Blue Rain (3)
「この辺でいい」
ホテルへ続く道の途中で、ディアッカはフラガに車を止めさせた。
暗い中とはいえ、あまりホテルに近い場所で降りたくはなかった。
「じゃあな」
車から降りるディアッカの背後で扉が閉まり、遮光窓が下りた。
車は素早く反転し、急な坂を下りていく。
最後に闇の中でうっすらと光っていたフラガのサングラス越しの瞳は、恐ろしいほど何の感情も映してはいなかった。
それが妙にディアッカには気になった。
振り返ってしばらくの間は去っていく車をただぼんやりと見送っていた。
「何だよ……」
何か、変だった。
気にかかるが、いつまでも立ち尽くしているわけにもいかない。
ディアッカは気を取り直すと、ホテルへの道を急いだ。
ロビーに入ると、いきなり暗いラウンジに座っている銀色の髪が目に入った。
一瞬、幻を見たのかと目を疑う。
もう一度視線を戻すと、それは幻影ではなく、現実に存在しているのだとわかった。なぜなら、そのとき相手がおもむろにソファから立ち上がったからだ。
こちらへ振り向けた顔は、いかにも不機嫌そうな顰めっ面だった。
「……イ、ザーク……っ……」
ディアッカは近づいてくる相手を愕然と見ながら、その場に立ち竦んでいた。
「――随分ごゆっくりのご帰還だな」
玄関の時計表示は既に十一時を回っている。かろうじて日付が変わる前に戻れたことは幸いだった。しかし、こんなタイミングで、まさかイザーク本人と対面することになろうとは、思いもしなかった。
「……ちょっ……何で、おまえ……ここにいるんだよ?」
イザークが地球に来るのは、当初の予定では明後日の筈だった。
「――朝帰りでなかったのは、賢明だったな。貴様にもそれだけの自制心が働いたのだと、一応誉めておいてやる」
「………………」
咄嗟に上手い言い訳を口にするだけの機転も働かなかった。ディアッカは罰が悪げに、黙って佇んでいた。
イザークがこのように静かな物言いをするときは、怒鳴りつけるとき以上に危険信号だ。
皮肉げな笑みが、綺麗な顔を僅かに歪めている。
――相当、怒っている。
「……イザーク、あの、さ……俺――……」
「言い訳はいい!」
イザークはぴしゃりと遮った。
その顔から笑みが消え、青い瞳が射るようにディアッカを睨みつけていた。
「――これまでも、貴様が地球に来るたびに、こそこそと誰かに会いに出かけているのはわかっている。……それが誰かは知らんが、まあ、自由時間を使って多少羽を伸ばすくらいは、大目に見てやってもいいと思っている。俺は何も貴様のプライベートライフにあれこれ首を突っ込むつもりはない。が、周りに痛くもない腹を探られるような迂闊な行動は謹んでもらいたいものだな」
「……って……誰かが何か言ってたのかよ?」
イザークの奥歯に物の挟まったような物言いに、ディアッカは眉を顰めた。
自分への中傷誹謗は今に始まったことではないが、具体的に何を言われていたのか気になる。
まさか、フラガのことがばれているとは思わないが、万が一ということもある。どの程度まで知られているのか確かめておきたいと思った。
「……具体的に言ってやろうか?なら、こうだ。――今日の午後遅く、ホテルの近くで貴様が『不審な男』と言葉を交わした後、その車に乗ってどこかへ出かけたところを、見た者がいる」
聞いた途端、ディアッカは軽く額を押さえた。
それはまさしく自分とフラガのことだ。あのとき、誰かに見られていたのだ。
だから、ホテルの近くまで来るな、と言っていたのに。
「……その通り、か?」
「……あ、……まあ……そう――だな……」
それ以上会話を進めたくなくて、ディアッカは少し言葉尻を濁した。しかし、イザークはまだ話を終わらせてはくれなかった。
「――俺はこれまで、てっきりおまえは女と会っているのかと思っていたが……」
そう思わせようとしていた。
ディアッカは苦い笑みに唇を歪めた。
女と遊んでいる、という程度なら、さほど目を引くこともない。実際のところ、これまで、退屈しのぎに繰り出した街でナンパした女と寝たことも、一度や二度ならずある。といっても、それは何もディアッカに限ったことではなく、周りの者も多かれ少なかれやっていることだ。そんなことを取り立ててあれこれ言うものもいないだろう。
しかし、フラガとのことは別だった。
既に過去の事績になっているとはいえ、『エンデュミオンの鷹』の知名度は依然として高い。
ザフトの中では、軍籍を抜いた今もなお、彼の存在を旧地球連合軍に繋がるものとして注視する者もいるくらいだ。
実際に、ディアッカ自身も、フラガが完全に旧地球連合軍と縁を切れたとは思っていない。
ネオ・ロアノークの名を有していた時期に、彼は地球連合軍の特殊部隊の指揮官を務めていた。当時彼が深く関わっていた特殊機密事項は、おそらく地球連合軍の根幹を揺るがしかねない重要性を帯びたものだっただろう。記憶が戻った後も、決して口には出さなかったものの、彼がその間のことを忘れてはいないことは、何となくわかった。
それを思うと、軍上層部の機密に関わっていた連中がそう簡単に彼を手放す筈がない。退役とは名ばかりで、彼は未だに軍部から監視されているのではないか。
だから、ザフトの軍籍にある自分が関わることでフラガの身に危険が及ぶことを、彼は何よりも恐れていた。
(だったら、会わなきゃいいんだけどさ……)
――それができないから、困る。
ディアッカは小さく嘆息した。
無用心に近づいてくるフラガもフラガだし、何だかんだ言いながら結局それを撥ね返せない自分も自分だ。
吐息を吐き出しながら、じとりと汗ばむ首筋を意識した。
つい先程まで重ね合わせていた互いの肌の触感を思い出して、どきりとした。慌てて、何でもないように、さりげなく顔を俯ける。靴先を見ながら、自分は今どんな顔をしているのだろうと訝しんだ。内心のひそかな焦りや動揺が、表情に表れていないだろうか、と微かに不安を覚える。
ロビーが暗いのが幸いだった。でなければ、僅かな顔色の変化でさえ、相手に読み取られてしまっていただろう。
(……くそ……!)
ディアッカは苛立たしげに靴先で床を軽く蹴った。
フラガのことは、絶対にイザークには知られたくなかった。余計な心配をかけるという以前に、自分と彼との間に横たわるこの微妙な関係を自分でも説明することができなかったからだ。
それに、今のイザークの前で、足つきに乗っていた頃の話題を持ち出すのは嫌だった。
足つきに乗っていたあの頃の自分とイザークとの間には、微妙に相容れない空白の時間が未だに存在している。
戦後、ザフトに復隊することになったときも、最初はその空白を埋めるのに、随分苦労した。そうして再び構築してきたものを、今さらまたぶち壊しにしてしまいたくはない。
肩に置かれた手の感触が、彼を我に返らせた。
目を上げると、間近に迫ったイザークの顔に、情けないほど狼狽する。
「……イ、イザーク……?」
ディアッカの顔を覗き込んでくる青い瞳から、目を離せなかった。
「――お喋りなおまえにしては、黙り込む時間が長いな」
「……あ……ああ……そっか?」
舌が上手く動かない。下手な言い訳をする気力もなかった。
「……悪い。ちょっと、考え事しちまってて……」
「――言い訳を考えていたというわけか?」
肩に置かれた手が離れ際にディアッカの顎から頬をさっと撫でた。
「……熱いな」
「――さ、わんなよっ!」
思わず相手の手を弾いたとき、ディアッカはそんなことをした自分に我ながら驚いていた。
イザークも少し意外げな顔をしてこちらを見つめている。気を悪くした、というより、思いがけない反応に驚いたといった風だった。
「……あ、いや……」
一気に気まずくなって、ディアッカは視線を落とした。
「――悪い。俺、そういう意味じゃなくて――」
言葉が消え入りそうに小さくなる。下手な言い訳をすればするほど、相手に不信感を与えてしまうことはわかっていた。それでも何か言わずにはおれなかった。
「……とにかく、俺さ、別に変なことしてるわけじゃないから。――イザークに迷惑はかけないから、さ……」
「――俺は、そんなことを言っているんじゃない」
イザークの声には、怒気はこもっていない。それが意外であり、逆にディアッカを居たたまれない気持ちにさせた。
イザークが、自分の立場や体面を一番に考えるような奴ではないことは、よくわかっていた。彼がこうして詰問している理由は、一番に自分のことを気にしているからではないか。なのに、俺は……
「――俺は、おまえがこれ以上ザフトの中で不利な立場にならないか、それを気にしている。――何もないなら、それでいい。ただ、これ以上周囲に怪しまれるような行動を取らないよう気を付けろ。俺の耳をいちいちくだらん噂話で煩わせるな」
イザークの体が離れていく気配がする。
顔を上げたときには、既に彼は背中を向けて立ち去っていくところだった。
「――イザーク……待てよ!」
思わず後を追いかけた。
「……俺、まだおまえに何も――」
数歩前で立ち止まったイザークが、振り返る。
「――何もないなら、いいと言っているだろう。何度も言うが、俺はおまえのここ(地球)での交友関係に首を突っ込むつもりはない」
「…………………」
――『ここ(地球)』、……か。
その響きが、ディアッカにはどこか皮肉を含んでいるように聞こえた。
そこで、不意に思い出した。
(そういや、ここへ来る前に、こいつと喧嘩してたんだっけ……)
同時に、忘れていた、その『ささいな』原因も思い出した。
ディアッカの地球での交友関係、だ。
AAで一緒だった少女、ミリアリア・ハウの撮った写真が掲載されていた雑誌。
そこにあった彼女の経歴を紹介する内容の中に、一枚の写真が小さく載っていた。彼らが艦を降りたとき、最後にAAの前で撮った写真だ。そこに混じっていた金髪に褐色の肌の少年。後ろの方に小さく写っているだけなのに、よく目立つ風貌であるため、すぐに彼だとわかる。
その写真が、たまたまジュール隊の中で話題になっていた。それが、イザークを不機嫌にさせていた。
『せっかく、しまいこんだおまえの過去をまた衆人環視のもとに露呈してしまうとはな。全く余計なことをしてくれる。……これでまた、おまえを良く思わない奴らに格好のネタを与えることになるぞ』
『あいつのせいじゃねーよ。どうせ雑誌社の奴らが勝手に掘り出してきたんだろ。――それに、俺のことならどうってことねえから。最初から悪口言われてるのはわかってるし、まあ仕方ねーことだとも思うしな。ザフトに戻るってことになったときに、覚悟してたから、今さらどうもこうもねえよ。俺、全っ然気にしてねーから』
『だからおまえは馬鹿だというんだ。そんなんだから、いいように利用されるんだぞ。戦時中、ザフト軍人と付き合っていた、などと言えば話題性も十分だ。新進のフォトジャーナリストにとっては、願ってもないデビューとなる』
『――そういう言い方、よせよ。それに何だよ、そのザフト軍人と付き合ってる、とか何とかってさ。言っとくけどさ、俺とあいつはそんなんじゃねえから。勝手に決めつけるなよ。何も知らねえくせして……』
嫌味を含んだ口調に反応して、ついそう返してしまうと、イザークはじろりとこちらを睨みつけた。
『ああ、俺は何も知らないからな。おまえが、投降した敵艦の中で作ったお友だちだろう。そりゃ、おまえにしかわからないだろうさ』
『……待てよ。それってどういう意味だよ。一体何が言いたいわけ?』
いったんこじれた会話は元に戻るどころか、最悪の展開を見せ始めた。しまいにはどちらもヒートアップし、激しい口論となって収拾がつかなくなった。
(あー忘れてたけど、あれ、やな喧嘩だったよなあ……)
仲直りもしないまま地球に来たが、イザークは何も言わなかったし、たぶんどうでもいいこととして同じように忘れていたのだろうと思っていた。
が、今の僅かに皮肉を含んだ言い方で、イザークがまだその件を忘れていなかったことがわかった。
地球でのディアッカの交友関係、というと、元アークエンジェルのクルー以外には考えられない。
イザークは、やはり、このことに深くこだわっているような気がした。
自分がAAに投降して彼らと過ごしたのは、ほんの僅かな間に過ぎないのに。
なのに、どうしてこんなに隔たりを感じてしまうのだろう。
「……イザーク……」
「――明日も早いのに、貴様のせいで寝不足になりそうだ。もう寝るぞ。貴様も、早く寝ろ」
いつもの棘を含んだ口調で、そう吐き捨てるように言うと、イザークは再び背を向け、今度は振り返りもせず足早に立ち去って行った。
それをぼんやりと見送りながら、ディアッカは溜め息を吐いた。
あの中途半端な弁明だけで、本当にイザークは満足したのだろうか。
いや、そうではない。
彼は、触れられたくないという自分の意図を察して、敢えて追及を打ち切っただけだ。
不器用なイザークなりの配慮なのだ。
(……以前のあいつなら、もっと突っ込んできてたよな)
絶対に引かない片意地さと頑固さ。特に自分に対してはいつも豪速直球で、全く容赦がなかった。一方で不要な隠し立てをすることもなかったし、第一お互いのことは全て知り尽くしていた。だからこそ、怒鳴られようが八つ当たりされようが、特に苦にもならなかった。お互いに胸を開いているからこそできることだと思っていたからだ。
それが、今――
少しずつ、自分たちの関係は変化している。
昔の自分たちとは、違う……。
それが当然といわれれば、そうなのかもしれない。
時間が経ち、年を重ねるにつれ、自分たちの周りの状況は少しずつ変化していく。
いつまでも、同じ世界を共有しているわけにはいかない。
それぞれが、異なる体験をすることによって、異なる世界に足を踏み入れていく。
一度入れば、もはや後戻りのできない場所へと……。
金髪の男の横顔が脳裏を過った。
(……もう一度、会おう……)
彼は、なぜあんなことを言ったのか。
思い出すと、胸がざわりと騒いだ。
今回会ったところを見られて変な噂が飛ぶようなら、この滞在中にもう一度会うのは、慎んだ方がよいかもしれない。
(――これ以上周囲に怪しまれるような行動は……)
イザークの忠告の言葉が耳に新しい。
しかし……
最後に見た、あの横顔。
表情の見えないサングラスの向こうの瞳がどんなことを語りかけようとしていたのかが、気になって仕方がなかった。
――何か、ある。
そう直感した。
――あの人は、俺に何か隠している。
それは、言おうとして、言えなかったことなのか。
だから、最後にあんな性急な約束を取りつけたのか。
何か、切羽詰った空気を感じた。
何か悪いことが、起ころうとしている。
そんな漠然とした予感がした。
……どちらにせよ、あの人にもう一度会うしかない。
ディアッカはひそかに、そう決意した。
to
be continued...
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