聖夜に、きみを想う・・・ (1)





 その夜、地球の空を数知れない白片が舞っていた。
 次から次へと・・・落ちてくるひそやかな真白い花の蕾が静かに花開いては、夜の冷えた大気の中に音もなく溶け込み、消えていく。
 幻のように儚くも美しく・・・。
 僅かに羨望の込められた薄氷の遠い眼差しが、その幻想的な光景をゆっくりと追う。
(・・・なんて・・・きれい・・・なんだ・・・)
 彼は空を見上げたまま、手すりから僅かに身を乗り出した。
 無数の白い粉が、舞い落ちてくる光景は圧巻だった。
 顔に触れた瞬間、泡のように溶けていく。
 
そのたびに一瞬刺すような冷たさが肌に沁みたが、そんな感触さえもイザークにはむしろ心地よいくらいだった。
(・・・自然だな・・・何もかも・・・)
 彼は瞳を閉じると、冷気を吸い込んだ。
 ――地球(ここ)では・・・何もかもが、自然で・・・そして、美しい・・・
 人口の自然に囲まれた世界――プラントで生まれ育った彼にとって、このように地球で直に目にする『本物』の自然との接触は新鮮な驚きと衝撃の連続だった。
 それは時に荒々しく猛り狂い、人間に対して容赦のない鉄槌を打ち下ろす。
 しかし同時に、計り知れない懐の深さで人間を受け容れ、その子宮の中に優しく包み込んでくれる。
 母が子を守るように・・・その深い慈しみと、そして不撓の厳しさと・・・。
 
(静かだな・・・)
 不思議なくらいのこの静けさ。
 目の前を音もなく舞いすぎる白い雪片・・・
 今夜は特別な夜・・・。
 ――聖夜・・・
 
・・・なのだという。
 
『聖夜に奇跡は、起こる・・・』
 
 人々はかつてそう信じていた。
 ・・・人間がただの人間でしかなかった頃・・・。
 まだナチュラルだけの世界でしかなかった遠い過去の地球において、遥か昔・・・信じられていた戯言。
 いや、今も・・・この地球に住んでいる者の間には、まだ生きている言葉なのかもしれない。
(馬鹿な連中(ナチュラル)の考えそうなことだ・・・)
 以前の自分なら、一蹴していただろう。
 しかし、今・・・長い戦いに疲弊しきった心には、なぜかそんな言葉にすら、縋りたい気がするのだ。
 ――奇跡・・・
 イザークはふと唇を緩めた。
 一体自分は、どんな奇跡が起こることを期待しているのだろうか・・・。
 この愚かしい頭の中で、自分は何を想像している・・・?
 馬鹿なことを・・・と思いながらも、つい頭の中に描いてしまう。
 『彼』のことを・・・。
 切ない思いが忽ち胸に満ちる。
(・・・俺は、馬鹿だ・・・)
 もう・・・この世にはいない者のことを、なぜいつまでも・・・
(俺はなぜ、こんなにもあいつのことを、思う・・・?)
 思い出したくないのに・・・。
 思い出すと辛くなるだけなのに・・・。
 それがわかっていて、なぜこんなにも・・・。
 
 イザークは息を吐いた。
(――奇跡・・・か)
 彼は、死んだ。
 もう、どこにもいない。
 でも・・・ひょっとしたら、もう一度・・・
 そんな奇跡があるのなら・・・
 自分も、少しは信じたい気になってくる。
 特に今・・・
 
こんな夜には、何となく・・・。
 ひそやかに、舞い散る雪のひとひらを指に取り・・・そっと唇に当ててみる。
 唇に触れる前に、白い花は姿を失い、大気中に消えていった。
 ただ、指に残った滴が唇を冷やした。
 そのとき・・・不思議な感覚が、彼の全身を包んだ。
 
 ――イザーク・・・
 
 ふと、空から自分の名を呼ぶ声が聞こえたような気がした。
 懐かしい響きだった。
 イザークはハッと瞳を開けた。
 この声・・・
(あいつだ・・・)
 瞬きした拍子に、睫毛に引っかかっていた小さな雪の結晶が溶けて、ほんの少し瞳の中に流れ込む。
 沁みる目を慌てて指でこすり、それでも彼は空を仰ぎ続けた。
 
 ・・・いるのか・・・おまえ・・・?
 
 
・・・どこに、いる・・・?
 
 微風が流れた。
 
雪の粉がさあっと激しく舞い散ったかに見えた。
 白い雪片の乱舞の中に自らを吸い込まれそうになりながら、それでもイザークは両手を高く空に伸ばした。
 
 ・・・いるのか、おまえ・・・?
 
 なら、姿を見せてくれ・・・。
 もう一度だけ・・・
 もう一度だけで、いいから・・・。
 
 声を出してその名を呼びたかった。
 しかし、声は出ない。
 いや、出してはいけないと思った。
 声にしたら、その瞬間に・・・
 起こるかもしれない何か・・・
 
ひそかに近づきつつある何か・・・奇跡を予兆させる何か・・・
 
その全てが失われてしまいそうで・・・。
 イザークには、それが恐かった。
 本当に奇跡を信じているわけではないが・・・
 
こんなのは自分らしくないとは思うが・・・
 それでも・・・
 今、ほんの一瞬でも・・・
 
・・・彼に会えるのなら、それで・・・
 
(・・・イザーク・・・)
 
 その瞬間――
 
 雪の中に、ふと・・・
 彼の姿が見えたような気がした。
 
(あ・・・)
 イザークは息を呑んだ。
 懐かしい・・・笑顔。
 人懐っこいあの、微笑み・・・。
 
(やっぱり、おまえなんだな・・・)
 
 幻のように微かに見えるその姿を求めて、彼はひたすらに手を伸ばす。
 
 
・・・イザーク・・・
 
 もう一度・・・
 
おまえに・・・触れることが、できたら・・・
 
 それは、幻の囁きだったろうか。
 
それとも、自分自身の思いだったのだろうか。
 
(・・・俺も・・・おまえが・・・)
 イザークは高鳴る胸を押さえながら、目の前の幻に瞳を注いだ。
 幻でも、構うものか・・・。
(俺は・・・)
 ――おまえが・・・こんなにも・・・
 
 相手に触れたい。
 
幻とわかっていても・・・。
 求める心は止められなかった。
 
 
――おまえに・・・くちづけても、いいか・・・?
 
(――馬鹿・・・そんなこと、聞かなくてもいい・・・)
 
 
冷えた唇に・・・そっと何かが触れようとする気配・・・。
 
イザークは軽く目を閉じ、見えない相手に向かって唇を開いた。
 
優しく触れていくその一瞬の接触・・・。
 
暖かい・・・
 
誰かの息遣いが、すぐ傍に感じられる、その確かな感触・・・。
 
 見えないくちづけを交わした後・・・
 
再び目を開けたイザークの前に、既にその姿はなかった。
 
(あ・・・っ・・・)
 
 イザークは思わず、声を上げそうになった。
 ――どこに・・・いった・・・?
 見えない何かを必死で探す。
(待ってくれ・・・!!)
 まだ・・・行くな・・・
 まだだ・・・
(・・・行くなよ・・・ミゲル・・・ッ・・・!)
 
 遠ざかる彼の気配を追ってイザークは必死で両手を伸ばした。
 自分の手の先に、彼がいるという確信に近いものがあった。
 もう少しだ・・・。
 まだ、あいつはそこにいる・・・。
(もう少しで、捉えられる・・・!)
 
 
しかし、手を触れた途端に消えてしまう雪のかけらと同じように・・・
 
彼の手が触れようとする寸前・・・
 
その気配は一瞬で、儚く夜の大気の中に消えていった。
(・・・そんな・・・)
 
――行って・・・しまった・・・。
「・・・ミゲル・・・」
 
初めてその名を口にすると、彼は手を伸ばしたまま、目の前の虚空をただ呆然と見つめた。
 
 
ミゲル・・・
 
さっきの出来事は・・・本当だったのか・・・。
 
それともただの幻だったのか・・・。
 そんな疑念が浮かんだ瞬間、イザークはそれを打ち消すかのように、激しく頭を振った。
(いや、違う・・・!!)
 
・・・幻なんかじゃ・・・!!
 
あれは・・・確かに、ミゲルだった。
 
 濡れた唇が、覚えている。
 おまえは、確かにここにいたよな・・・。
 ここにいて、俺に触れていった・・・。
 おまえは、俺にくちづけた・・・。
 
 幻なんかじゃない。
 イザークはそう確信していた。
 自分は確かに、彼の声を聞いたのだ。
 彼の姿を、見た。
 彼の、あの笑顔を・・・。
 囁きを・・・。
 そして・・・あの一瞬のくちづけを・・・。
 束の間の奇跡が、確かに起こったのだと・・・彼は信じた。
 そして、彼がそこにいた痕跡を、確かめるかのように・・・
 
イザークの両手は依然として何もない空間を掴んだまま、そこから動こうとはしなかった。
 降りしきる雪がそんな彼の両の手を、慰めるように、静かに撫でていった。
 
                                          (To be continued...)

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