Blue Rain (26)











 フラガの胸に顔を埋めたまま、ディアッカはしばらくの間、恥も外聞もなく、ただ子供のように泣きじゃくっていた。
 自分でも、相当みっともない姿だと思った。
 しかし、いったん外へ噴き出した感情は、なかなか治まる気配を見せない。
 フラガは何も言わなかった。彼を抱いたまま、黙ってその興奮が鎮まるのを待っているようだった。
 そうしているうちに、やがて興奮の波は引いていった。
 我に返ると、だんだん気恥ずかしさが増してくる。
 涙は治まったものの、ディアッカはなかなか顔を上げることができなかった。
「――大丈夫か」
 フラガが、静かに問いかける。
「……………ん……………」
 ぐしゃぐしゃになった顔を拭こうとして、両手がまだ拘束されたままであることに気付いた。
 そんなディアッカの顎にフラガの手がかかり、不意に顔を持ち上げられる。
 否応なく、相手と目が合った。
「――ひどい顔だな」
「……るせえ……なら、見なきゃいいだろ――」
 目を背けようとすると、軽く頬を叩かれた。
「――駄目だ。もっとよく顔を見せろ」
「……い、嫌だ……!」
 目を閉じると、子供のように首を振る。
 フラガはディアッカの顔を両側から掬い上げるように両手の内に押さえ込んだ。
「……目を、開けろ」
「……だから、嫌だって……」
 頑なに拒むディアッカを見下ろしながら、フラガは困ったように笑った。
「分からん奴だな」
 顔を間際まで近付けると、彼の吐く息が直に頬にかかり、ディアッカは思わず目を開いた。
 すぐ眼前に、フラガの顔が迫っていた。
 唇が、触れる。
 体温と息遣いが生々しく感じられた。
「――おまえの顔を、よく見たいんだよ」
 囁く声は、音になっていなかったかもしれないが、ディアッカの耳にははっきりと伝わった。
「……フラ、ガ……」
「喋るな」
 そう言われるのとほぼ同時に、唇が重なった。
「……ん――…………っ……――!」
 命じられずとも、言葉を発することはできなくなっていた。
 くちづけは、一気に深まった。
 息苦しいほどの濃厚な接吻に、唇を離そうともがき始める。しかし、相手はそう簡単に放してはくれなかった。
 そのままシーツの中に深く押し倒されてしまう。
 逃れようとする舌を捉えられた。
「――…………ん――っ――っ……んん……――」
 激しく執拗な口づけに、嫌でも体が深い場所で反応する。
 瞬く間に熱が潮のように満ちてきた。
 唇が離れると同時に熱い息が噴き零れた。
「…………っ、あ……――」
 体が重なる。
 せわしない愛撫に、相手の余裕のなさが伝わってきた。
 触れられるたびに、熱が高まっていく。
 バックルの外れる音がした。
 下肢を軽く持ち上げられた時、ちりっと疼くような痛みにディアッカは一瞬顔を歪めた。すかさずそれに気付いたフラガが気遣わしげな視線を向ける。
「――痛むのか」
 ディアッカは、フラガの問いに首を振った。
「……途中で止めんなよ」
 むすっと呟いたディアッカの顔を見て、フラガは目を緩めた。
「――誰が止めると言った?」
 熱い吐息が頬を焼く。
「…………っ……!――」
 入り込んでくる熱の塊に、息を呑んだ。
 初めてではない繋がりに、慣れている筈の体が、なぜか異様なまでに緊張し、竦んでいることに気付いた。
「……緩めろ――……」
 フラガの声は殆ど吐く息でかき消されていた。
 額に垂れた前髪を優しく掻き上げる手の温もりに、安堵の息が漏れる。
「――おまえを、傷つけたくない……――」
 それが単に今この瞬間の行為に際しての言葉なのか、それともそれ以上の深い気持ちを表しているのか、わからない。しかしそれを聞くと、なぜか再び切なさが溢れた。
「……俺のことなんか、気にすんなよ。――あんたは、もっと自分のことを、大事にしてくれ……」
 やっとの思いで、それだけ言うと、再び湿りを帯び始めた瞳を隠すように目を閉じた。
「頼むから……――」
 その瞬間、体の奥で熱が爆ぜた。
 それ以上、言葉を発することはできなくなった。
「……っ……あ……う、あッ――!」
 突然荒々しく動き出した相手の欲望に突き上げられ、ディアッカは激しく喘いだ。
 痛みが、快感に変わる。
 何も、考えられなくなった。
 次第に奥深い場所へ入ってくるものを待ち受けていたかのように、蠢き纏わりつこうとする粘膜の動きが緩やかな刺戟を脳に送り込む。
 急速に体内の温度が上昇し、熱を帯びた瞳がゆっくりと瞼を上げると、フラガを射抜いた。
「……フラ、ガ…………っ……」
「――黙ってろ……」
 開きかかった唇を、フラガの舌が封じ込めた。
「…………っ………――!」
 跳ね上がる互いの心臓の鼓動を直に感じながら、悦楽の海に溺れた。
 悦い箇所を何度も擦られ、悲鳴を上げたいくらいの快感に何度も脳内で光が弾けた。
(……フラガ……)
 唇が離れ、零れる唾液が糸を引く。互いに余裕のない呼吸を肌で感じながら、彼は激しく喘いだ。
「……っ、く……あ、っ、ああ――!……」
 奥深く穿たれたものが震え痙攣する気配を感じた次の瞬間には、勢いよく放たれた熱が体の内を浸しきっていた。
「……っ、あ、あ――……っ……――!」
 反り返った喉から掠れた声が迸る。
 彼自身の下肢も震え、同時に白い液体を迸らせていた。





 意識を失っていたのはどれくらいのことだったのか。
 ゆっくりと瞼を開ける。
 自分一人だけが、ほぼ全裸のまま、ベッドの上に横たわっているのがわかった。
 腰がだるく、全身に疲労感が纏いつく。
 両手を戒めていた枷は、いつの間にかなくなっていた。
 ゆっくりと起き上がると、軽く頭を振り、周囲に目を走らせた。
「……フラガ……?」
 相手の姿が視界に入らないことに、忽ち不安を募らせた。
「どこだよっ!」
「――わめくな。俺は、ここだ」
 苦笑混じりの声が聞こえたかと思うと、ドアが開き、当のフラガが姿を見せた。
 それを見た瞬間、ディアッカの唇から思わず安堵の息が漏れた。
 フラガはディアッカの顔を見ると、悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「幽霊見てるような面すんなよ。俺は本物だ。足もちゃんと二本ついてるだろう」
 フラガは足を軽くはたいてみせると、ベッドの傍まで近付いてきた。
「――それに何より、幽霊とセックスはできないだろうが?」
 相手がにやりと笑うと、ディアッカは軽い羞恥に上気する頬を隠すように軽く目を背けた。
「うるせえよ。――いきなり好き放題しやがって……」
「ああ、悪かった。――我慢できなくてな。つい、最後までやっちまった……」
 フラガは目を細めた。
「……無理させるつもりは、なかったんだけどな……。――ほらよ」
 差し出されたのはミネラルウォーターの入ったボトルだった。
 それを見た途端、急に喉の渇きを意識して、キャップを取るとごくごくと一気に飲んだ。冷たい液体が喉を通りすぎていくと、少し体が生き返ったような気がした。
「……ディアッカ」
 フラガの声にふと視線を戻すと、傍に佇む男の真剣な眼差しにどきりとする。
 そこには先程までの冗談交じりの笑顔はなかった。
「……何だよ」
 フラガの右手が上がると、そこに光る金属の銃口が閃いた。
「……おい、あんた、何――……」
 目を瞠るディアッカの前で、熱線が迸り、足元に鈍い衝撃が走った。
 声もなく、彼はベッドの上で固まっていた。
 我に返ると、すぐに硝煙と共に、シーツの焦げる匂いが鼻を衝いた。
 ベッドの上には、彼の片足を繋いでいた鎖の残骸が砕け散っていた。
「……フラガ、あんた――……」
「――おまえは、自由だ」
 フラガの手が、ディアッカの肩を掴んだ。
 鋭い瞳が、ディアッカを間近から凝視した。
「……俺のことは心配するな。おまえは俺に捉われず、自由に生きろ」
「……何言ってんだ、あんた……」
 戸惑うディアッカをベッドから引き下ろすと、窓辺へ顔を向けた。
「――あそこから、外へ出ろ。おまえの乗って来たモーターバイクが下に置いてある。それに乗ってすぐに逃げろ。後のことは心配するな。俺が奴らを引き止めておく。――いいな、すぐに行け!」
「……ちょ、ちょっと待てよ。勝手に何言ってるんだ!」
 ディアッカは背中を押そうとするフラガの手を押し止めた。
「――冗談言うなよ!誰が逃げるなんて言った?勝手に決めんなよっ!俺は、逃げねえよっ」
「ここにいるのは、危険だ。おまえをこのままここに置いておくわけにはいかない」
「……あんたは?」
 ディアッカはフラガを睨むように見た。
「……俺?」
「――あんたは、なぜここにいる?……あんたは、何かやばいことに巻き込まれてるんじゃねーのかよ?」
「俺のことは、いいから――」
「よかねえよっ!」
 ディアッカは吐き出すように叫んだ。
「……俺はあんたを探してここへ来たんだ。地球に残ったのも、あんたを探すためだった。わかんねえのかよ?俺にとって、それだけあんたが大事だってことなんだよっ!――だから、ここへ来たのも、俺の意志なんだ。まさかこんなに簡単にあんたを見つけられるなんて思ってなかったけどな。嬉しいよ、俺……あんたを見つけられて、良かった。本当に、良かった。――俺はいいよ。あんたがここにいるとわかったら、むしろその方がいい。あんたの人質?――いいよ。その方が、あんたは無茶をしないだろう。人質にでも何にでもなってやる。あんたが生きていてくれるんなら、何でもしてやるさ!」
「……ディアッカ、おまえ……自分が何を言っているか……」
「――わかっているさ。どんなに馬鹿げたことに聞こえようが、構わない。……あんたが何を考えているか、言ってやろうか。……あんた、死ぬつもりなんだろう?あんたは自分の命を大事に思っていない。全然大事に思っていない。だから、何回も死にかけるんだろ?今だって俺を逃したら、きっとあんたは……あんたは、平気で自分の命を――」
 ディアッカの言葉を遮るように、フラガは再び手を伸ばし、ディアッカの肩を掴んだ。
「時間がないんだ。つべこべ言わず、言われた通りにしろっ!」
「だから、俺は逃げねえって言ってるだろうっ!」
 フラガの手を撥ねのけると、ディアッカは怒鳴り返した。
 フラガの目が苦しげに歪んだ。
「……俺はおまえを巻き込みたくないんだ。なぜ、わからない!」
「わからねえよっ!――あんたが俺のことを言うなら、俺だって同じなんだ。俺はあんたの傍を離れたくないんだよ!」
 フラガは自分自身の苛立ちを抑え込もうとするかのように、大きく息を吐いた。
「ディアッカ……確かにおまえが言ったように、俺は生きることに執着していない。それは、俺の命がもう、そんなに長くはもたないだろうとわかっているからだ。おまえも知っているように、俺の肉体は一度死んでいる。無理な蘇生をしてから、もうぼろぼろなんだ。軍を離れてから、体を酷使することもないから、そう症状は出ないが、これまでも兆候は感じていた。むしろここまでもっている方が不思議なくらいだろう。俺は……いつ死んでもおかしくない体なんだ。だから、俺に付き合うことはない」
「……フラガ……」
 ディアッカは、茫然と目の前の男を凝視した。
 嘘やごまかしではない真剣な瞳を前に、彼はショックを受けたように一瞬言葉を失った。
「おまえとも、もう会わない方がいいだろうと思っていた。だが、俺は……」
 フラガはそこで言い淀み、自嘲気味に顔を伏せた。
 その顔に苦悩の影がよぎる。
「……結局、こんなことになるなんて、な。……俺は馬鹿だ。――とにかく、わかったろう。俺なんかに付き合って、おまえが自分の人生を台無しにすることはない」
「……勝手に決めるなよ。そんなこと……あんたがいつ死ぬのかなんて、関係ねえよ。俺は、今、あんたがこうして生きている限り、あんたと一緒にいたいだけだ!」
 ディアッカがそう言うと、フラガは驚いたように顔を上げた。
「ディアッカ、おまえ――……」
 フラガの言葉はそこで突然止まった。
 彼は振り返り、背後に険しい視線を投げた。
 半開きの扉の陰に、若い医師が背をもたせている姿が見えた。
「……話に夢中になっておられるようでしたので……」
 フラガの視線を受けて、ウォルマーはうっすらと笑みを零した。
「立ち聞きするつもりはなかったのですが――」
 それは、話はちゃんと聞いたぞという念押しにも聞こえた。
 ウォルマーは扉から背を離すと、ゆっくりと歩を進めた。フラガのすぐ傍まで近付くと、わざとらしく溜め息を零した。
「――困りますね、大佐。勝手なことをされては……」
「……こいつは無関係だ。ここに置いておく理由はない」
「……それはあなたが判断されることではありません」
 ウォルマーは冷たく言い放った。
「なぜだ。こいつがいなくても、俺はおまえたちの元から逃げはしないと言っている」
「逃げはしない、でしょうね。――しかし、彼も今言っていたでしょう。……あなたは、自分の命を大事にしない、とね」
 ウォルマーはそう言うと、薄く笑った。
 左手首に嵌めている黒いリストウォッチに右の手が触れた。
 その瞬間、短い悲鳴が聞こえ、人の倒れる音がした。
 フラガは弾かれたように悲鳴の方へ顔を向けた。
「――ディアッカ……!」
 床に崩れるように倒れている青年を見て、彼は蒼白となった。
「……どうしたっ!」
 抱え起こすと、胸に耳を当て、生きていることを確かめる。
 弱々しいが、心臓は鼓動している。
 一瞬で気を失ったが、やがて徐々に意識が戻り始めたようだった。
「……う……っ……――」
 唇から、微かに呻き声が漏れた。
 ほっとしながらも、フラガは動揺を隠せなかった。
(今、何が……)
 一瞬の出来事だった。
 何が、起こったというのか。
「……大丈夫。軽く意識を失っただけでしょう。一瞬のショックで終わった筈です」
 ウォルマーの言葉に、一瞬前の彼の不審な動きを思い出し、フラガは半信半疑で医師に目を向けた。
「――貴様……今、何を……」
 困惑するフラガを見て、ウォルマーは勝ち誇ったように笑った。
「――見ていなかったんですか。なら、もう一度やってみましょうか」
 彼はそう言いながら、左手のリストウォッチを高くかざしてみせた。リストウォッチらしきそれは、正確には時計ではなく、異なる機能をもつ、いわゆるコントローラーの役目を果たしているもののように見えた。
 遠隔操作……。
 しかし、なぜ?
 どうやって……
 フラガの頭の中でさまざまな思考が飛び交い、弾けた。
 彼は、ふとあることに思い至った。
 この男は、普通の医師ではない。
 かつて、あの特殊ラボにいた人間の一人なのだ。
 人間の体の中に何か仕掛けをするくらい、いともたやすいことだろう。
「……貴様……まさか……――!」
 フラガは怒りが全身を駆け巡るのを感じた。
「……こいつに、何をしたっ!」
「――そんなに睨まないで下さい。……何も体にメスを入れたわけじゃありませんよ。ちょっとしたものを、ここに、ね……」
 ウォルマーは自分の心臓部分を軽く撫でた。
「ある種のペースメイカーと同じようなものと思って下さい。簡単に取り外せますし、すぐに命に関わるようなものではありませんので、ご安心を。ただし――」
 そっとコントローラーに指を滑らせる。
 それだけで、十分に相手にプレッシャーをかけていることを自覚しながら、男は楽しそうに続けた。
「……どこへ逃げてもすぐに所在はわかるし、それなりの操作もできますので、今のようなことも起こるというわけで……程度によっては、少しくらいの失神ではすまない。長い間心臓を止めれば、最悪の事態を招くこともあり得ます」
「……威しているのか」
「――まあ、そういうことになるでしょうね。……あなたは自分の命を大事にしない。しかし、彼の命がかかっていれば、そう簡単には死ぬことを選ばない筈だ……。だから、彼は必要なのですよ。あなたを我々に縛りつけておく枷として、ね」
「……ふざけるなっ!貴様――」
「――いいんだ、フラガ……っ!」
 喘ぎながら、ディアッカがフラガの腕に縋りついた。
「……俺は、これで、いい……んだ……」
「――馬鹿言うなっ!何がいいんだよ!」
「……俺、……俺は、あんたと、一緒にいる、方が、いい……」
「……おまえ……」
 茫然とするフラガに、ディアッカは微かな笑みを見せた。
「……俺が、あんたの枷になるなら……なら、あんたは、死なないよな……?俺は……その方が、嬉しい……から……――」
 苦しそうに呼吸を荒げながらも、彼は何とかそれだけ言うと、フラガの腕を掴んだ。
「……俺、あんたがいないと……駄目、なんだ……あんたが、必要、なんだよ……な?……だから……さ……――」
「もう喋るな、馬鹿!」
 フラガはそれ以上ディアッカが何か言う前に、相手の体を強く、ただ強く抱き締めた。
「……くそっ……馬鹿が……っ……!」
 微かにその唇が吐き出した言葉が、ディアッカの耳にかろうじて届いた。
「……この馬鹿が……、大馬鹿野郎がっ……!……」
 その声は、いつまでも哀しい音色を伴って彼の頭の中に響き続けた。

                                     to be continued...
                                        (2012/10/29)

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