Blue Rain (29) 外に出た瞬間、ひやりと冷たい空気が頬を撫でた。 砂漠地帯は、昼と夜の温度差が大きい。 (こんな辺鄙な場所に、隠れ潜んでいなければならないとは、この俺も堕ちたもんだな……) 表向きは、大西洋連邦軍の強化演習用基地の一つでしかないが、辺境の地にあるここだからこそ、密かにここまで『内部改修』を進めることができた。 今や、この基地は『世界革命』のための、立派な拠点となった。 (……もう一度、世界を変えるために――) 神の摂理に反した道を歩み出した人類を、元の道に戻すために……。 砂混じりの風を吸い込んだ途端、こほっ、と咳き込んだ。 咳は止まらず、忽ち胸が苦しくなる。 (――くそっ、また、か……っ……!) 最近この症状が頻繁に現れるようになった。 肺機能が大分やられているらしい。 一時止まっていた症状が、再び進行し始めたようだ。 いつか、このような時がくるのではないかと怖れていたが、よりによって今、このタイミングで……。 「――だいぶ、具合が悪そうだな」 背後からの声に、エドワード・ウォルマーは、胸を押さえたまま、忌々しげに眦を上げた。 彼は振り返ろうとはしなかった。 振り返らずとも、背後にいる声の主が誰かわかっていたからだ。 荒い呼吸を何とか静めると、ウォルマーはようやく顔を上げた。 「……私が死にかけている様を見るのが、楽しいですか」 「――別に。……それはお互い様だからな」 フラガは淡々と答えると、横に並んだ。 「――けど、正直、あんたが先に逝ってくれた方が、俺としては助かるんだが」 冗談とも本気ともつかぬ言葉を放つ男の横顔を、ウォルマーはじろりと見た。 「……誰が、先に逝くと思います?」 「――だろうな」 フラガは皮肉な笑みを浮かべた。 「……執念深さじゃあ、あんたには勝てそうにない」 「わかって下さっているなら、結構。――申し訳ありませんが、私はそう簡単には死ぬつもりはありませんので」 「目的を果たすまでは、か。……揺るぎない意志、だな。恐れ入る」 「――どうも」 ウォルマーも唇を緩めた。 「……だから、あなたにも最後まで付き合ってもらいますよ」 「……世界は、そう簡単には、変わらんよ」 「――それは、どうでしょうね」 ウォルマーは、挑むような視線を傍らの男に投げた。 「……案外、簡単に変わるものかもしれませんよ。世界も、人も……。それは、私たち自身がこれまでに実証してきたことではなかったですか?」 「そうかな。変わっているようで、実は、変わってはいないんじゃないかな。人の心なんて、特に、な……」 「楽天的な考えですね。まあ、いいでしょう。それがあなたの考えだと言うなら、別に否定はしない……」 笑いながらも、ウォルマーの目は、不敵な光を放っていた。 「……計画を遂行する日は、近い。よもや、我々を裏切ろうなどと考えてはいないでしょうね」 声のトーンが一際低くなる。 フラガの表情は、変わらなかった。 「……しっかり人質も取ってるくせに、今さら何言ってやがる」 「――一応、念を押してみただけですよ」 ウォルマーは乾いた笑みを見せた。 「……で、あいつは?」 「――ご心配なく。ちゃんと診療しましたよ。足の痛み止めも、解熱剤も飲ませたので、しばらく休んでいれば、大丈夫でしょう。何なら、医務室を貸し切りにしますので、後はお好きに使ってもらって構いませんが」 「そりゃ、ご親切なことで」 フラガは、苦笑混じりの息を吐いた。 「――ありがたく使わせてもらう、と答えた方がいいのかな」 「そうですね。私の気が変わらないうちに――と、言っておきましょうか」 ウォルマーは、そう言うと、少し咳込んだ。 「……突然、全てが疎ましくなる。――今、この瞬間に、自分の周りにあるものを全てこの手で消し去ってしまいたくなる。――そんな風に思える時があるんですよ……」 瞳の色が、闇に一層暗く沈み込む。 闇に心を呑み込まれていく者の、眼。 その眼には、覚えがあった。 そこには、間違いなく、死へ近付いていく者の運命が刻まれていた。 横目でちらと見ながら、フラガは嘆息した。 (わかっていながら、どうしようもない……) 破滅へと突き進んでいく運命を持つ者の、眼……。 それは、自分も同じだ。 今さら、抗おうとは思わない。 ――だが、それでも一つだけ、譲れないものがあった。 「……俺を殺すのはあんたの自由だが、あいつだけは駄目だ」 フラガの声が、夜気に凛と響く。 「――あいつには、手を出すな。それだけは、許さない」 ウォルマーの目が細まった。 「……わかっていますよ。彼はあくまで、保険です。あなたが裏切らない限り、彼には手を出しません」 沈黙が、しばし続いた。 夜の砂漠を吹く風が、二人の男の間を分かつように過ぎていく。 「――俺は、裏切らんよ」 「裏切らなくても、簡単に死なれては困りますからね」 「……ったく、信用がないんだな」 フラガは苦笑した。 「そんなに、死に急いでるように見えるかね」 「そうではないのですか」 ウォルマーは僅かに唇を歪めた。 「――少なくとも、今はそんなに死にたいと思っているわけじゃない。……安心したか」 「……そうですね――」 曖昧な微笑を浮かべたまま、ウォルマーは闇に眼を注いだ。 「……『彼』のために、生きて下さいよ、大佐。おわかりでしょうが、あなたが死ぬということは、同時に『彼』の死も意味する。――そういうことです」 「――だな。わかっているさ」 会話はそれで終わったと言わんばかりに、フラガは相手に背を向けた。 「……じゃあな。先に戻る」 相手が去って行く後ろ姿をちらと一瞥した後、ウォルマーは再び視線を前方に戻した。 何もない、砂漠の荒涼とした風景が、夜気に呑まれている。 その闇の空間を、ただ、ひたすらに睨み続ける。 フラガと交わした会話は、妙に彼を苛立たせた。 彼も自分も、命の火が尽きようとしている。残された時間は少ない。その点では、同じ筈だ。 それなのに―― 違う。 彼と自分は、こんなにも違う。 それは、彼にあって、自分にないものがあるからだ。 決定的な、何か――。 それが何かは、わかっている。 羨んでいるわけでは、ない。 しかし、それでも――心がざわめく。 かつて、自分にも、あった。 命を賭しても、守りたい、何か。 あまりにも、遠い昔で、忘れてしまった。 それが、なぜか、不意に心の表面に浮かび上がりそうになる。 苛立たしさの原因は、そこだ。 (…………っ!) 思わず、強い息を吐く。 こんなことで、心を惑わされたくない。 憤りを胸にしまい込んだ。 考えなければならないことは、別にある。 (……まだ、だ……) 彼は、心の中で独りごちた。 (……まだ、私は死ぬわけには、いかない……) 犠牲にしてきたものの姿を瞼の裏に思い浮かべ、ぎりりと歯を喰いしばった。 (……奴らを、全て、この世から抹殺するまで……) あの、化け物どもを……。 一人残らず、消し去るのだ。 そして、我々の世界を取り戻す。 人が人であり得る世界。 自然と人が共存する、原始のあの美しい世界。 穢れなき、青い地球を……。 「……清浄なる、世界のために――!」 それは、かつての狂信者たちが、自らの手を凄惨な殺戮に染めながら、熱狂的に叫び続けた言葉と、全く同じフレーズだった。 「………………」 いつの間にか、眠っていた。 目覚めた瞬間、自分がどこにいるのか、記憶が飛んでいた。 白い天井に消毒薬の匂いが、医務室のベッドに寝ていることを、何とかディアッカに思い出させた。 「――起きたかよ」 不意に覗き込んできた人影に、ぎょっと目を見開いた。 「……オークレー……てめっ――……なっ、何でここにいるんだよっ……!」 弾むように飛び起きると、すぐ間近に座り込んでいた男の顔を睨みつけた。 スティング・オークレーは、悪びれもせず、ただ鼻で笑っただけだった。 「――んな、おっかねえ顔すんなって。何もしてねえよ。……何度も声をかけたが、全然起きねえからな。死んでるんじゃねーかって心配したんだぜ」 「……何か用かよ」 取り敢えず、相手をどかそうと、シーツをめくり上げ、足をベッドから下へ降ろした。自然と相手は立ち上がった。しかし傍に立ったまま、動こうとはしない。 「……だから、何なんだよ」 見上げると、おもむろに鬱陶しげな視線を向ける。 スティングは、肩を竦めた。 「……ったく、少しくらい愛想良くしろって。いつまでも過ぎたことを根に持つんじゃねーよ」 「――根に持つな、って……持たねえ方がおかしいだろ、普通!……あんなことされた奴に、にこにこ愛想良くできるか。……こんなとこにいるんじゃなきゃ、てめえの面(ツラ)なんざ、一生見たくもねーくらいなんだよっ!」 「ああー、わかった、わかった!――わかったから、そうわめくな。うるせー……!」 スティングは耳を塞ぐ振りをしながら、大仰に嘆息した。 「……俺は結構気に入ってんだけどな。おまえの顔も、根性入ったとこも、……それから、体も、さ」 彼の手が伸び、その指先がディアッカの開いた首筋に触れた。 「――触るな!」 ディアッカは反射的にそれを撥ねのけた。 生理的な嫌悪感で、全身にぞくりと震えが走る。まだ、体はあの時された数々の行為を忘れてはいないのだ。 「……てめえに触られるだけで、吐き気がする……」 「――それはそれは……酷く嫌われたもんだな。ま、仕方ねえか……」 スティングは、諦めたように、払われた手をおとなしく引っ込めた。 「……じゃあ、用件だけ、な。――おまえのお仲間が、嗅ぎ回ってるぜ」 「……何――?」 ディアッカは、驚いたように相手を見返した。 「――俺の……って、誰が……?」 「言っとくが、隊長さんじゃねーよ」 そう言われて、少し安堵する。 全てを捨ててここまで来たつもりなのに、今さらイザークを巻き込みたくは、ない。 「……けど、まあ、隊長さんの差し金じゃねえかと思うがな……」 スティングは言いながら、探るような眼を向けた。 「――オーブ軍に入ってるのが、いるだろう?」 「……って、アスランのことか――?」 ディアッカは、茫然と呟いた。 「……あいつが、何で――」 「――だから、おまえの隊長から頼まれでもしたんじゃねえのか?……ったく、厄介な奴が関わってきたもんだぜ」 「…………………」 黙り込んだディアッカを、スティングは冷淡な瞳で見下ろした。 「――簡単に殺せるような奴じゃねーだろ?……どう思う?」 「――俺に、どうしろって……」 ディアッカは、口ごもった。 「……おまえを探してるんだろ?だったら、おまえが何とか始末をつけろ。これ以上、余計な首を突っ込ませるな」 今やスティングの真意をはっきりと悟り、ディアッカの体に一筋の緊張が走る。 「……俺に、アスランを殺せと言うのか?」 その言葉がディアッカの口から出た瞬間、スティングの顔に酷薄な笑みが浮かんだ。 「――できるだろ?……今のおまえにとって、何が大事か、まさかわからねえわけねーよな……?」 脅しに近い問いかけに、ディアッカは気色ばんだ。 「てめえに、そんなこと命令される筋合いなんてねーよ!」 抗しきれぬとわかってはいても、そう言わずにはいられなかった。 「へえー、そうかよ……」 スティングの顔が近付いたかと思うと、その手が不意にディアッカの顎を掴み上げた。 「――てめえ、何しやが……――」 最後まで言い切る前に、喉元をぐいと締め上げられ、声が出せなくなる。 「――…………っ――!……」 声を出せぬまま、ベッドに後ろ向きに押し倒された。 体勢を立て直す暇も与えられず、相手は馬乗りになってくる。 振り上げた両手を捻じ上げられ、膝で下肢を押されたまま体重をかけられると、抵抗することができなくなった。 「……く、そっ……!――」 こいつには、すぐに組み伏せられてしまう。 それが厭わしく、そして何よりそんな自分自身が情けなくてたまらない。 「――やめ、ろ……っ、てめ……っ、この――いい加減、に―――!」 「……黙れよ」 近付いてくる顔を見て、その殺気立った表情に、慄然とする。 最初に犯された時のように、凍りつくような憎悪が向けられてくるのを感じた。 ぎらぎらと輝く瞳には、嗜虐の色が溢れていた。 「……久し振りに、虐めたくなったぜ。この、生意気な糞コーディネイターが――!」 to be continued... (2014/05/06) |