きみと見た空 (3)





(……ん……?)
 気付くと、自室のベッドの中にいた。
 カーテン越しに差し込む朝の光に、しばし目を瞬く。
(あれ……?)
 一瞬記憶が繋がらなかった。
 ――俺、どうしてたんだっけ……。
 いつのまに、帰って寝ていたのか。
 皺だらけのシャツは、途中までボタンが外されているが、どうやら脱ぎきらないままベッドの中になだれ込んだらしい。
 昨夜は……確か……。
 ぼんやりと天井を見つめているうちに、だんだんと頭がはっきりしてきた。
(サイ……?)
 その顔を思い浮かべた瞬間、彼はがばっと起き上がった。
「……つ……っ……!」
 途端にずきずきと頭の芯に鈍い痛みを感じて思わず額を押さえる。
 昨夜はどうも、調子に乗って飲みすぎたようだ。
 完全なる二日酔い、だった。
 こんなに飲んだのは久し振りだ。
 そう思って我ながら呆れた。
 一体どうしてあんなに勢いよく飲んでしまったのだろう。
 
(――なあ、覚えてる?……のこと……)
 
 ふと、昨夜の会話の断片が甦る。
 ――そう。あいつが、急にあんなこと言い出すから……。
 ディアッカは額を押さえたまま、僅かに顔をしかめた。
(あんな、こと……)
 
 
「……フラガ少佐のこと、覚えてる……?」
 何の脈絡もなく、不意にその名がサイの口からこぼれ落ちたとき、ディアッカは茫然とその場に凍りついた。
 さっきまで、マードックやノイマンたちの話でさんざん盛り上がっていたところだったのに、急にその場の空気が微妙に変化する。
 いや、相手にとっては何でもないことなのかもしれないが。
 少なくとも、ディアッカにとってはそうではなかった。
 ――あの男……。
(ムウ・ラ・フラガ……)
 憑かれたように、ひそかにその名を頭の中で繰り返す。心臓の鼓動が僅かに速くなるのを相手に悟られたくなくて、無理に何でもないように笑顔を作ってみる。
 一瞬の間を置いた後、何とか口を開いた。
「……何だよ、いきなり」
 声が不自然なほど低いような気がしたが、今さら取り繕うこともできなかった。
「何で急に『あの人』のことが出てくるんだよ」
 笑いながら言おうとしたが、少し顔が強張ってしまったような気がする。相手に気付かれただろうか、と冷やりとした。
「うん……」
 サイはなかなか続けようとしない。
「きみ、少佐と仲良かったようだから」
 『仲が良い』?
 ディアッカはサイの言葉が含む意味を敢えて深く解さないようにした。
 しかしそれでも、どことなく奥歯にものが挟まったような言い方が、ひどく気にかかった。少し苛立ちを感じる。
「だから、何?」
「ん……?」
「それが、どうかしたのか」
「あ、ああ。うん……」
 そんなやり取りを繰り返すうちに、急速に二人の間に不穏な空気が流れ始めたようだった。
(何なんだよ、一体……)
 どうしてサイが急にフラガのことを持ち出すのかわけがわからず、ディアッカは苛々と手に持っていたアルコールの入ったグラスを一気に呷った。
「何か言いたかったんじゃないのか。何で言いかけて、焦らすんだよ?」
 アルコールのせいか、少し突っかかるような口調になる。
 しばらく黙ったまま俯いていたサイは、やがてそっと口を開いた。
「……もし、さ……」
 躊躇いがちに一呼吸置いた。様子を窺うようにちらと目を上げてディアッカを見る。
「……もし、少佐が生きていたら――きみ、どうする?」
「………………」
 一瞬、相手が何を言っているのか、わけがわからなかった。
 冗談を言っているようにも見えない相手を前に、どう返事をしてよいかもわからない。
(もし、生きていたら……って……?)
 何を言い出すかと思えば、そんな……そんなこと……っ。
 陽電子砲をまともに喰らってAAの前で粉砕したストライクの凄惨な光景が生々しく甦る。思い出すだけで、胸が悪くなった。
 生きていたら……だと。
 ディアッカは忌々しげに舌打ちした。
(……馬鹿な……!)
(……そんな可能性、あるわけない……っ!)
 たとえコーディネイターだって、何だって、あれだけの爆発の中で生き残れるようなタフな人間はいないだろう。いたとしたら、人ではない。化け物だ。
 たちの悪い冗談だと思い、サイを軽く睨みつけた。
「……んなこと、あるわけねーだろ!」
 吐き出す息の荒さに、自分が必要以上に興奮していることを感じ、困惑した。
 ――こんな風に今さら、思い出したくはない。
 何も今、ここで……。
 『あの人』のことを……今、ここで……。
「やめろよ。くだらねーこと言うの」
 ぼそりと吐き出すなり、視線を落とした。
「冗談にしても、笑えねーよ……」
「……そうだな。ごめん」
 あっさりとそう返したサイが何となく気になり、再び目を上げた。
 一瞬目と目が合う。
 眼鏡越しにこちらを見つめる瞳は一見穏やかで特に何の表情の変化も見られない。
 
しかし、それでも何となく気になった。
 あまりにも動かないその淡白な表情が、かえって不自然な気がして。
 ――何か、隠している。
 
……そんな気がした。
 くだらないことを言うな、と言っておきながら、今度は妙に気にかかり、もっと聞きたくて仕方なくなったが、今さらそう聞き返すのも格好が悪くて結局言い出せなかった。
 そのうちに話題が他のことに移り、それ以後フラガの名は二度とサイの口から出てくることはなかった。
 たいしたことじゃない。きっと、そんなに深い意味があって言ったわけじゃなかったんだろう。
 そう思って忘れようとした。しかし……。
 その後もずっと心のどこかにそのことが引っかかったままだった。
 微かに苛立つ心を抑えるように、ディアッカは酒の入ったグラスにしつこく手を伸ばし続けた。
 
 
 ――そんな風だったから、悪酔いしてしまったのも、無理はない。
 今、額を押さえながら、改めて気持ち悪さに呻いた。
「……くそっ」
 小さく息を吐き出した。
 その息を鼻の先で嗅ぎ取ると、まだ酒臭いような気がして、顔をしかめた。
「……サイの奴……」
 それよりも、当の相手がどうしているか気になって、彼は痛む頭を無理に抑えながら、何とかベッドを出た。
 招いておきながら、客を放ったらかしというわけにもいかない。
 裸足のまま部屋を出て、廊下を歩く。
 すぐ先にサイにあてがった部屋がある。
 その扉を軽く叩いた。
「サイ!」
 何度か呼びかけたが、返事はなかった。
 躊躇いながら、扉を開ける。
 部屋の中を見ると、綺麗に整えられたベッドが目に入っただけで、人の姿はどこにもなかった。
 ベッドの下の片隅に置かれた旅行カバンがかろうじてサイがここにいたということを証明していた。
「……サイ!」
 階段を下りていくと、ほんのりとパンの焼ける香ばしい匂いがした。
 まさか……と思って食堂の扉を開けると、広いテーブルの真ん中に座ってコーヒーカップを口に運んでいる栗色の髪の青年の姿が目に入った。
「ああ、おはよう」
 にっこりと笑いかける澄ました顔に、ディアッカは一瞬何と言っていいかわからなかった。
「あっ、ああ……おはよう」
 取り敢えず挨拶を返すと、ぎこちなくテーブルまで近づき、相手の向かい側に腰を下ろした。
 何気なく頭に手を置いたとき、その触れた髪の毛の乱れ具合に、まだ自分が起き抜けで、シャワーも着替えも済ませていないことに今さらのように気付いて、少しきまりが悪くなった。
 目の前のサイはというと、既に着替えも済ませたらしく、昨日とは違う新しい白い半袖シャツにライトグリーンのネクタイを軽く締めた格好で座っていた。
「……………」
 テーブルの上に置かれた皿に盛られた焼きたてのクロワッサンやサラダの入ったボウル、保温器に入ったコーヒー等をちらと見ると、ディアッカの心の内を察したかのようにサイは苦笑した。
「ああ、ちょうどぼくが起きたとき、昨日のあのおばさんが来てくれてたんだよ。朝ご飯の用意とか、気にしてくれてたみたいでさ。いい人だね、あの人」
「そっか……」
 グレースが気を利かせて朝一番に食べ物を持って来てくれたと聞いて、なるほどと思った。
「あ、それでこのサラダはぼくが作った。キッチンの使い方、教えてもらって」
 サイはサラダの入ったボウルを指さすと、照れ臭そうにそう言った。
「へえ……おまえ、料理なんてできるんだ」
 ディアッカは意外そうに目を瞬いて、彩り豊かに野菜が盛られたボウルを改めてまじまじと見る。
「まあ、作ったといってもたかだかサラダだからたいしたことないけど、他にもいろいろレパートリーはあるよ。ぼくはずっと自炊ばっかしてるから、慣れてるんだ。結構味にも自信あるんだぜ。何ならここにいる間、いろいろ作ってやるよ」
「ばっか、いいよ、そんなの。おまえ、一応俺の客なんだからさ。客がそんな気ィ遣ってどうするよ?」
 そんな風に流しながらも、たかだかサラダと言いながら、何種類もの野菜をこんな風に切ったりちぎったりするだけでも、自分にとっては最高に面倒臭く思える。自分には到底こんなことは無理だなと思い、サイの器用さに感心した。
「じゃ、ちょっと俺も食ってみよっかな」
 本当は二日酔いがまだ残っている胃は、食べ物を受け付けるような状態ではなかったのだが、せっかく作ってくれたものを少しくらいは味わわないと悪いかなと思い、手を伸ばしかけると、それより早くサイが新しい皿にさっさとサラダをつけ分け始めた。
「あ、いーよ、そんなの。適当に摘むから」
 そう言ったときには既に美しく盛られたサラダの皿が目の前に置かれていた。
「コーヒーも飲むだろ?ブラックでよかった?」
「ん……」
 てきぱきと動くサイに半ば圧倒され、うんと頷くしかなかった。
 何だかこれでは本当にどちらが客かわからないな、とディアッカは内心苦笑した。
 サラダを一口食べると、新鮮な野菜は驚くほどおいしく感じられた。
 よく考えてみるとこんな健康的な食事はここのところずっとした覚えがない。
 燻っていた二日酔いも一気に吹っ飛んでいくような気がした。
 そのまま黙って食べるディアッカを、サイは満足げに眺めていたが、やがて思い出したように口を開いた。
「……昨日はだいぶ酔っ払ってたみたいだけど、大丈夫か?」
 ディアッカは、軽く頷いた。
「……ん、まあ。ちっとまだ頭いてーけど、そのうち引くだろ」
「なら、いいけど。昨夜はきみ、ほんとにぐでんぐでんだったから。部屋まで連れて行くのも大変だったよ」
「そっか。悪かったな」
 そう言いながらも、心の中では『誰がそこまで酔わせたんだよ』、などとぼやいていた。そのとき、また昨夜の疑問が頭を擡げかけたが、今さら蒸し返すことも大人気ないような気がして、何も言わなかった。
(まあ、いいや。そのうち、聞き出してやる)
 そんな風にひそかに自分に言い聞かせていたとき、ふと真向かいから注がれる相手の強い視線に気付いた。
 一心に注がれるそのこころもち熱の込もったような視線に、落ち着かなくなる。
 ――なぜ、こんな風にこいつは俺を見ているのか。
 急に気になった。
 違和感……?
 そのとき、思い出した。
 確か……昨夜、途切れ途切れの記憶の中で、感じたあの不思議な感覚は……そういえば、あれは何だったんだろう。
「なっ、何だよ。そんなにじっと見るなよ。食べらんねーだろうが」
 そう言うと、相手ははっと我に返ったように軽く身を引いた。
「ああ。ごめん。そんなつもりなかったんけど。きみがあんまりおいしそうに食べてるもんだから、つい……」
 サイの口調はごく自然なものだった。
 笑顔も変わらない。
 それを見て、自分の感じたものがただの錯覚だったのだと、思い直してほっと安堵した。
 ――だよな。
 自分は一体何を考えているのか。
 ディアッカは軽く頭を振って、わけのわからない妄想を追い払った。
「……これから、プラント工科大まで行ってくるよ。夕方までには帰ってくるから」
 サイがそう告げると、ディアッカは頭を上げた。
「ああ、おまえの用件、ね……」
 サイのそもそもこちらへ来た目的。
 彼は私用で来たわけではない。済ませねばならない大事な用件があることを今さらのように思い出した。
「俺、おまえがいる間、ずっと休暇だから行くとこもねーしな……。そうだ。何か買っておいて欲しいもんあったら、言っとけよ。買い出しくらいなら、行っといてやるから」
 ディアッカはそう言うと、さらに付け加えた。
「……早く帰って来いよな。一人じゃさみしーのよ、俺!」
 冗談のように言ったが、それは半分以上は本音だったかもしれない。
 一人きりでここにいるのが、嫌だったから……サイから連絡をもらったときは飛び上がりたいくらい、嬉しかった。だからすぐに彼に家に来いと誘ったのだ。一人の寂しさを紛らすために。
「ああ、じゃあ、買い物リストでも作ってみるかな」
 サイは立ち上がると、食べ終わった食器を持ってキッチンへと移動した。
 そこから戻ってきたとき、彼の手にはメモを書いた紙片が握られていた。
「はい、これ」
 ディアッカの傍に近づくと、脇からひょいとそれを差し出した。
 手に取ったディアッカの肩に軽く片手を置き、一緒に上からメモを覗き込む。
「今、冷蔵庫の中チェックして、取り敢えず欲しいものだけ書き出した」
 それに目を通したディアッカは呆れ顔で傍らに立つサイを見上げた。
「何だよ、これ。食材ばっかじゃん。まさか、おまえマジに食事作るつもりなのかよ」
「……宿泊料代わりだと思ってくれればいい」
 にっと笑うサイに、ディアッカは軽く肩を竦めた。
 そのとき、不意に肩に置かれた相手の手がすっと髪を撫でた。
 ディアッカはびくっと驚いたように身を竦ませた。
「おい、何だよっ、急に!」
「――髪……」
 屈み込みながらこちらを見下ろす相手の瞳と間近で目が合った。
 眼鏡の奥のけぶるような瞳の中に、一瞬強い意志の光を感じて、ぎくっとした。
 サイらしくない。
「髪……って……?」
「――下ろすと、雰囲気変わるんだな」
 垂れた前髪の先を懲りずに軽く引っ張るサイの指先にぞくりと体が総毛立つ気がした。反射的に手で強く払いのける。
「やめろったら!」
 思った以上に声が強くなったことに相手は無論、自分でも少し驚いた。
「……ごめん」
 苦笑気味に謝って手を引いたサイの顔を見ると、先程一瞬感じたような圧迫感はもはや何も残ってはいなかった。
 
ほっとする反面、髪を触られたぐらいでそんなにも過敏に反応しすぎる自分に戸惑いも感じていた。
 なぜこんなに神経質になっているのか、自分でもわからない。
 また、あの奇妙な感覚が甦る。
 唇が湿りを帯びる。
 無意識に、唇を拭うように手のひらで擦っていた。
 
 ――俺、どうかしてるのかも……
 
(いや、どうかしてるのは、俺なのか。それとも……)
 目の前で穏やかな笑みを浮かべている相手の顔が急に遠く、まるで見知らぬ人間のように見えた。
 そのうち、気持ちが悪くなった。
 いったん吹っ飛んでしまったと思ったあの二日酔いの症状がまた戻ってきたようだった。
「ディアッカ……?」
 サイが心配そうに声をかける。
「大丈夫か」
 返事もそこそこに立ち上がり、バスルームへ向かって走った。
 ――バスルームに入ると、扉に背を押しつけて、荒い息を吐き出した。
 ずきずきと頭が痛む。
 すぐに胸がむかつき、そのまま少し便器に吐いた。
 なぜこんなに調子が悪いのか。本当に飲みすぎたことだけがこんなに気持ちが悪くなった理由なのか、よくわからなかった。
                              
                                         To be continued ... 


<<index       >>next