きみが、壊れるまで





 その日の戦闘で、シン・アスカは英雄(ヒーロー)になった。
 ミネルヴァに着艦するなり、格納庫に興奮した乗員たちが群がり集ってくる様子を見て、シンは驚いた。
 まだ少し乱れる息を数秒で整えると、彼は目を閉じ深呼吸をした。
(……俺は……どうしたのかな……)
 さっきの戦闘中に、自分の中で一体何が起こったのか……まだ、自分でもよくわからない。
 ただ――
 群がりくる敵に取り囲まれ、絶体絶命になったあのとき……
 恐怖よりも、突然胸の底から激しい怒りが湧き上がり、全身がかあっと熱くなった。
 
こんなところで、艦を絶対に沈めさせるものか……!
 
そんな強く激しい思いが炸裂し、その瞬間、頭の中が真っ白になった。
 
我に返ったときには既に両手が勝手に操縦桿を操っていた。
 
これまでの自分とは違う。そんな何か他のものの力が加わったかのように、機体が面白いほど、思うがままに動いた。
 
自分自身であって自分自身ではないような……そんな不思議な感覚の中で、シンはただ目の前の敵を次々に撃ち落とした。
 
そこからは記憶が曖昧になっている。
 
本当にあれは自分自身だったのだろうか。……ふと疑いたくなってくるほどに……非現実的な感覚でもあった。
 全てが終わった今ですら、彼にはまだ現実感がなかった。まるで、夢でも見ていたかのような……。
 
これは、現実……なのだろうか。本当に?
 
呆然とした頭を打ち振ると、彼はコクピットを出た。
「シン!」
 格納庫の床に降り立つなり、ヴィーノが大きく手を振りながら駆け寄って抱きついた。
 その確かな人肌の感覚に、ようやくシンは自分が現実の中にいるのだということを実感できた。
「シン、やったな。すげーじゃん、おまえ……!」
 不安を感じながらも、ヴィーノや他の仲間たちの飾らない純粋な賛辞の言葉に思わず微笑が零れた。
 そのときふと、ヴィーノの背中越しに、向こうに佇んでいるレイ・ザ・バレルの姿が目に入った。
 レイの名を呼ぼうとしたその瞬間、相手の射るような視線に貫かれて、シンの言葉は唇の上で凍りついた。
(……レイ……?)
 その青い瞳の放つ、氷のような冷えた輝き。
 目が合った瞬間、全身がぞくりと震えた。
 ――怒っている……?
 
……それは、恐らくそれまでシンの前では見せたことのなかっただろう、冷たく――憎しみすら感じさせるかのような酷薄な表情。
 
レイはいつも冷静であまり表情を変えない。自己にも他人にも常に厳しい姿勢を貫き、シンも何度も手厳しい言葉を投げかけられたことがある。
 
しかし、それでもこんな風に露骨に敵意を剥き出すようなことはなかった。
 
――これは、本当にレイなのか。
 
シンは目をしばたいた。
 しかし、次に目を開いたとき、視界に入ったレイの表情はいつもの冷静で、穏やかな顔に戻っていた。
(……気のせいだ……)
 シンはほっとして、緊張に強張りかけた表情を緩めた。
 そうだ。レイが俺に向かってあんな顔、するなんて……そんなこと、あるはずが……。
 ルナマリアとレイの3人で歩いて行くときも、シンは後ろにいるレイにそれとなく視線を投げたが、レイはやはり普段通りだった。
「けど、本当にどうしちゃったわけ?何かいきなりスーパーエース級じゃない!火事場の馬鹿力ってやつ?」
 隣を歩くルナマリアがからかうように言う声に、シンはハッと我に返った。
「やだ、何ぼーっとしてんのよ」
 ルナマリアが口を尖らせると、シンは慌てて答えた。
「あっ、ごめん……――ってか、自分でもよくわかんないんだ。オーブ艦が発砲したの見て頭きて、こんなんでやられてたまるかって思ったら、急に頭ん中が真っ白になって……気が付いたら……あんな風になってて……」
 そう言いながら、次第にシンの心は再びわけのわからない不安と困惑を感じ始めていた。
(そうだ……ホントに、俺、どうしちゃったんだろうな……)
「ぶちきれた……って、こと……?」
 ルナマリアが不思議そうに言う。
「いや……そういうのじゃ、ないと……思う……けど……」
 ルナマリアをちらと見ながら、答えるシンの口調はどこか歯切れが悪かった。
(そういうのじゃ、なくて……あれは……)
 何か、もっと……違う……

「なんにせよ、おまえが艦を守ったんだ」
 不意に真横から聞こえてきたレイの声に、シンはどきりと視線を上げた。
 それまで背後を歩いていたレイが、いつのまにか彼の真横から顔を出していた。
「生きているということは、それだけで価値がある。明日があるということだからな」
 ぽん、と軽くシンの肩を叩くと、レイはそのまま先に一人で歩き去った。
 シンはその場に足を止めたまま、立ち去るレイの背中を呆然と見送った。
(レイ……)
 何となく、今日のレイは変だという気がした。
 
レイは、優しい。
 
勿論彼はいつもシンには優しかった。しかしさっきの彼は――優しすぎた。
 どんなにシンが上手くやったと思えたときでも、必ず、一言二言横から辛口のコメントを差し挟んでくるのがレイだった。
 叱ったり、きつい口調でものを言うわけではない。ただあくまで穏やかに、冷静に相手を批評する。
 指導教官でもあるまいし……と、思いながらも実際にレイのパイロットとしての技量が自分よりも勝っているということはこれまでの実績でよくわかっているために、シンは何も言い返すことができない。いちいち言われることももっともな事ばかりなのでただ黙って頷くしかなかった。
 なのに……
(今日は、文句を言うところがなかったからかな)
 シンは苦笑した。
(俺、今、この艦じゃ、『スーパーエース級』パイロット』なんだもんな)
 さっきのルナマリアの言葉を引用してみるが、何となく気恥ずかしさが先に立って、落ち着かない。
 それにしても――自分でも、奇跡的な戦闘だったと思う。

 もう一度、あれと同じことができるかどうかは、わからないが……。
 今日の戦闘はどこか神がかり的だった。
 さすがのレイも口を挟むところがなかったということか。
 それにしても……レイは本当はどう思っているんだろうか。
 先程のレイの表情を思い出し、シンは不思議な気持ちで首を傾げた。
 すぐ傍のルナマリアと目が合うと、彼女も同じようなものを感じていたらしく、シンを見てくすりと笑った。
(レイって……何だか不思議よね)
 ルナマリアの目がそう語りかけているのがわかった。
(うん……だよな)
 シンも内心そう答えると、笑みを浮かべてルナマリアを見返した。
(でも、レイはいつも俺のこと、わかってくれるから……それだけは、確かだから……)
 シンの目が遠くなった。
 レイ……。
 
なぜだろう。レイが傍についていてくれる。レイが何か言ってくれると、それだけで自分は安心できる。
 ずっとそうだった。オーブから、プラントに来て……独りきりで不安だった俺を最初に助けてくれたのは、レイだった。ずっと自分のことをちゃんと見てくれていたのも……レイだった。
 いつしかレイはシンにとって……独りきりのこの気の遠くなりそうな、果てのない孤独感を埋めてくれる、大切な心の拠り所になっていたのだった。
(大丈夫……だよな)
 あの一瞬の視線の冷たさは、自分の気のせいに過ぎないのだろう。
 シンは、そう解釈した。そう、思いたかった。
 ――インパルスであんな風に活躍したことが、これまでの自分とレイの関係を変えたりなんか……しないよな。
 
 
 ――レイは更衣室まで続く廊下を一人歩いていた。
 
顔を上げ、振り返ることもなく、一定の速さで淡々と歩いていく。
 その顔にはさっきまでの穏やかな笑みはもはや微塵も残っていない。
 形のよい眉を上げ、唇を一文字に引き結び、青い双眸は真っ直ぐ前を見つめている。
(……なぜ、俺ではない……)
 胸のさざめきがおさまらない。
(……ギルはなぜ、インパルスを俺ではなく、シンに預けたのか……)
 自分では、無理だったというのか。
 シンでないと、インパルスの力を引き出せなかったのか。あのように……。
 所詮、自分は……
 
 ――『失敗作』……なのだろうか。
 
 苦い思いが胸を満たした。
 暗い記憶の底に、滓のように溜まっていた思い出の断片。
 どうして……?
 今、ここでこんな思いをまた味あわなければならないのか。
(シン……)
 シンがインパルスのパイロットであることに、嫉妬しているわけではない。
 ――いや、本当に、そうなのか……?
 レイはふと自嘲気味に、自分自身にそう問いかけた。
 本当は、自分がインパルスに乗りたかったのでは、なかったか。だから、今俺はこんなに苛立っている。
 しかし、それでも……。
 シンを恨んだり、憎んだりすることはできない。それだけは事実だ。
 自分はシンから離れることは、できないのだから。
 シンは、自分にとって……大切な存在なのだ。
 彼を放したくない。彼のことを……

 ――『好き』――だから。


 ――シン……。
 いつか……彼と初めて出会った頃。子犬のように、泣きながら必死で縋りついてきた彼の姿が、不意に瞼の裏に浮かんだ。
 彼の体に触れ……いつしか、彼をこの腕の中に抱いている瞬間が、とてもいとおしいと思えるようになった。
 あんなに、大切に育んできた思いが……
 今になって急に目の前で、無残に砕け散ろうとしている――そんな錯覚にさえ捉われた。
 ギルにいつか言われた言葉が、苦々しく胸に甦ってくる。

(……あの子とおまえは違いすぎる……)
(……あの子はいつまでも、おまえの傍にはいないよ……)

 そしてその言葉通り、あいつは今、本当に自分の手の届かないところへ飛んでいこうとしている。
 ――あいつと俺が違う……そんなことは最初からわかっている。
 レイは僅かに唇を噛んだ。
 
 だが、俺はあいつを……
 あいつがいなければ、俺は……
 
 
レイは不意に立ち止まった。
 パイロットスーツの下で、肌が僅かに震えているのがわかる。
 
彼は震えを抑えるように、両手で全身を大きくかき抱いた。
(……どうすれば、いい……?)
 その答えは、簡単には見つかりそうにはない。
 ただ、自分が今、求めていることを考えると、恐ろしかった。

(俺は、シンを放さない。……まだ、飛んでいくには、早すぎる……)

 彼は目を閉じ、しばらく自分の気持ちがおさまるまで、その場に立ち尽くしていた。

                                         (...to be continued)

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