Blue Rain (4)
額に当てた掌から、じわりと熱が伝わる。
呼吸が荒くなり、たまらず唇から熱い吐息が洩れた。
喉が、渇く。
体が鉛のように、重い。僅かに指先を上げることすら、億劫になるほどに。
ムウ・ラ・フラガは、長椅子に横になったまま、ぼんやりと天井を眺めていた。
――どうも、良くないな。
額に滲む冷たい汗を、手の甲で軽く拭うと、彼は深い溜め息を吐いた。
ここのところ、ずっとこうだ。
少しずつ、確実に、体を蝕んでいるものの正体。察しはついている。
再生治療の二次効果。
一度死にかけた肉体を、無理矢理この世界に引き戻したのだ。その代償が高くつくのは、当然だろう。
フラガの唇に自嘲の笑みが浮かぶ。
死にかけた……?
いや、そうじゃない。
(――俺は、一度死んだんだ)
今ここにいる自分は、ムウ・ラ・フラガの過去を背負った別の人間……ネオ・ロアノークという、全く別の男なのだ。
そう、あのとき……
アークエンジェルの前で、ビームに貫かれた、あの瞬間――
ムウ・ラ・フラガという男の生は、終わった。
三十年にも満たない時間。父親との確執も、軍人としての偉功も業績も、そして愛した女も……。
死という無の空間に放り出された瞬間、何もかも消えてなくなった。
それで全てが、終わった筈、だった。
――闇に沈んだ魂は、それまでの生の記憶の大半を置き去りにしたまま、奇跡とも思える生還を果たした。
医薬品の強い匂いの充満した、あの白い部屋の中で目覚めたとき、彼の頭の中には過去の記憶は何ひとつ残ってはいなかった。己自身の名前すら、覚えていなかったのだ。
ただ、自分が軍人で、先の戦闘で瀕死の重傷を負ったところを助けられたのだということだけは知らされた。
それ以上の情報は与えられなかった。周囲が意図的に隠しているのか、或いは本当にそれがわかっている全てなのか。
気にはなったが、流れていく時に逆らうことはできない。取り戻す見込みのない過去にいつまでも縋りついていることは不毛だと、彼は割り切った。
そうして彼はリセットされた生を、あっさりと受け容れた。ファントム・ペインの指揮官、ネオ・ロアノークとして生きることを。
それなのに、皮肉な運命は、彼に再び元の記憶を取り戻させた。
ネオ・ロアノークから、再び、ムウ・ラ・フラガへ。
幸か不幸か、彼は二つの生を生きることになった。
……還ってきた過去と向き合うことは、実際にはそれほど簡単なことではなかった。
過去の自分と現在の自分。相反する存在が共生しようとするときに生じる混乱と矛盾が、彼の存在理由を危うくさせる。
かつて好きだった女としばらく一緒に生活をしたが、長続きはしなかった。
どちらが悪いわけでもない。愛が失われたわけでもない。ただ――彼女といることに、耐えられなくなった。愛しているのに、矛盾している。なぜ。どうしてなのだろう。……考えているうちに、ふと単純なことなのだ、と気付いた。
自分は一度死んでいる。生者が、死者と共存できるわけがない。
やはり、間違っていたのか。
自分は、ムウ・ラ・フラガに戻るべきでは、なかったのか。ネオ・ロアノークのまま……リセットした生を生き続ける方が、マシだったかもしれない。
そんなとき、あいつと再び出会った。
――ディアッカ・エルスマン。
先の戦いで、アークエンジェルに投降した、金髪に褐色の肌の、ザフト兵。
彼は、フラガが初めて親しく関わるようになった唯一のザフトの人間であり、コーディネイターだった。
初めて彼を見たとき、フラガを引きつけたのは、少し特異なその容貌だった。
捕虜として拘束され、両側をAAの乗員に挟まれて歩きながらも、彼は全く打ちしおれた様子も見せず、逆に昂然と頭を上げ、倣岸ともいえる視線を周囲に投げつけていた。
白旗を上げて投降した捕虜を粗略には扱えないという戦争中の捕虜協定を見込んで、よほど自分の身の安全に自信があるのか。だとしても、この状況でわざわざ相手側の感情を悪化させるような言動を取る必要もないだろう。
(度胸があるというか、たいした神経というか……)
フラガは、怒るというより、相手の図太さに呆れ、思わず失笑を洩らした。
普通、敵の真っ只中にただ一人飛び込んで来て、ああいう態度は取れんだろう、と皮肉混じりに思った。
大胆不敵で過度なまでの自信家。
年の割にやたら大人ぶっていて、シニカルで生意気な口をきくコーディネイターの少年。
面白い奴だ、と思った。
何となく声をかけ、関わるようになっていったのは、もしかすると、彼の中にもう一人の自分の姿を重ねていたからかもしれない。
どこか世の中を斜に見たような冷めた目をして、人を小馬鹿にしたような口調で突っかかってくる割に、彼が意外に純心で繊細な少年なのだということは、ミリアリア・ハウとのトラブルでよくわかった。
あのとき、彼と話さなければ、こんなに深く繋がることにはならなかっただろう。そう思うと、運命というものの不思議さを感ぜずにはいられない。
再び彼と会い、言葉を交わしたのは、軍を退く直前の連邦政府主催の停戦記念式典の会場でだった。彼がザフトの緑色の軍服を着た姿で、白い軍服の後ろにひっそりと佇んでいた光景を、思い出す。
遠目だが、一目で彼だとわかった。
ただ、生意気だった少年の顔は、しばらく見ない間に、見違えるように大人びた青年の顔に変わっていた。
じっと見つめているうちに、相手の顔色が僅かに変化したのを見て、向こうもこちらに気付いたのがわかった。
目が合ったとき、相手の顔に浮かんだぎこちない驚きの表情を見て、まだ自分のことを覚えていたのだな、とわかった。
式典が終わればすぐに帰るつもりが、のろのろとパーティーまで居残っていたのは、彼と少しでも話す機会を持ちたかったからだ。
自分が話しかけることで、相手の立場が微妙なものになることを意識しながらも、一言口を聞かずにはいられなかった。
パーティーで、彼が銀髪の青年から離れた瞬間を見計らったように、さりげなく近づいた。
「――よお」
声をかけたときの相手の反応は、思った以上に冷静だった。
「生きてたかよ、オッサン」
相変わらずの生意気な口調に、思わず口元が緩む。
差し出した手に触れてくる相手の指先は、気のせいか少しぎこちなく感じられた。
「生きてたさ。俺は不死身なもんでね」
「不死身、ねえ……」
ディアッカはじろりとフラガの顔を一瞥した。
「――っていうより、単に悪運が強いだけだろ」
「黙れ、坊主。悪運の強さはお互い様だろうが」
「ま、そりゃそうだろうけどさ。さすがに、あんたほどじゃねーよ」
笑って交わした短い会話が、つい昨日のことのようだ。
あれから、さらに一年余りの歳月が過ぎようとしている……。
人というものは、ほんの僅かなきっかけと偶然の重なりで出会い、別れていく。長く続く場合もあれば、一瞬で終わる場合もある。
もう、会うこともないだろうと思っていたのに、彼の姿を思い浮かべた途端、なぜか、無性に会いたくなった。何とかして、会う手段がないものか、と夢中で考えを巡らせた。
コンタクトを取ることが双方にとって危険な行為であることを百も承知の上で、フラガは敢えてそれを実行した。
それが、始まりだった。
最初に送られた短い暗号に近いメール文から、密会の日時、場所を正確に読み取って、相手は待ち合わせ場所に姿を見せた。
実を言うと、相手が本当にやって来るとは思わなかったので、近づいて来る少年のしかめっ面を見たときは、嬉しさというより、意表を突かれた感があった。
呆然と目を見開いたままの彼をじろりと睨むと、相手の方が先に口を開いた。
「――何考えてんだよ、あんた」
久し振りに会ったというのに、何の前置きもなく、いきなり切り出されたぶっきらぼうな一言に、フラガは思わず苦笑した。
相変わらず、口が悪い坊主だ。
しかし、なぜかそんな相手の声が、耳に心地良く入ってくるのが不思議だった。
時間の隔たりを感じさせない。
相手につられるように、緩んだ口元から自然に言葉が零れ出た。
「おまえこそ。……簡単に誘いに乗りやがって」
「あんたが、誘ったからだろうが!」
「いや、そりゃそうだが……けど、本当に来るとは、な……」
「来て悪かったんなら、今すぐ帰るけど」
「おいおい、待てよ。誰もそんなこと、言ってないだろうが――」
戸惑いながらも交わされる軽いやり取りが、会わなかった空白の時間を瞬く間に埋めた。
マリューといても、埋まらなかった溝が、彼といるときには、殆ど感じることもない。
曖昧な自分の存在が生み出す、あの虚しいまでの孤独感が、いつの間にか綺麗に消え去っていた。
他の人間と、一体どこが違うのか。
彼と単に波長が合う、というだけのことかもしれない。
共に過ごす時間が、楽しい。
互いの立場を考えると――特に、軍規違反すれすれの線をかいくぐってザフトに復隊を果たした相手にとっては、こんな風に得体の知れない元連合軍人などと関わりになることは、好ましいことではないだろう。そうとわかってはいても、回を重ねるごとに、交流を断ち切ることは難しくなった。
(俺の我儘だよな……)
フラガは嘆息した。
会えば会うほど、相手との繋がりが深まる。
(困ったもんだ……)
――こんな筈ではなかった。
食事でもしながら、少し話して、旧交を暖める。それくらいでよい、と思っていたのだ。
それが……
(雨の、せいだ)
雨音が、耳を打つ。
また、降り出したようだ。
最近、雨が多い。
体を横に傾けて、窓を見る。
(あいつが来たからだな)
そう思うと、ふ、と淡い笑みを零す。
最初に会った日、霧のような雨が降っていた。
それ以来、あいつと会う日はきまって、雨が降る。
まるで、それが約束事であるかのように。
雨に濡れた髪が、額に纏わりつく。いつも後ろになでつけて格好よくきめている髪が、見事に崩れてしまっていた。元々柔らかいくせっ毛が、ふんわりと額に落ちると、年齢以上に幼く見える。それを鬱陶しそうにかき上げながら、ディアッカは空を見上げては何度も舌打ちを繰り返していた。その仕草が妙に子供っぽく見えて、おかしくなった。
「何笑ってんだよ?」
「ん?ああ……」
唇を尖らせてこちらを睨みつけてくる眼差しは、完全に拗ねた子供の目だった。
不意に悪戯心が湧き上がる。
「――前髪」
「……?」
「そっちの方が、いい」
相手が怒るとわかっていて、わざと言ってみる。
「ずっと、下ろしとけよ。その方がカワイイぜ」
想像通り、相手の顔色は一瞬で変わった。
頬に朱が差している。
「てっめ……何ふざけたこと――っ……!」
「あっはは、冗談だ、冗談!怒んなよ」
「あんたさ、俺を子供(ガキ)扱いして喜ぶの、相変わらずだよね?」
怒ったように言うディアッカを、フラガは楽しそうに見つめた。
相手の言う通りだから、認めるよりほかない。
「本当にガキなんだから、仕方ないだろ?」
「ちょ――俺、もうすぐ二十歳なんだぜ?足つきに乗ってた頃とは違うんだよ」
「二十歳だろうが、何だろうが、ガキに変わりはねーよ」
「あんたから見りゃあな。――オッサン!」
「オッサンって言うなっての。このクソ坊主が」
ディアッカの精一杯の悪態を、フラガは軽く笑って流す。時間が戻ったようだ。捕虜であった彼と初めて出会い、後にアークエンジェルの乗員として一緒に戦っていたあの頃に。
そうしてフラガは相手の肩をそっと引き寄せた。
長い間外にいたせいか、その肩はすっかり冷え切っていた。
「中へ入ろう。風邪引いちまうぞ」
「………………」
返事をしない相手に、戸惑う。
「何だよ?」
近づいた体が再び離れていく。
少し距離を置いた目の前で、ディアッカは初めて顔をこちらへ向けた。
「――俺、やっぱ、帰るわ」
突然の相手の言葉に、フラガはぽかんと目を見開いた。
「――って、何で?今来たとこだろ」
「……何か、さ。今は、あんたと話す気になんねー」
くるりと踵を返して歩き出した相手の肩を、フラガは慌てて引き掴んだ。
「おい、待てよ!」
振り返った相手の顔を、きつく見据える。
「いきなり、それはないだろうが。第一、どうやって宿舎まで戻る?」
「……………」
相手は黙って目を背けた。
濡れた髪から雫が垂れ落ちていくのを見ているうちに、フラガは表情を和らげた。
「いいよ。帰りたいなら、無理にとは言わない。送ってってやるから、さ。――けど、その前にもう一度、わけを話してみな」
「……何か、さ。今の俺、ダメダメなんだよ。こうしてあんたといれば、際限なく愚痴っちまいそうだから……」
いつもの彼らしくない、弱気な口調だった。
フラガは、はあっ、と吐息を吐いた。
「何だよ、そんなことか」
「そんなこと、って、わかんねーくせに、簡単に言うなよっ!」
「そりゃ、わからないさ。まだ何も聞いてないからな」
フラガにあっさりと返されると、ディアッカはくそっ、と小さく毒づいて地面に唾を吐いた。濡れた顔を掌で擦る。
「――愚痴ればいいだろ。いくらでも聞いてやる」
フラガは、宥めるように濡れた肩を撫でた。
「……やなんだよ。俺、こういうの……」
小さな声で、ディアッカはぼそりと呟いた。
「いいじゃないか。甘えれば」
「カッコ悪いだろ……」
「誰も見てないさ」
「そういう問題じゃねーよ」
ぎこちなく瞳が動く。
紫色の瞳に毛先から落ちた雨の雫が重なった。
鬱陶しそうに閉ざされた瞼に指を伸ばす。
瞼から、額へと、垂れた髪をかき上げてやった。
「よせよ」
ディアッカはすぐにフラガの指を払いのけた。
その僅かな接触に、一瞬、甘い疼きを覚えた。
そのとき、フラガは、自分がなぜ彼を求めているのか。自分の求めている、満たされないものが何なのか、初めてわかったような気がした。
そのときにはもう、ひとりでに体が動いていた。
「……フ、ラガ……?」
雨に濡れた体を、後ろから抱きすくめる。
相手は最初僅かに抵抗しただけで、後はおとなしく抱かれるがままになっていた。
衝動に駆られた欲望。
なぜ、そうなったのか、わからない。
獣じみた欲望が突然脳を満たし、全身を支配した。
「――あんた、何か勘違い、してねえ?」
困惑した声が、喉仏を震わせる。
「……してねえよ」
自分にだって、わからないのだ。
自覚している。
今腕の中にいるのが、誰か。
わからないわけないだろう。
女の体はもっと華奢で柔らかくて、ふわふわしていて……抱き心地がまるで違う。
なのに……。
離せない。
「――帰るなよ」
それだけの為にこんなことをしているのだと言い訳をしているかのように、呟く。
本当は、それだけではない。滾るような欲望が胸の中を吹き荒れている。
「――帰るな……」
「……ちょ――離せ、って……」
背後のフラガの気配に危機感を覚えたのか、ディアッカは今度は真剣に抗い始めた。
本気で力を入れると、相手の体を一気に振り解いた。
弾かれたフラガの体が地面に沈む。
大きく泥水がはねたかと思うと、フラガは水溜りの中に尻餅をついていた。
「……フラガ……っ」
ディアッカは、泥水の中に嵌まったまま、力なく頭を抱えている男の姿を、驚いたように凝視した。
「……痛っ……」
痛そうに腰に手を当てたフラガへ、ディアッカは渋々手を差し伸ばした。
「……ったく、何してんだよ。あんた……」
「おまえが、暴れたからだろうが……ッ……!」
差し出された手を掴むと、フラガは何とか立ち上がる。下半身は泥水に浸かってドロドロといった酷い格好だ。
「……すまん。――ははっ、何か、情けねーなあ……」
「――どうかしてるよ、あんた」
フラガを引っ張り起こすと、ディアッカは溜め息を吐いた。
雨は小降りだったが、まだ止みそうにない。
お互いにびしょ濡れの格好を眺めて、苦笑した。
しばらく笑い合った後、フラガは不意に真面目な顔に戻った。
「――じゃあ、送って行こう」
車の方へ向かって歩き出したフラガの背中を、ディアッカは待てよ、と呼び止めた。
「――帰らねーよ」
意外そうに振り返ったフラガの顔から微妙に目線を逸らすと、ディアッカは、いかにも仕方がないといった風に肩を竦めてみせた。
「……こんなびしょ濡れのまんま帰んのなんて、やだからな。せめてシャワーでも浴びさせてもらう」
フラガの呆気に取られた顔が、やがて柔和な表情に変わる。
「そっか。――なら、入れよ」
車に行きかけた足を方向転換させる。
小さなログハウスの扉を開いたときには、雨は止みかかっており、薄くなりかかった雲間から仄かに陽の光が覗きかけていた。
シャワーを浴びた後、二人で杯を合わせた。
「いいワインじゃん。こんなの、簡単に開けちゃっていいの?」
年代物のワインの銘柄を見たディアッカが素直な感想を述べる。
「いいんだよ。おまえと会うときは特別」
「そういうの困るんだけどなあ……」
そう言いながらも、ディアッカは平然と高級ワインを何杯も飲み干した。
「言わないのか?」
「……ん?」
二人でワインボトルを数本空けてしまった後、上気した顔をソファに埋めていたディアッカの背中に、不意にフラガの声がかかった。
「――愚痴、だよ。愚痴」
「……ん、ああー……」
ディアッカはごろんと仰向けになると、見下ろしてくるフラガの顔を眩しそうに見た。
「……も、いいや。忘れた」
「――酔っ払いの言いそうなことだな」
揶揄するフラガの声も彼の耳には半分届いていないようだった。
酔って半分意識を失っている。
何もこんなに酔わせるつもりはなかったのだが、途中で止めようとしたフラガの制止も振り切って、ディアッカは手に持ったボトルとワイングラスを放そうとはしなかった。
ワインが惜しかったわけではないが、いくら何でも飲み過ぎだと思った。それでも、愚痴を言わなかった代わりに、彼の胸に溜まったストレスは酒を注ぎ込むことで解消されたようだった。
そのうちすうすうと、穏やかな呼吸音が聞こえ始めた。
「おいおい、寝ちまうなよ」
すぐ戻らなきゃならないんだろう、と眠り込むディアッカの頬を軽く叩く。
んー、と鬱陶しそうに顔を歪めながら、彼は無防備にフラガの手を掴んだ。
ぱちりと目を開く。
とろんとした紫色の瞳が、何か言いたげに、じっと見つめてくる。
「……俺と、寝たい?……なあ……オッサン……」
一瞬、どきりとした。
それを見て、相手はけらけらと笑った。
「あー、やっぱそう思ってんだ。……この、エロおやじ!……さっき、ぎゅーってしたときもさ、……そだったんだよなー……そだったんだー……」
酔っ払い特有の呂律の回らない繰り返しを聞いているうちに、ようやくフラガは我に返った。
「何くだらんこと言ってやがる、この酔っ払いが。――それに、『オッサン』は余計だ。何度言えばわかる。クソ坊主!」
「――あー、あんたこそ……。『坊主』、って呼ぶなよ。俺、さ……もうガキじゃ、ねーって……言ってっ……だろ……なあ……わかんね……?……な?」
掴まれた手から伝わる体温。熱を帯びた眼差し。
酔っ払っているんだ、こいつは。
わかっている。
「ディアッカ、この酔っ払い……」
自分も少し酔っていた。
だから、酔いのせいにしてしまいたかった。
こんな風に、酔っ払いの戯言に、真剣に応じるなど。
……戯言?
フラガの醒めきった脳が、強く否定する。
――いや、そうではない。
酔う前から、既にその疼きは感じていた。
家の前で抱き締めたときから、わかっていた。
自分は、求めている。
焦がれている。
この、目の前にいる、青年の全てを手に入れたいと願っている。
ナチュラル。コーディネイター。
男。女。
人種も性別も、関係ない。
自分は、彼という人間に、引き寄せられる。
彼を、欲しい、と思う。
そこに、理由はない。
ただ、欲しいと思う、抑えきれないその気持ちだけが、自分を動かしている。
だから――
彼は屈み込み、褐色の項に、ぎこちなく唇をつけた。
暖かい。
人肌が、こんなに柔らかく、心地良いものであるとは。
フラガは目を閉じた。
男の仄かな汗と体臭を、嗅覚で感じる。
鎖骨を唇で撫でる。
シャツの上にうっすらと映る乳首を軽く食むと、相手がぴく、と反応するのを感じた。
押し殺そうとして失敗した、その僅かな声が耳朶に触れただけで、自分でも驚くほど興奮した。
目を上げると、乱れた金髪を額に垂らしたまま、茫然とこちらを見下ろす紫色の瞳と目が合った。
「……酔いが、醒めたか」
「――な、に……」
掠れた声が、弱々しく問い質そうとしているのを無視して、フラガはいきなりその唇を塞いだ。
「……ん……っ……っ……!」
執拗に舌を絡められ、相手は時折苦しげに顔を歪める。唇を離すたびに、どちらのものともしれぬ唾液が口の端から溢れ、互いの荒い呼吸が熱く頬を焼いた。
熱を伴う刺激が全身を駆け、下肢に興奮の気配が広がる。
フラガの手が、ディアッカの昂ぶり始めたそれに触れた。
「……は――ちょっ……待て……って……う、あ、あっ……!」
無遠慮な相手の触れ方に、ディアッカが悲鳴に近い声を上げた。擦られる刺激が、心地良いのか気持ち悪いのかよくわからない。
「――えらく早いな。もう、こんなになってるぞ……ひょっとして……溜まってたか?」
「……なっ、何言って……んなわけ……っ……あっ!ちょっ……だから、待って……うあ……!」
「――言っとくが、誘ったのはそっちだぞ」
「……おっ、俺は、何も……あ――っ!」
ズボンを下ろされて、直接そこを弄ってくる男の手からストレートに伝わる刺激に、我慢しきれなくなる。認めたくないが、正直自分でするよりも、悦い。自分の欲望を吐き出した後、ディアッカはがっくりと顔を伏せた。男相手に見せた痴態に自己嫌悪に陥っているかのようだ。
「――ひょっとして、おまえ、男とするのは初めてか?」
「……に、きまってるだろうがっ!」
フラガの言葉に、ディアッカは掠れた声で怒鳴りつけた。
「けど、あの銀髪姫とはしたいと思ってる」
「……ちょ――あんた、何言って……」
ディアッカの顔がこころもち青ざめた。
酔いが、完全に醒め始めたといった様子だ。
当てずっぽうに近かったのに、それはずばりビンゴだったらしい。
自分から水を向けておきながら、こうも素直に反応されると複雑な気分になる。
「……へえー、やっぱりそうだったんだな。――つまり、それがおまえのストレスの一因、てわけだ」
「……ざけたこと、言うんじゃねーよっ!」
酔いの醒めきった声で、ディアッカはがば、と身を起こした。
フラガを押しのけようとして、それをがっちりと再び押さえ込まれたディアッカは、ソファの上から見下ろしてくる相手をただ恨みがましく睨みつけた。
「……怒るなよ。いいじゃないか、別に。誰を好きになるかってのは、人それぞれだ。別に俺はおまえのことを特別ヘンだなんて思わないからさ」
「……知ったようなこと、言うなよ。クソッ……!」
そんな風に吐き捨てると、ディアッカは顔を背けた。
「あいつは……イザークは……特別なんだよ……。別に、俺はあんたと同じってわけじゃ――」
「――俺もそうだよ」
フラガの声が、不意にディアッカを遮った。
静かに零れる言葉は、明瞭に空気を裂いた。
「おまえだけ、特別だ」
その言葉に、ディアッカは再び顔を上げると、目の前の男に向かって驚いたような表情を見せた。
「――けど、無理強いはしたくない」
押さえつけていた手の力が緩んだ。
「おまえが嫌なら、これ以上はしないから、さ」
あっさりと離した手が、力を失ってぶらりと垂れた。
離れて行こうとするフラガの腕を、ディアッカの手が不意に掴んだ。
「――何……?」
「……勝手に終結させんなよな。エロ親父が」
そう言うと、ディアッカは片手で軽く前髪をかき上げた。その仕草がはっとするほど艶めいて見えて、どきりとする。
「……あんたも、溜まってんだろ?――満足させてやるよ」
「おいおい……」
苦笑するフラガの腕を、ディアッカは強く引いた。
「――マジかよ」
「……いい、って言ってっだろ」
にやりと笑いながらも、紫色の瞳は真剣な光を放っていた。
「――いいから、一緒に気持ち良くなろうぜ」
その言葉を額面通りに受け取ってよいものかどうか迷いながらも、フラガにはディアッカの誘いを撥ねつけるだけの勇気もなかった。
雨音が、いつの間にか聞こえなくなった。
(止んだのか……)
窓から緩い光が差している。
ゆっくりと、起き上がった。
薬がようやく効いてきたせいか、少しはマシになっているようだった。
起き上がっても、さほど辛くはない。
まだ少し痛みの残る頭を押さえながら、立ち上がり、キッチンへ向かった。
冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターを出して、グラスに注ぐと、一気に飲み干した。
喉から落ちていく冷たい液体が、心地良い。
グラスを置いて、ようやく一息ついた。
さっきまでぐるぐる渦巻いていた思考が、冷めきった脳内に再び戻ってくる。
――もう、会わない方が、いい。
別れる間際に、いつもそう思う。
しかし、その一言を、どうしても切り出せない。
『……じゃあ、またな』
また、会おう。
そう言ってしまうのは、自分の弱さだ。
(――仕方ないさ)
仕方、ない。
自分はもう、以前ほど強い自分では、いられない。
一度、死んだ自分。
もう一度生を与えられた、自分。
今ある自分は、自分で会って、自分では、ない。
自分でも、わからない。
自分が、何ものであるのか。
ムウ・ラ・フラガか。
ネオ・ロアノークか。
それとも、そのどちらでもない、別の誰か、であるのか。
自分は、これから、どう生きていけば、よいのだろう……。
一人になると、いつも湧き上がる問いに悩まされる。
彼は、頭を抱えた。
誰か、教えて欲しい。
肉体が衰え、力を失っているだけでは、ない。
(俺は……生きる力そのものを、失おうとしている……)
こんな生きているのか死んでいるのかわからないようなオッサンに付き合わなければならないあいつも、いい迷惑だよな、と彼はくく、と卑屈な笑みを零した。
――あいつは、俺のことを、どう思っているのだろう。
普段はどうでもよい、と思っていたことが、急に気になり始めた。
時間が、ない。
自分の体に起こる変調。その度合いや頻度を客観的に見て考えると、漠然とした感覚ではあるが、そんな予感がした。
――もう一度、会おう。
思わずそう言ってしまったのは、そんな諸々の結果、自分が思った以上に弱気になっている証拠だった。
恥じ入りながらも、本音としては、もう一度会えるものなら、会いたい。
たとえ、相手に幾ばくかの迷惑や不便を与えることになったとしても。
(いいじゃないか。それくらい、さ)
自分には、他に何もないのだ。
少しくらい我儘を言っても、許されるような気がした。
躊躇いを振り切って、フラガは地球(ここ)でしか連絡の取れない彼の携帯電話のメールアドレスを、開いた。
to
be continued...
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