくなかったら、な」 氷のような声が出て行こうとするスティングの背を射抜く。 しかしスティングは足を止めなかった。 「……ふ……どうだかね」 ちらと背後に視線を向けると、彼は小馬鹿にするように笑った。 「……あんたなんかに、殺されねえよ」 捨て台詞を残してスティングが出て行くと、ウォルマーも踵を返した。 「――では、後はご自由に……大佐」 扉が閉まる音が響いた。 静まり返った部屋の中で、ゆっくりと足音が近付いてくる。 「…………………」 顔を見る前から、それが誰かわかっていた。 信じられない。 しかし、夢でも幻でもない。 これは、現実だ。 「……く、そ……っ……」 (何て、ざまだよ……) こんなみっともない格好を見られるのが嫌で、思わず顔を背けた。 「……大丈夫か」 真上から、声が降ってきた。 よく知っている、声だった。 間違いない。 ゆっくりと、顔を上げる。 ムウ・ラ・フラガが、そこにいた。 顔を見た瞬間、胸の奥から溢れ出てこようとするその感情の波に押し流されそうになるのを感じた。 それでも、彼は唇を引き結び、黙ったまま相手を凝視した。 そんな彼の様子は、少し拗ねた子供のように見えたかもしれない。 フラガの唇が不意に緩み、その顔に柔らかな笑みが零れた。 「……何だ、口が聞けなくなったか?」 「――………………」 言葉が出て来ないことにもどかしさを感じる。 何を、どう言えば、伝わるのか。 今の、この思いを。 今の、この心の底から湧き上がる、激しく強い、荒ぶるような、それでいてやりきれないくらい深く切ないこの感情を、どこにぶつければいいのか。 一言でも口を開けば、きっともう堪え切れない。 言葉にならない。泣いてしまいそうだ。 肌蹴たシャツの下を手が潜り、肌をそっと撫でた。 「――暖かいな、おまえは……」 フラガは呟くと、彼の体を掬い上げるように、抱き締めた。 拘束されたままの両手が引っ張られる痛みも気にせず、ディアッカはフラガの胸に顔を擦りつけた。 まるで犬のようだな、とおかしくなったが、そうした途端に、溜めていた感情が堰を切って一気に溢れ出た。 もはや止めようもなかった。 「……う……――ああ……あっ……あああ―――……!」 フラガの胸の中で、ディアッカはしばらくの間、子供のように声を上げて泣き続けた。 to be continued... (2012/08/16) |