Blue Rain (7) (……俺……一体、何を……) イザークが出て行った後、ディアッカはしばらくの間放心した様子で床に座り込んでいたが、やがてはっと我に返った。 「……イ、ザーク……っ……?」 よろよろと立ち上がると、扉に向かう。 扉を開けた途端、腕組みをしてすぐ脇の壁に凭れかかっていた男の姿が目に入る。 「――彼なら、もうとっくに帰ったよ」 「………………」 さらりと言葉をかけられると、ディアッカは罰が悪げに、むっつりと唇を閉ざした。 フラガに先程の一幕を全て知られてしまっていることは明白だった。 あんなに大きな声でやり取りをしていたのだ。当然だろうとは思うが、どうにも決まりが悪い。 居心地の悪い沈黙が続いた後、相手が軽く溜め息を吐く音が聞こえた。 「……ああいう抱き方は、良くないなあ」 あまりにも直截な言葉に、ディアッカの目が愕然と見開かれる。 忽ち、かっと頬が熱くなった。 「……見てたのかよ」 「――見てなくても雰囲気でわかるんだよ」 フラガは困ったような笑みを浮かべた。 「ああいうのは、最低最悪――最も嫌われる迫り方だぞ。アプローチの仕方、って奴をもっと勉強した方がいいな」 「……っせえなっ!黙ってろよ」 ディアッカはフラガを睨みつけた。 そんなディアッカの険悪な表情を見てもフラガは全く意にも介さぬように、続けた。 「……ったく、せっかくお膳立てしてやったってのに、簡単にぶち壊しやがって……」 「――お膳立て、って……待てよ、それってどういう――」 しかしそう言いながら、ディアッカは不意に理解した。 「……なん、だよ。――何でそんな余計な気イ回すんだよ……っ!」 「余計な……って、そりゃないだろ。人の親切心を……」 「なっ、何が親切心だっ!誰がそんなこと頼んだんだよっ!――第一、俺とあいつのことは、あんたには関係ないことだろ?何で首突っ込んでくるんだよっ!」 思った以上に刺々しい言葉が口から飛び出した。 先程のイザークとの諍いの顛末を、誰かの所為にしたくて仕方がない自分に、うんざりする。 これは単なる八つ当たりなのかもしれない。 そう思いながらも、目の前で平然とわかりきったような言葉を吐く相手に対して、怒りをぶつけずにはいられなかった。 (怒り、か……) ふとディアッカは我に返った。 ――俺は、一体何に怒っているんだろうな……。 イザークにあんなことをしてしまった自分自身に対しては、言うまでもない。 だが、それとは別に、無性に苛立ちを感じる。 それが目の前の男自身に対してであるということに気付いたとき、ディアッカは激しい当惑を感じた。 「……やれやれ、今度はそうくるか。――つくづく勝手な奴だな」 フラガはそう言うと、わざとらしく溜め息を吐いた。 「……今度は、って――……」 「――最初はあちらさん、今度はこっちだ。……関係ない。関係ない……か。――おまえ、さ……どっちにもいい顔しようなんて、そりゃちょっと都合よすぎじゃないの?」 フラガの顔が急に間近になった。 思わず後退ろうとした背に壁が当たり、気付いたときには位置が逆転していた。 相手の一見笑っているかに見えるその目の奥に閃く暗鬱な光を見て、ディアッカはごくりと唾を飲み込んだ。 何となく、嫌な流れになっていることがわかった。 フラガの言葉にそこはかとなく含まれる、皮肉めいた響きが、やけに耳に障る。 「――何絡んできてんのさ……ヘンだよ、あんた」 精一杯の軽口のつもりだったが、声が変に上ずった。 それほど、フラガの目を見ているのが怖かった。 (――怒って、いる……) 相手の静かな怒りの波長を感じた。 もはや自分の先程までの興奮や憤りなど吹っ飛んでいた。 (――何でそんなに怒ってるんだよ……) 怒らなければならないのは、自分の方だった筈ではないか。それが、いつのまにか完全に形勢が逆になっている。 「……何やってんだ。離れろよ」 フラガの顔を押しのけようとする、その腕を捉えられた。そのまま再び壁に背ごと押しつけられ、身動きが取れなくなる。 「ちょっと、おい……っ、痛えって……」 「――俺を慰めに来てくれたんだろ?」 「……は――?……」 唐突に切り出された言葉に、ディアッカは唖然とした。 相手の真意を図りかねて、まじまじと見返すその瞳に、不敵な男の面構えが映った。 「なら、今、ここでやろうぜ」 すぐ目の前に迫るフラガの唇から洩れる吐息が頬を焦がすようだった。 鼻孔を過ったそのきつい臭気に、ディアッカは軽く顔を顰めた。 「――飲んでるのかよ」 「……まあ、な」 平然と答える相手に対して、ディアッカはちっ、と舌を打った。 「――酔っ払いが……っ……!」 一気に両手を振り解こうとするが、捉えられた腕はびくとも動かない。 酔っている割に、力加減は本気に近い。 「……放せよ」 ディアッカは低く唸った。 冗談じゃない、と思う。 今はとてもそんな気分じゃない。 忌々しく思う一方、強引にそれを敢行しようとする相手の高圧的な意図を感じ取り、震撼とした。 「――おい、フラガっ!いい加減にしろよっ、てめえ、一体何のつもりで――」 「……やらせろよ」 低く囁く声が耳元を過ぎた瞬間、熱い舌が首筋を舐めた。 「……っ……!」 全身を走る刺戟にぞくりと肌が粟立たつ。 股間に固いものが触れる気配に、もはや悠長に構えている余裕もなくなった。 「……っ、やめろっ……!」 男が本気を出せば到底叶わないとわかっていながら、それでも力を振り絞って精一杯の抵抗を試みる。 こんな風に無理矢理されるのは、嫌だ。 しかも今、こんな気持ちになっているときに……。 「……嫌、だ……っ」 「――俺とやりにきたんだろう?つれないこと言うなよ」 冗談にも聞こえない台詞が耳朶を焼く。 本気だ、と悟った。 この男は本気でこの場でやろうとしている。 相手の意志など無視して、己の欲望だけを満たすために。 「ちょっと、待て……って、あ――!……」 ズボンの上からそこをいきなり掴まれて息を飲んだ。 「――すぐに、その気になる」 フラガの声は冷たい確信に満ちていた。 ベルトの金具が外れる音がする。 それがどちらのものかもわからないまま、ただ胸の奥が焼けるような羞恥と嫌悪を感じた。 蹴り上げようとする足を膝下からぐっと抱えられた。 ずず、と体が斜めにかしぐ。 ぐらりと目の前が回転した。じたばたともがく間に、体は小さな子供のように相手の腕に抱え取られ、いつの間にか床に押し倒されていた。 起き上がる暇も与えられず、後ろから乗りかかってくる体重に再び押しつけられる。 はだけられたシャツの間から晒される肌がじかに冷たい床に触れ、びくん、と震えた。 「フ、ラガ……っ……」 懇願に近い声が喉から迸る。 相手から発する雄の荒々しい欲情を全身が嗅ぎ取り、またそれに己自身も過敏に反応を始めている。 「や、だって……っ……あ――!」 いきなり尻を割られて、まさか、と思う。 こんなに性急に……何の前戯もなく……。 男は、無言だった。 視界にちらと映る瞳だけが、やけにぎらついていた。それは獲物に食いつく寸前の肉食獣の放つ光にも似ていた。 その瞬間、そこにいるのは、もはや自分のよく知る男ではないのだと本能的に理解した。 自ずと身が竦む。 初めて相手に対して恐怖心を抱いた。 「――や、めろ……やめ――……」 言葉は途中で続かなくなった。 太く熱いそれが無理矢理割り入ってきた瞬間、彼は苦痛に思わず目を見開き、息を止めた。 「――っ……!」 背中からかかってくる荒い呼吸音と熱い吐息が肌を焼く。 苦しがる彼を全く顧みず、背に乗る男は攻撃の手を緩めなかった。 「……や……あ……っ……!」 中に入ってどんどん質量を増す男の欲望に、内臓まで破壊されるのではないかと危ぶんだ。 「……きついな」 背後でフラガが軽く舌を打つ音が聞こえた。 (当たり前、だろうが……!) こんな暴力的で一方的な性行為の中で、誰が気持ちよく相手に体を開くことができる。 怒りと悔しさが沸々と湧き上がった。 「……う……っ……ぐ……っ……!」 零れそうになる声を、歯を喰いしばって堪え、さらに相手が抽挿を繰り返し、自分の中で欲望を解き放つまでの拷問のような時間を耐えた。 快感がない分、貫かれる痛みが酷い。 相手が一方的に快楽を得るための、まさに性の捌け口にされているという事実に、たまらないほどの惨めさと屈辱を感じた。 ――これまでずっと対等な関係だ、と思っていた。 それが、今、そうではないのだと思い知らされた気がした。 いっそ意識を手放せればどんなに楽だろうと思ったが、行為の間中、残酷なまでに意識は明確だった。 ようやく繋がれていた楔が抜かれ、痛みから解放されたときには、ほっとしたことで一気に体が弛緩したせいか、皮肉なことにそれまではっきりとしていた頭が急にぼんやりと霞み出した。 「……フラガ、……の野郎――……」 絞り出すような声が怒りで震えた。 こんな、こんなことを、よくも……っ――! 相手がどんな顔をしているのか、わからない。 視界がぼんやりしている。 頭がそれ以上上がらない。拘束から解放されているにも関わらず、体を持ち上げる力も湧いてこなかった。それほど、疲弊していた。 ただ、気持ちだけは沸騰していた。 許せない、と思った。 ――絶対に、おまえなんかもう……! それ以上恨み言をぶつける前に、彼は冷たい床に顎を落とした。 気付いたときには、冷たい床ではなく、ベッドの上に寝かされていた。 あの後、脱力して動けなくなった彼をフラガが自分の寝室まで運んできたのだろう。 少し皺の寄ったシーツに、先刻まで自分を犯していた男の匂いを嗅ぎ取り、ディアッカは複雑な気分になった。 体にべったりと染み込んでいた筈の男の精の残滓は全くといってよいほど残っていない。 どうやら彼が意識を失っている間に、相手が全て綺麗に拭き取ってくれたようだった。 もっとも、だからといって、相手に対する怒りが減じるわけではない。 ディアッカは唇を引き結んで、天井を睨みつけた。 フラガの顔を見たら、何と言ってやろうかと考える。 (――糞野郎が……っ……) ――もうてめえの顔なんか二度と見たくねーよ! 一言捨て台詞を吐いて、出て行ってやるか。 その前に一発くらいぶん殴って……。 そうやすやすとのしてしまえるような相手ではないが、隙をついて一発くらいなら、何とかなるだろう。 シーツの上で固く拳を握りしめる。 そうしながらも、指の先がまだ僅かに震えるのが感じられた。 有無を言わさず押さえつけられたときの、あの言いようもない恐怖感がじわりと甦る。 (……畜生……!) いとも簡単に屈服させられた自分の情けない姿を思い出して、自分自身に腹が立った。 情けなくて、このうえなく惨めだ。 何で、ああなった。 自分は何もフラガにあんな風に犯されるために、わざわざここまで来たわけではない。 イザークのことだって……。 (イザークのことを承知して、家の中に入れて……全部、そっちが仕向けたことなんだろう。自分でそう言ってたじゃねえか――) (――それなのに、何で怒らなきゃなんねーんだよ。おかしいだろ。矛盾してるじゃないか。それでこんな目に会わされるなんて、絶対納得いかねえって……) フラガという男が、わからない。 わかりたくもない。 (あんな、奴……もう、知るか……!) 心配なんか、しなければよかった。 あんな男……心配する価値もない。 金輪際、フラガとは関わらない。 もう、二度と……。 フラガにされたことと同じ行為をついその数分前まで自分が他の男にしようとしていたことなどすっかり棚に上げて、彼はじりじりとした怒りに身を焼きながら寝返りを打つと、ふてくされたようにシーツに顔を伏せた。 ――扉が開く音に、びくりと神経を尖らせた。 床を踏む足音が近づいて来ると、妙な緊張感が高まる。 毒づいていた割に、顔を上げる勇気が出ない。 固く目を瞑り、寝ているふりをした。 すぐ傍で、何かを置く音がする。水の入ったコップか何かだろうと推測した。それでも、ディアッカは何も反応せず、じっとしていた。 背中に強い人の気配を感じた。 そこにいられる、というだけで落ち着かない。 相手は一言も発することなく、ただ黙ってしばらくの間静かに立ち尽くしていた。 やがて軽い溜め息の洩れる音が聞こえた。 同時に肩に指が触れる感触にどきりとする。 その瞬間、ぴく、と肩先が僅かに震えたことに相手は気付いただろうか。 自分が寝たふりをしているだけだということに、相手は気付いているのではないか、と思った。 それでも、男はそれ以上何も仕掛けてくる様子はない。 「……これ飲んだら、帰れ。――シャワー浴びたいなら、勝手にすりゃいいから」 突然響いた男の声は、何の感情も感じさせない平板なものだった。 どこかの事務所の受付手続きの説明でも聞いているように、ディアッカは呆然とそれに耳をそばだてていた。 「――じゃあな」 悪かったとも、何とも言わず、まるで何事もなかったかのように淡々と喋って出て行く男に、なぜか言いようもない哀切さを感じた。 フラガは一体どんな顔をして今の台詞を吐いたのだろう。 知りたいと思いながら、それでも去っていく男に向かって手を伸ばす勇気が出てこない。 怒り、とか恨み、とかそういったどろどろとした感情ではない。 急に、相手との間にとてつもない距離感が広がっていくのを感じ、それが彼を臆病にしたのだ。 (こんなつもりじゃなかった……) 一度に大切なものを全て失ってしまったかのような空虚感に震えた。 ゆっくりと体を起こし、傍のナイトテーブルに置かれたものに手を伸ばす。 カップはまだ熱く、ほんのりと湯気が立っている。 地球産のコーヒーもこれで飲み納めかな、などとふと思った瞬間、こんなときまで、そんなどうでもよいことを惜しいと思っている自分自身に気付き、それがおかしくて、ディアッカは独り苦笑いした。 笑いながら、目の奥がつんと痛くなる。 コーヒーの香りが少しきつすぎるのかもしれない。 そう思いながら、ディアッカは手の甲で瞼を軽く擦った。 to be continued... |