きみと見た空 (2)
「よう!」
エアポートの中から出てきた彼の姿をサングラス越しに目ざとく見つけると、ディアッカは車の窓から軽く手を振った。
「ディアッカ……!」
照れ臭そうに笑いながら、サイ・アーガイルはディアッカの乗るエレカの方へゆっくりと近づいてきた。
「久し振りだなあ……元気だった?」
相変わらず柔らかな口調で、にっこりと微笑みかける。
変わってねーな、とディアッカもつられるように口元を緩めた。
変わっていない。
記憶にある姿と寸分変わらぬ、サイ・アーガイルがそこに立っていた。
「ん、まあまあ、かな。ご覧の通り、何とか生きてるよ」
そんな風に軽口を叩きながら、ディアッカは隣の扉を開けて、乗れと手招きした。
「荷物、後ろに積んどけよ」
開いたトランクを指さして言うと、サイは笑って首を振った。
「いや、それほど大きな荷物じゃないから、いいよ」
そう言われて手元に目をやると、彼が手に持っていたカバンは、旅行カバンにしてはかなり小ぶりで、確かにそれなら足元に充分置ける大きさだろうと思えた。
「何だよ。えらく荷物少ねーんだな」
サイが隣に乗って車をスタートさせると、ディアッカは呆れたように言った。
「ああ。滞在期間もそんなに長くないしね。遅くても今週末には帰らなきゃならないし」
「えー、今週末っていったら、一週間もねーじゃんか。そんなに早く帰っちゃうの?」
ディアッカは意外そうに目を瞬いた。
「わざわざここまで来た意味ねーじゃん」
……メールか何かで済ませられなかったのかよ、と呆れたように呟くディアッカを見て、サイは困ったように肩を竦めた。
「うーん、それがその……メールでは済ますことのできない大事な用件なんだ。本当はぼくじゃなくて、うちの研究室の先生が出向く筈だったんだけどね。急に体調を崩されてしまって遠出が無理になったもんで、代わりにぼくが来ることになったんだ」
教授が来られるなら、もうちょっと経費が出てゆっくりできるスケジュールだったかもしれないんだけどね、とサイは苦笑した。
サイが差し出した名刺を何気なく手に取ってみて、ディアッカはひゅー、と口笛を吹いた。
そこに書かれている名前に覚えがあったのだ。
アルベルト・シュライバー博士。
確か、遺伝子工学の分野ではよくその名を知られている有名な研究者の一人ではなかったか。
サイがオーブ工科大学の大学院に進学したということは聞いていたが、遺伝子工学の研究をしていたとは知らなかった。
ディアッカは不思議そうに改めて真横の男に視線を投げた。
微妙に……雰囲気が変わったかな、と思う。
優しくて温厚な面立ちは相変わらずだが、それでも以前覚えていたより、横顔がひどく大人びて見えた。
最後に会ったときから一年以上経っている。
お互い、それなりに年を重ねているのだから、それも当然かもしれないが。
「何?」
サイが困惑したようにこちらを向くと、ディアッカは慌てて何でもないように、運転に集中している振りをした。
「あ、えっと……よく俺んちがわかったな、と思って」
住所はおろか電話番号まで……こちらの実家のことなどサイに話した覚えはなかったが。
不思議そうに聞くと、サイはにやりと笑った。
「アスランに、聞いた」
その答えにああ、と納得する。
オーブには、あいつが残っていたんだったっけ。
(うちの隊長の憂いの根源、か……)
奴のことを考えると、いつも胸の奥でちりちりと嫉妬の焔が燻る。
「あんの野郎……ほいほいと人のプライベートな情報を流してくれちゃって……」
取り敢えず、苛立たしさをそんな風に吐き出すと、
「――迷惑、だったかな」
サイが困惑した面持ちでこちらを見ているのが目に入った。
「なっ、何言ってんだよ!んなわけねーじゃんか」
慌ててディアッカは相手の言葉を大きく否定する。
「おまえの声、聞いたとき、俺、マジ嬉しかったんだからさ!」
それは本当の気持ちだった。
ちょうど、会いたいと頭の中に思い描いた顔。
その顔と電話の声が繋がった。
すごいタイミングだ、と我ながら驚いた。
「それ、『マジ』……?」
サイは冗談めかして繰り返すと、声を上げて笑った。
「良かったよ。ほんとは、自信なかったんだ。……あれからもう一年近く経ってるし。ぼくらが一緒にいたのも、何やかや言ったって、戦争中の混乱した中での、ほんの一時期のことだったんだしね。過ぎてみたら、何だか全部本当にあったことのような気がしないくらいでさ。きみももうぼくのことなんか、覚えてないんじゃないか、とかね……コールするのも、勇気がいったよ」
「ばーか。忘れたりするわけねーだろ。短い間だったとしても、俺たちは、その……何だ。一応『戦友』ってもんだったんだからな。少なくとも、俺は今でもそう思ってるから……」
前を向いたまま、ディアッカはそれだけ言うと、気恥ずかしさを隠すように心もちエレカのスピードを上げた。
「まあ、坊ちゃん。帰ってらしたんですか!」
玄関の扉を開けた瞬間、よく見知った顔が驚きの声を上げながら出迎えた。
「グレイス……?えっ、何で――」
いきなりぎゅうと抱き締められて、ディアッカはそれ以上言葉を続けることができなくなった。
懐かしい匂いに、一瞬何も考えられなくなって、軽く目を閉じた。
彼女を最後に見たのは、いつのことだったろう。
そういえば、アカデミーに入ってから……この家を最後に出たのもそれが最後で、あれからずっと家には帰ってなかったから……もう、かれこれ二年以上は経っているかもしれない。
「本当に、一度くらいおうちに帰ってらしたら、こんなに心配もしませんでしたのに……」
確か、グレイスはもうここをやめたと聞いていたのだが。
「ちょっ……ちょっと、とにかく、放してくれよ。これじゃあ、話もできない」
ディアッカは困ったように笑いながら、ふくよかな女の体を何とか振り解いた。
背後のサイの存在を不意に意識し、気恥ずかしさに少し頬が熱くなる。
「友達もいるから……さ」
照れ臭さを隠すように、さりげなく後ろを指さす。
それで初めて女も彼の後ろに佇むもう一人の青年に気付いたようだった。
「あら、まあ……そうだったんですか。それは失礼なことで――」
目元を軽く拭うと、グレイスはサイの方に向かって穏やかに微笑みかけた。
「まだいると、思わなかったから、びっくりしたよ。やめたんじゃ、なかったのか?」
ディアッカはぎこちなく問いかけた。
家には誰もいない筈だったのだが。
「ええ、お姉さま方もとうにここを出られましたしね。坊ちゃんもいなくなられてからは、確かにもうわたくしもお役御免ということだったんですが。……それでも、まだ旦那さまもいらっしゃることですし。あまりこちらには帰ってらっしゃらないからといって、家を完全に閉めることもできないので、時々はこちらへお伺いして、お掃除などさせて頂いている程度で――」
「ふうん、そうだったんだ……」
誰もいない家。
溜め息が零れた。
(本当に、誰もいなくなっちまったんだな)
特に愛着がある筈もなかったのに、何となく寂しさを覚えるのはなぜだろう。
いろいろと思い出の詰まった場所ですから、お父様もそう簡単には処分される気にもおなりにはならないのでしょうけれど、と言うグレイスに、そんな感傷に浸るような親父かよ、と胸の内でぼやきながら、それでもこの家がまだ残っていたのは幸いだったかな、とも思う。
結局自分はここに帰ってきた。
でなければ、長い休暇を官舎で過ごさなければならないところだった。まあ、それも悪くはなかっただろうが。それでも休暇をそんな場所で過ごしているのは、惨めな気がした。
父親がめったに帰る様子もなくて、普段は誰もいないことがわかっていたからこそ帰って来る気にもなったのだが、いざこうして誰もいない家に帰って来ると、どこか寂しさが募る。
矛盾だらけの自分の気持ちに、半ば呆れながら、それでもこうして知った顔と再会できたことにひそかな幸せを味わっていた。
(懐かしい……)
正直言うと、本当の家族よりも懐かしく感じる。
彼が生まれた時から、ずっとこの家の家事一切を仕切ってくれていたグレイスは、この家の中で誰よりも彼にとっては近しい存在だった。母親が亡くなってからは、使用人という立場を越えて、彼のことを我が子のように親身になって面倒を見てくれていた。
母がいなくなり誰にも構われなくなってからは、その寂しさを埋めるように彼女に甘え、我儘も言ってきたし、それなりに手厳しく叱られもした。しかし彼女には父親に感じるような隔絶感はなかった。叱られることをむしろ期待しているかのように、彼はいろいろな悪戯や問題を起こして、彼女を困らせたものだ。
家族には淡白な感情しか抱いていないディアッカだったが、幼い頃からよく可愛がってくれていた、気のいいこの『グレイスおばさん』の顔を久しぶりに見て、その腕に軽く抱擁されたときには、ほんの少し泣きたいような気分になった。
そう思った途端、こんなに感傷的な人間じゃなかった筈だが、と苦笑する。
「まあそれはともかく、帰ってらっしゃるなら、そうと予め何で連絡を下さらなかったんです?それならそれで、お食事のご用意とかさせて頂きますものを……。それもお友達もご一緒なら、尚更……」
「あ、ぼくは今日突然連絡したもので……お構いなく」
サイが遠慮がちに口を出した。
「いえいえ、そういうわけには参りませんよ。とにかくお茶と軽い食べ物くらいはご用意しますから」
そう言いながら、気ぜわしく彼女はキッチンへ消えた。
その間にディアッカはサイを廊下へと導いた。
「ま、こんなレトロな家だけどさ。良かったら、泊まってけよ。今言ってたみたいに、誰もいないから、部屋だけはあるんだ」
「――悪いな」
「いいんだよ。ホテル代、浮くだろ。それにあんな安ホテルよか、こっちの方が部屋もずっと広いし、気楽でいいぜ」
ホテルをとっている、というサイを強引に自分の家に来い、と誘ったのはディアッカ自身だった。
一人でこのだだっ広い家で過ごすことを考えると、サイがいてくれることはとてもありがたいように思え、即時に提案したのだ。
――本当に、少し強引すぎたかな。
少し反省しながらも、後悔はしていない。
サイがこうして一緒に来てくれて、ほっとしている。
(ちょっとは、いい休暇が過ごせそうだ)
そんな楽天的な考えに、気分もどことなく浮き浮きしたものになってくる。
サイを部屋に案内した後、彼は居間へ戻った。
そのとき、既にグレイスが熱いお茶を淹れたカップと菓子を盛った皿をローテーブルに並べている最中だった。
「……あの、さ……」
ディアッカは扉口に佇みながら、軽く頭を掻いた。言いかけておきながら、その先が続かない。そんな彼の躊躇いを察知してか、グレイスはトレイを脇に抱えて戻りしなに、彼の傍でいったん立ち止まった。
「さっきも申し上げたように、旦那さまはここのところずっとこちらにはお帰りになっていらっしゃいませんよ」
大きな灰色の目が、しようがない、と言う風に笑っていた。
「……私も、最近は週に一度くらいしかこちらには伺ってなかったんですが、今日はたまたま坊ちゃんとお会いできて良かったですよ」
こんな風に久しぶりに『坊ちゃん』と呼ばれると、幼い少年の頃に戻ったような気分になり、照れ臭い。それでも、心から嬉しそうに目を細めてディアッカを見つめる相手の姿に、懐かしさが募る。
「うん……俺も、グレイスに会えて何だかほっとした」
彼がザフトを出奔したことやその他周囲を巻き込んだ例のさまざまなトラブルについても、彼女は一切何も触れなかった。それが何よりもありがたかった。
「お元気そうで、良かったです。……旦那様もあれで本当はかなり心配されていたんですよ」
「親父が?そりゃ、ねーだろ」
ディアッカは苦笑した。
「怒り狂ってただけじゃねーの。家の不名誉だ、とか何だとか言って。どうせ自分と家のことしか考えてねーんだろうからさ」
「そんなことおっしゃるもんじゃありませんよ。もうそろそろ、お父様と仲良くしようという気にもなって頂かないと……」
「あー。そりゃ、無理だ」
軽く流すディアッカを見て、グレイスはやれやれと太い首を竦めた。
「全く、仕方ないですねえ……。お互いに頑固なんだから」
グレイスの心配してくれる気持ちをありがたいと思いながらも、やはり実際には、あの父と顔を会わせることにはどうしてもささやかな抵抗を感じずにはいられなかった。
グレイスが帰った後も、ディアッカは壁に背をもたせたまま、何となく扉口の傍から動けないでいた。
ぼおっと佇みながら、ゆっくりと室内を見回してみる。
(何だかなあ……)
この家と同じくらい中途半端な自分の存在を認識するかのようで、少し心が重くなった。
「何してるんだよ?」
開きっぱなしになっていた扉の向こう側から入ってきたサイは、扉の傍で佇んでいたディアッカを見て、不思議そうに声をかけた。
「あ、ああ……うん。ちょっと、さ」
我に返ると、ディアッカは慌ててソファーの方へ移動した。
「旧時代的な家で驚いたろ?」
そう言いながら、ソファーにどっかりと腰を下ろす。
その向かい側にゆっくりと腰を下ろしたサイは物珍しげに周囲を見回していた。
「うん……珍しいね。プラントでこういう家があるってことが不思議だな」
サイは笑った。
「ぼくのおじいさんの家も、こんな感じだったけどね」
「おまえの?」
ディアッカは興味深げにサイを見た。
「うん。あんな暖炉とか、柱時計とか、人形とかさ。古いものがいっぱいあったんだ。母さんは嫌がってたけど、ぼくは結構好きだったな。よく屋根裏部屋とか、探検したよ。お宝みたいながらくたがいっぱいでさ」
「へえー……」
さりげなく子供の頃の話をするサイは、どことなく楽しそうだった。
理知的な瞳が、子供の頃の思い出が甦ってくる興奮できらきらと僅かに輝いている。そんな彼の顔を見ていると、自分の家を気に入ったと言ってくれているようで、馬鹿みたいだと思いながらも、ディアッカは何となく嬉しくなった。
「こんな家に住むような奴、俺の親父くらいのもんだと思ってたけどな」
「地球じゃ、まだそんなに珍しくないよ」
サイはさらりと言い放つと、カップを持ち上げ、上手そうに一口啜った。
「――で、ザフトは、どう?」
不意に話題を振られて、戸惑う。
ディアッカはうーんと天井に目を向けた。
「……そうだなあ。うーん……まあまあ、かな。戦争ないと、はっきし言って軍人なんか用なしだからな。なーんか、毎日つまんねー仕事ばっかに追いまくられてたりして、さ」
「平和なら、それに越したことはないよ」
サイはそう言うと、軽く吐息を吐いた。
目を上げる視線が、僅かに遠くを彷徨う。
「知っている誰かが死んでいくのを見るのは、辛いから」
「………………」
急に気づまりな沈黙の間が流れる。
サイが誰のことを言っているのかはよくわからなかった。
あの戦争で、多くの人間が死んだ。
彼らの仲間も、そして無論自分の仲間も……。
誰が悪くて誰が正しかったか、なんて今さら言えるわけもない。
もうそれは清算していた筈――だった。
ただ、こんな風に戦争が終わって平和な時間を過ごせるようになっても、あの戦争で亡くなったものたちは、もう二度と帰ってこないというだけで。
「……て、さ。つまらない仕事でも我慢しろ、ってこと!」
サイは片目を瞑ると、笑って言った。
「ん……だな」
ディアッカも微笑んだ。
顔を見合わせると、お互いに笑っているのに、なぜか泣きたいほど切ない気分になった。
俺たちは確かに多くのものを失った。
でも、今ここにこうして生きている俺たち自身がいる。
今は、それでいい。
そんな風に思い、ディアッカは微笑む友の姿に熱い眼差しを注いだ。
「な、今夜はどっか、外にメシ食いに行こうぜ。俺、奢るから」
いかにも景気の良い調子で誘う。
「メシはいいけど、折半でいいよ。悪いから」
「ばーか、遠慮すんじゃねーよ。俺、一応働いてんだから」
偉そうに言うと、サイは笑って、じゃあ、ご馳走になる、と答えた。
そのまま外へ食事に出た後、帰ってきたときは、ディアッカはかなり酔っ払っていた。
帰りはエレカを自動運転に切り替えて、あまり飲まなかったサイが運転席に座った。
車から出るときも足元が覚束なくて、サイに抱きかかえられるようにして、玄関から家の中に入った。
どこをどう通って自分の部屋に入ったのかわからない。
ぼおっとする頭のまま、彼は自分がベッドの上に寝かされているのをほんの僅かに意識していた。
「仕方ないなあ……」
相手の溜め息がすぐ耳元で聞こえる。
「飲みすぎだよ。ほんと……」
「ん……」
それでも重い瞼を上げることができなかった。
そのうち、ふっと顔に相手の髪がかかるようなくすぐったい感触があった。
わけがわからないうちに、唇に何かが触れるのを感じた。
柔らかで、湿った感触。
何だろう、と口を開きかけると、その湿ったものが口内にそっと侵入してくる気配がした。なじみのある感触にぞくりとする。舌が触れると、それは僅かに震えた。さらに舌を伸ばす前に、それは怯えたように離れていった。
気のせいか、と思った。
(今の……)
慣れた感触だったが、それでも微妙にいつもとは違う。
嫌な感触ではなかった。
それでも――ひどい違和感があった。
なぜだろう。
何かが、違う。
どうしたんだろう。
今のは、何だったのか。
確かめようと思う前に、意識が急速に遠のいていき、それ以上何もわからなくなった。
To
be continued ...
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