Blue Rain

 














 ぽつ。
 冷たい雫が頬を打った。
 おや、と顔をしかめて空を睨みつけるように見上げると、いつの間にか垂れ込めていた暗い雲の塊がすっぽりと太陽を覆い隠していた。やばい、と思った瞬間、水滴が目の中に飛び込んだ。
 じん、と染み込んでくる刺激に、たまらず閉ざした瞼の上にも雫は容赦なく落ちてくる。
 ぽつ、ぽつ、ぽつ……
 水滴の間隔が急速に短くなり、いつしかまとまった雨に全身を打たれていた。
「くそ」
 ディアッカ・エルスマンは舌打ちすると、走り出した。
 これだから、地球の天気は……。
 コントロールされたプラントの天候では、考えられない急変ぶりだ。
(さっきまで、いい天気だったじゃんよ)
 何回も地球へ降り立っているうちに、このような光景にも慣れつつあったとはいうものの、それでも鬱陶しいことに変わりはない。
 後ろから通り過ぎようとする車が、少し速度を緩める。
 こころなしか、自分の方へすり寄ってきたなと思ったとき、窓が開いて金髪の頭が覗いた。
「――よっ」
 手を振ると、男はサングラス越しに人懐っこい笑顔で微笑みかけた。
 ディアッカが足を止めると、車もすぐ傍に止まった。
「乗れよ」
 気安く声をかけられて、ディアッカは呆れたように唇を尖らせた。
「どっから、尾けてきたわけ?」
「人聞きの悪いこと言うなよ。せっかくお迎えに来てやったってのにさ」
 誘うように扉が開く。
「それならそうと、早く連絡しろっての」
 ぼやきながらも、ディアッカはさっさと助手席に滑り込んだ。
「……久し振りに会ったのに、そうカリカリしなさんな。俺と会ってんの、人目につくとまずいかな、って一応気を遣ってるわけよ、俺としても」
「そんなのいらねーよ!――大体そんなこと気にすんなら、毎度毎度こんな風に呼び出さねーだろ?……ったく、こっちはそのたびにこそこそ宿舎(ホテル)から抜け出してこなきゃなんねーんだぞ」
 ディアッカは鼻息も荒く捲し立てた。
 地球に来るたびに、ひっそり入るプライベートメール。
 そこには、待ち合わせ場所と時間が記されているのみ。
 それも最近は時間を表す数字のみになっていた。
 発信元はうまく伏せてあったが、誰からきたものなのかすぐにわかる。
 これまで何度か無視してやろうかと思うこともあったが、いったん見てしまったメールの文面はくっきりと頭の中に焼きついて離れない。指定時間が近づくとざわざわと神経を波立たせ、じっとしていられなくなり……結局はこうしてのこのこと出てきてしまうのだ。
「あんたさ、いい加減軍の回線に不法侵入すんの、やめた方がいいぜ。いつか足がついて、捕まるから」
「んなヘマするかよ。俺を誰だと思ってるの?」
 男はくすりと悪戯っぽい笑みを零した。
 それを見て、ディアッカは肩を竦めた。
 確かに、彼の燦然たる履歴やその実績を鑑みれば、それだけの自信は当然とも思われる。
 これだけ軍隊の機密事項に深く関わってきた超VIP級の人間がよくもあっさりと除隊を許されたものだ。
 とはいえ、いつまで安穏と暮らしていられるか、わかったものではない。
 何しろ、彼は一度『死んでいる』のだから。
 既にこの世にいない人間に何が起ころうと、誰も気にもかけないだろう。
 無論そんなこともわからぬ男ではないだろうが。それでも一言言わずにはいられなかった。
「……気イ付けねーと、そのうちマジに命失くすぞ」
「俺は不死身だからな。そう簡単には消されねーよ」
 からからと笑うと、フラガは車を発進させた。
 そんな男の横顔をちらと流し見ながら、ディアッカは小さく息を吐いた。
 一度熱線で焼かれ、何度にもわたる縫合手術でようやく人目に晒せるまでになったというその皮膚の表面に残る赤黒い傷跡は、相変わらず近くで見るとあまりに生々しくて正視に耐えない。
 あれだけの爆発の中で……。
 思い出すだけでも、まだ体の奥底から震えが走る。
 改めてこの男が生きていたことの奇跡を、思う。
 そんな思いを押しやりながら、わざと顔を背けた。
「……てかさ、あんた自覚ねーかもしんねーけど、そーやって普通に俺も巻き込んでんだぜ。わかってる?」
「まあ、そううるさく言うなよ。いいだろ。たまに寂しいオッサンを慰めにきてくれたって、さ」
 フラガは宥めるようにそう言うと、車を発進させた。
 ワイパーがせわしなく動き出す。フロント硝子の雨粒が勢いよく振り落とされていく光景を、ディアッカは黙って眺めた。
 最近、地球でフラガと会うときは、きまって雨が降るような気がする。
 鼻をつく、錆びた鉄のような独特の雨の匂いと、肌にねっとりと纏わりつく湿感。すぐ傍らにいる男の息遣いを肌が敏感に嗅ぎ取る。すると、自然に体の芯が火照り、奇妙な疼きを覚える。
 殆ど条件反射のようなものだった。それもこの男が自分に仕掛けた罠のひとつではないかと思うと面白くないが、それを無理に止めようという気もない。
 なぜなら……。
 ディアッカは、目を閉じると、相手に聞こえないように、そっと小さな溜め息を吐いた。
 ――俺自身がそれを求めているから、だ。
 何のために?
 自分を慰めてくれる誰かが欲しいだけなのか。それとも……。
 それが、彼にはわからない。
 

 

 

 

 

「で、どーなんだよ?その後、愛しのお姫さまとは上手くいってんのか?」
「うっせーよ!」
 ディアッカは苛立ちをぶつけるように、荒々しくソファに腰を落とした。
(――なーにが『愛しのお姫さま』、だよ……!)
 フラガは、いつもイザークのことを面白がってそのように形容するが、ディアッカにはそれがいちいち気に障って仕方がなかった。
 馬鹿にされているような気がする。
 いや、気がする、じゃなくて絶対そうだ、と確信した。
(ふざけんなっつーの!)
 自分とイザークの関係を知っていて、わざと茶化されていると思うと不快感が倍増する。
 そして今日は特にイザークの話題は出したくなかった。
 ちらちらと脳裏をよぎる会話の断片。地球へ出発する直前に交わされたイザークと自分のやや興奮したやり取りが自然に思い出されると、ディアッカは苦い顔をした。
 ささいな、言い争いだった。原因は……何だったろう。今となっては直接的な理由は忘れてしまった。いつもの他愛ない口喧嘩に過ぎない。スルーしてしまえばよかったのに、なぜかあの時はそれができずにしつこく相手に突っかかってしまった。そのうち相手はぷいと顔を背けるとそれきり口を聞かなくなった。
 いつもなら、すぐにこちらから折れて、謝るか宥めるかして、何とか元の鞘に収めようとしていただろうに。
 どうやら自分にはそれだけの余裕もなかったようだ。
(疲れていたんだ。きっと……俺は――)
 そう自分に言い聞かせた。
 思い出すとまだ不快感が後を引く。
「なんだ、いきなり地雷踏んだか?」
 にやにやしながら歩み寄ってきたフラガが、いきなりソーダ水を入れたグラスを差し出した。
 目の前に突きつけられたグラスがひんやりと鼻先を掠め、そこで不意に、ぐるぐると回り続けていた思考がぴたりと止まった。
「――ほら、飲め」
「なんだよ、酒じゃねーのかよ」
 受け取ったディアッカは、不満そうに呟いた。
 途端に額を小突かれる。
「いてっ」
「最初っから飛ばされちゃかなわんからな。おまえ、酒癖悪いだろ」
「んなことねーよ」
「ま、そういうのは大概本人は自覚ないもんだからなー。いいけどさ、とにかく今はダメ」
「……ケチ」
「黙れ」
 フラガの手が、ディアッカの髪をぐい、と鷲掴む。
「ちょ……」
 目を見開いた相手の顔を引っ張り上げると、間近に顔を突き合わせる。
「……それとも、酔っ払ってるうちに、変なことされちゃってる方がいいのかな?なら、俺も遠慮しないけど」
「……なっ、何言って――」
 困惑する唇を、強引に塞がれた。
「……っ……ん……っ……!」
 ディアッカの手からグラスがこぼれ落ちた。それは柔らかな絨毯の上に落下し、ソーダ水の染みを広げながら、ころころと転がった。
 ようやく唇が離れると、ディアッカは虚脱したようにソファに沈み込んだ。
 顎から伝い落ちる唾液を手の甲で拭いながら、半身をソファに転がした。
「……っ、し、んじらんね……!」
 吐き捨てるような呟きに、フラガはぺろりと舌で口の周りを舐めると、したたかな笑みを見せた。
「いきなり、舌入れてくんなって……」
「気持ち良かったろ?」
 からかうように言うと、フラガはディアッカの隣りに腰を下ろした。半身を投げ出しているディアッカの体を軽く撫でる。不穏な動きに、ぴくりとディアッカの肩が引き攣った。
 案の定、起き上がろうとする両肩を、押さえ込まれた。
「おいっ、やめろよ、まだ俺――」
 至近距離で目が合うと、言葉が途切れる。
 青い目が、怖いぐらいに鋭く、何もかも見透かすように自分を見つめてくる。
「……なん……だよ」
 この目には、逆らえない。抵抗しようとする気力が萎えた。
「……フラガ……」
「――何て顔してんだよ」
 相手は、ふ、と目を細めた。
 一瞬漂うもの寂しげな表情。
 肩を掴む力が緩む。声をかけるより先に、離れていこうとする腕を、反射的に掴んでいた。
「――どうした?」
 驚いた顔に、苦笑いが浮かんだ。
「……あ、いや……」
 ディアッカは少し口ごもった。
 頬に僅かな熱を感じる。
 自分でも、よくわからない。
 さっきのフラガの顔を見た、あの一瞬の不安の源が、一体何なのかを。
「……何だよ。おまえ、ひょっとして、さっきのでもう興奮しちゃったとか?」
 空いた手が下肢に向いたかと思うと、あっという間にズボン越しに股間を乱暴に掴まれ、ディアッカは飛び上がりそうになった。
「ちょっ……やっ、やめろって!」
 何とか体を振り放すと、フラガは笑いながら両手を挙げて立ち上がった。
「フラガっ!」
 頬を火照らせたまま、佇む男に向かって怒鳴りつけた。
「いい加減に……っ――」
「あーわかった、わかった!そう睨むなって!」
 謝るフラガの口調からは、全くといってよいほど真剣味は感じられない。
「そうだなあ。俺も急ぎすぎたよな。――やっぱ、美味いもんは、後に取っとかなきゃな」
 うーんと伸びをしながら、離れていく男の背中を呆気に取られた様子で眺めているうちに、ディアッカはだんだん腹が立ってきた。
 男の一挙一動に振り回されている自分が情けない。
「……んだよ、それ」
 むすっとした顔でゆっくりと起き上がる。
 乱れたシャツの襟を軽く正すと、再びシートに座り直した。それでも何となく落ち着かない。苛々する。
 窓硝子を打ちつける雨音が、耳に障る。
 急に雨脚が強くなったようだ。
 雨音を聞いているうちに、不機嫌に加速がかかった。
「――好き勝手言いやがって。この変態エロオヤジっ!」
 自分でくだらないことを言っていると自覚しながら、止まらない。
「俺、今日はもうあんたとは、やんねーからなっ!」
 後でだって、いつだって、やるもんか。
 あんたとなんか、絶対絶対、やんねーからなっ!
 腹立ち紛れに怒鳴りつけた声は、雨音に消されてフラガの耳には届いたかどうか。
 聞こえない振りをしたのかもしれない。
 フラガは振り返りもせず、キッチンへ向かった。
 続き部屋になっているので、板仕切りだけで向こうは丸見えだ。しばらくは仕切り越しに動く金髪の頭を睨みつけていたが、それも長くは続かなかった。
 爪先が何かに触れたかと思うと、それは先程落としたグラスだった。
「ちっ!」
 八つ当たりをするように、グラスを蹴った。
 グラスはそのまま絨毯を越えて板敷きの床まで派手な音を立てて転がっていったが、窓に打ちつける激しい雨のせいで、その音もフラガのところまでは聞こえていないようだった。
 ディアッカは、ソファの背にもたれかかって、天井を見上げた。
 雨音を聞きながら、目を閉じる。
 そのうち、何だかうとうととして、彼はそのまま軽い眠りに落ちた。
 
 
 
 
 
 ぽとん。ぽとん。
 雫が、落ちる音。
 ぴく、と瞼が動く。
(あ、れ……?)
 あれほど強く降っていた雨音が、嘘のように静まっている。
 小降りになったか、或いはもう止んでしまったのか。
 カーテン越しに入り込む黄昏の光がほんのりと部屋を包み込んでいる。
(……あ、れ……?)
 自分が一瞬どこにいるのかわからなくなった。
 オレンジがかった薄赤色の不思議な色彩が、暗い部屋の輪郭を繊細に浮き出させる。
 寝ぼけ眼でソファに預けていた背を、起こそうとすると、とん、と胸を突かれた。
 軽い力をかけられただけなのに、体はあっさりとソファに沈んだ。
 のしかかってくる男の体を意識すると、ようやくはっと目を開いた。
 一見穏やかな青い眼の奥に潜む、飢えた獣の貪婪な光に怯える。
「……フラガ……重い、って……」
「そっか?」
 とぼけたような返事を返しながら、ますます強く抱き締めてくる両腕の中で息が詰まりそうになる。
 熱い体温が、瞬く間に全身を包み込んだ。
「あ……」
 出かかった言葉は、厚い胸板に埋もれた。
 苦しい、と思ったとき、不意に力が緩められた。
「フラ、ガ……」
 上がりかかった左手首を掴まれた。
「――ちょっと、痩せたんじゃないのか?」
 手首にくちづけると、男は緩く笑った。
「苦労、してんだ?」
「……なことねーよ……」
 ディアッカは右手で軽く相手の胸を押した。
 男の体があっさりと離れたことに、少し肩すかしを喰らったような気分になる。
「……てかさ。何でいきなり乗っかかってくっかなー」
「普通に呼んでも全然起きないから、さ」
 フラガはにやりと笑った。
「腹減ってるだろうってこっちは、気イ遣ってんのに」
「……腹……」
 そう言われて、突然、長い間何も口にしていなかったことに気付いた。
「腹減ってるときって、人間怒りっぽくなるんだよなー」
(そういやあ、そっか……)
 意識した途端、空腹感に襲われ、揶揄するような相手の口調にむっとするのも忘れた。
「……ん?」
 呆然とした表情に、相手が怪訝そうに眉を顰める。それへ向かってディアッカは思わず大きく目を瞬いた。
「――うん。そういや、腹減った……」
 ほんのりと漂ってくる食べ物の匂いをようやく知覚した鼻が、露骨に蠢くのを見て、フラガはぷっと吹き出した。
「……相変わらずだな。――ガキ」
「うっせ!」
 振り上げた右手は、空を切った。
 同時に掴まれたままの左手が引っ張られ、ソファから体を引き起こされる。
「んじゃ、やっぱ美味しいとこは、食後のデザートに置いておくか」
「冗談言うな。今日は俺、あんたとは――」
 引き寄せられた顔に熱い息がかかる。
 また唇を奪われそうになって、思わず身構えた。が、唇が触れ合う寸前で男の唇は動きを止めた。
「――ダメだ」
「……………」
「――なら、メシなんて食わせない。先に、このままここで、俺がおまえを食っちまう」
「……な、に言って――」
 冗談だろう、と交わしたかった。
 なのに、瞳と目を合わせるととてもそんな雰囲気にはなりそうになかった。
 顔が熱くなる自分に、またこの男に言い負かされた、という敗北感を噛み締める。
 しかしそれでいて、相手を憎みきれないのがまた癪に障る。
 そんな彼の胸の内を察したのかどうか、フラガはふ、と相好を崩した。
 飄々とした笑みが戻る。
 漂う緊張の糸が切れた。
 ほっとしたような、少し拍子抜けしたような、複雑な気分のまま、ディアッカは相手の顔を呆然と見つめていた。
 さぞや自分の顔は間抜けて見えることだろうな、などと思いながら、それでも男の顔に浮かぶ微笑を見るとさほど嫌な気分でもなかった。
 結局、何やかや言いながら、自分はこの男が好きなんだろう。悔しいが、認めざるを得ない。
「あんたさ、何が言いたいわけ?」
 わかっているくせに――悔し紛れにぼそりと呟く。
「要するに、俺も腹ペコなんだってこと!――ほら、早く来いよ。せっかく作ったメシが冷めちまう」
 言葉が終わる前に、フラガの顔はディアッカの前から遠ざかっていた。
(まあ、いっか……)
 久し振りに、地球の食べ物をゆっくり味わうのも悪くはない。
 まずはこの空腹感を満たしてから。
 で……。
 その後のデザートは、いつもより甘いだろうか。
 ほんのりと疼く胸を抑え、ディアッカは軽く息を整えた。
 のろのろとソファから立ち上がると、キッチンへ消えた背中を追いかけた。
                                          (2008.8.24) 
                                     To be continued... 

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