もういちど、きみを・・・ (4)





 シャツが肌蹴られ、アスランの唇がゆっくりと彼の肌を滑っていくその懐かしい感触。
 イザークは目を閉じたまま、ただじっと相手の愛撫に身を委ねていた。
(アスラン……)
 その名が胸の中を何と心地よく響くことか。
 ――嬉しかった。こうして、もう一度彼と肌を合わせることができるとは、夢にも思わなかった。
 この2年間で自分の中から完全に払拭してしまっていた筈の、アスラン・ザラへの想い……。
 もう、忘れてしまった。自分はもう、前へ進んでいる。奴のことは、過去のものでしかないのだ……。
 ……何度もそう言い聞かせてきた。そして、自分でももうけじめをつけた筈の……。
 しかし、こうして彼に抱かれている今、よくわかる。
 そういった全ての葛藤の結果が、ただ偽りでしかなかったのだということが。自分の心をただごまかしていただけだったのだということが。
 ジュール隊の隊長となり、白い軍服を着て颯爽と歩いていた自分の心の中は、まだ以前と変わらぬ赤服のままだった。
 本当は隊長になることなど、どうでも良いことだった。
 本当は……
(アスラン――おまえさえいれば……)
 ――俺は、ただそれだけで……
 だが、こんなこと……死んでも奴の前で口にはしたくない。
 イザークは唇を噛んだ。
 言葉にしなくても自分の瞳が、その身の動き一つ一つが既に全てを物語っていることは百も承知で……。
 それでも、それが彼の最後のプライドだった。
 滑稽かもしれないが、それが彼を彼たらしめるものなのだ。簡単に失うわけにはいかない。
 でなければ、本当に自分は自分でなくなってしまう。アスラン・ザラに……全て呑み込まれてしまう。それだけは、嫌だった。
 自分はアスランが、好きだ。
 それは認める。だが……相手に自分の全てを取られてしまうのは嫌だ。
 俺は俺自身だ。……俺は、イザーク・ジュールだ。
 アスラン・ザラの所有物(もの)ではない。誰のものでもない。今も、そしてこれから先も……。
「イザーク……?」
 そんなイザークの心の動きが伝わったのか。
 アスランが怪訝そうに、ふと顔を上げてイザークを見つめた。
 心の中を見透かすかのような、深い翡翠の色が、イザークの揺れる心をぞくりと震わせた。
 イザークはさりげなく視線を逸らした。
「……何、考えてる?」
 アスランの指が、答えを促すようにそっとイザークの頬を撫でた。
「……別に、何も」
 無愛想に呟くイザークを見て、アスランは苦笑した。
(ほんっと、相変わらずだな……)
 イザークの一つ一つの仕草、表情、言葉遣い……全てが懐かしく、愛しかった。
「……イザーク……」
 アスランはぎゅっと相手の体を抱き締めた。
 腕の中から消えてしまうことを心配するかのように。固く、強く……まるで、相手に必死でしがみついているかのようにも見えた。
「アス……ラン……?」
 イザークは少し驚いたように、そんな彼を見返した。
「……やっと、こっちを見てくれた」
 同時に目を上げたアスランとぴたりと視線が合う。
 イザークは眉をしかめた。
「貴様……ッ……何を、ふざけて――」
 文句を言いかけた唇は、アスランの唇に素早く塞がれた。
「……んっ……!」
 軽いキスを交わした後、唇から離れたアスランの舌がさらりと頬を舐める。
 すぐ目の前に、緑の瞳が迫っていた。
「……イザーク……好きだ」
 さらりと言うアスランに、イザークは自然と頬を染めた。
「なっ…何をいきなり……」
 ――好きだ。
 こんなに……どうしようもないくらい……。
 アスランの思いがあまりに強くて、目眩がしそうだった。
 ――俺だって……
 思いは同じ……なんだ。
 なのに、なぜだろう。
 時々……ふと、こいつが怖くなることがある。
 こいつの思いの強さが……この激しい感情が……。
 イザークはひそかに苦笑した。馬鹿げているが……やはり、過去の数々のやり取りが自然に甦ってくる。かつて……自分がどんな風にこいつに犯されたか。無理矢理こいつの腕に組み敷かれてきたか……。
 それ自体はおぞましい経験でしかなかったが、それでももっとおぞましいのは、そんな相手に未だに魅かれずにいられない自分自身なのかもしれなかった。
 イザークは軽く目を閉じた。
 ――アスラン……何でおまえは、いつもそうなんだ。
 いつも自分の思いばかり、執拗に押しつけてくる。
 自分の思いに正直すぎるのか。普段は冷静を装っているくせに、こんな時だけは驚くほど感情の抑制がきかなくなる。我儘で自分勝手で……強引で……。
 貴様の方こそ、全然変わっていない。
 2年前、別れを告げたその同じ口が、空白の期間など全く忘れ去ったかのように、こんなにも激しく強い愛の言葉を紡ぎ出す。
 本当なら、俺は怒らなければならない。
 おまえの身勝手な言葉の数々に……。
 2年経って、俺の前に現れて抜け抜けと俺を抱こうとするおまえに対して、俺は怒鳴りつけてやらねばならないのだろう。
 しかし……
(それでも、好きなんだ……)
 仕方がない。この気持ちは隠しきれない。
 2年かかっても、駄目だった。こいつの存在をどうしても胸から消すことができなかったのだ。
 どんなに離れていても、どんなに時間が経とうとも、俺の中にはいつもおまえがいた。
 俺は、今この瞬間、おまえと一緒にいることがこんなに嬉しくて仕方がない。
 今までおまえと会わなかった時間が嘘のように……こんなに自然におまえと肌を合わせている。
 イザークは息を吐いた。
 ――アスラン……。
 いいさ。今は、ただおまえに抱かれていよう。おまえと一緒にいるこの瞬間を無駄にしたくない。
 そう思った時、イザークの頭の中は空白になった。
 
 
 相手の喘ぐ声に耳を犯されながら、アスランはただ自分の情欲の波の中に溺れていた。
 何度も挿出を繰り返す男根がどんどん熱く大きくなっていくかのようで……その中にまるで自分自身が呑まれていきそうな錯覚にすら陥った。
 以前と全く変わらない。この快感。ぞくぞくするような刺戟と全身の血が沸き立つ熱い興奮の波が襲う。イザークとでなければ、味わえない悦び。これがまさしく、ずっと自分が求めてきたものだった。
 イザークの中に自分の熱を充分に注ぎ込むと、アスランは深い息を吐いた。
(イザーク……)
 おまえが、好きだ……。
 自分でも怖いくらい、身を焦がすような熱い思いがせりあがってくる。
(好きだ、好きだ、好きだ……!)
 行為の間中、心の中で叫び続けた。
 こんなにもおまえが好きで、いとしくて、たまらないなんて。
 僅かなひとときで、こんなにも埋もれていた思いが再燃してしまうとは……。
 相手の体の中に完全に溺れきってしまっている自分が怖いほどだった。
 相手と共に果てたその瞬間も、彼はただその名を呼び続けた。
「……イザーク……」
 イザーク……イザーク……イザーク……!
 このまま、おまえを……おまえを、ずっと……
 放したくない……
 放したく……な……い……!
 
 
「……イザーク」
 銀糸の筋を引く、汗と涙の滴に湿った頬にそっとくちづけながら、アスランは小さく囁いた。
「……ん?」
 とろんとした瞳が微かに瞬いた。その青い光の煌きにアスランは再びどきりと胸の鼓動を高めた。
 なんて美しい瞳なのか。
 そのアイス・ブルーの透明な邪気のない青が、心の芯まで沁み込んでくるかのようだった。
「……おまえ……」
 言いかけた言葉が上手く続かない。
(……おまえは、俺だけのものなのか……)
 それとも……
 違う誰かのものでもあるのだろうか。
 金髪の影が頭の隅をよぎった。
 以前、俺からおまえを攫っていった……
 ――あいつも、金髪だった。
 そして、今おまえの傍にいるのも……
 アスランは軽く息を吐いた。

 おまえを自分だけのものにしておくことなど、所詮無理なのかもしれないが。
 それでも……悔しい。
 嫉妬心が首を擡げるのは、どうしようもない。
 好きであればあるほど……。
 しかし、その答えを聞くのが怖くもあった。
「……おまえは……その……」
 言い淀むアスランを見て、イザークの目がふと和らいだ。
「……今、俺はおまえしか見ていない。安心しろ」
 イザークにしては珍しく優しくこぼれ落ちた言葉が、アスランの胸にじわりと沁みた。
「いや、俺は……別にそういうことを言おうとしたんじゃ……」
 慌ててそう返しながらも、同時になぜか涙がこぼれそうになっている自分に気付き、我ながら驚く。
「……いいから、ごちゃごちゃ言うな。静かに寝かせろ。全くくだらないことにこだわる貴様の性分は相変わらずだな」
 アスランの顔を軽く払うと、イザークはくるりと彼に背を向けた。
 そんなイザークを眺めながら、アスランは自分の瞳が潤んでいるのを感じていた。
(……イザーク……)
 ――放したくない。
 心から、そう思った。
 なぜ、自分は彼とあんなに長い間離れて暮らしていられたのだろう。
 今さらながらそれが不思議にすら思えた。
 なぜ、あんなにあっさりと別れの言葉を告げることができたのか。
 自分は、なぜあのとき……。
 ――あれから、2年。

 知らぬ国にいる孤独感。常に異国人であるという緊張と孤独感から解放された今……。
 この生まれ育ったプラントへ帰ってきた今……。
 そしてこの懐かしい友の顔を見た今……。
 懐かしい……愛しい人を抱き締めた今……。
 アスランの心は狂おしいほど、この『瞬間(いま)』に執着した。
 嫌だ。放したくない。もう二度と……。
 俺は、アスラン・ザラだ。
 アレックス・ディノじゃない。
 俺は……
 アスランは、イザークの背にそっと指を触れた。
 ぴくりと相手の体が反応しているのがわかった。だが、イザークはこちらへ顔を向けようとはしなかった。
 そのまま、アスランの指は相手の肌をなぞっていく。
 暖かかった。
 そのぬくもりからどうしても指を離すことができなかった。
 あと数時間……夜が明ければ、魔法は解ける。
 おまえは、俺の傍からいなくなる。
 ……いなくなってしまう……。
 ――いや……だ……!
 心が激しく拒絶する。
 仕方がないことなのかもしれない。こうして、二人だけの時間を持てただけでも奇跡なのに。
 これ以上、何を望む?
 でも……
 アスランは頭を振った。
(……放したくない……)
 ただ、その言葉だけが何度も頭の中をこだました。
 
 
 翌朝、アスランが目覚めると、既にイザークがシャワーを使っている音が聞こえた。
 いつしか寝入っていたようだが、時間を見るとまだ早かった。
 まさか、そんなに早くディアッカが迎えに来るとも思えないが……と思ったとき、シャワー室のドアが開き、髪からまだ滴を垂らしながらイザークが姿を現した。
「ふん、やっと起きたか」
 イザークはベッドの上に身を起こしているアスランを見るなり、朝の挨拶とも思えぬような一言を浴びせた。
 アスランは苦笑した。
 イザークらしいといえば、いかにもイザークらしい『挨拶』だ。

「ああ、おはよう、イザーク」
 そうさりげなく挨拶を返すと、アスランは素早くデジタル時計に目を走らせた。
「……ディアッカ、いつ来るって?」
 イザークはタオルで髪を拭いていたが、アスランの問いかけに一瞬手を止めた。
 ちらりとアスランの方を見返す。

「……ああ、さっき『今起きたところだ』とメールしておいた。迎えは昼頃でいいと言っておいたから――つまり、その……」
 イザークはそこで、少し言葉を止めた。何となく照れくさいのか、間をあける。
「……ゆっくりして……いけるから」
 素早く言うと、再びタオルを頭にかけて髪を拭き始めた。
「そう……か……」
 アスランは一瞬唖然としていたが、ようやくその言葉の意味を理解するとふと微笑んだ。
(……すぐに、お別れってわけじゃないんだ……)
 まだ、時間はある。
 まだ……
 アスランの瞳がふと翳った。
 向こうで髪を乾かしているイザークを尻目に、そっとベッドから降りると、傍の椅子に掛けておいた自分の衣服を取る。そのついでのように、さりげなく服のポケットから小さなケースを取り出す。
 その中に入っているアンプルと何種類かのカプセル薬のセット。
 医療用と同時に防犯用も兼ねている。従っていろいろと厄介で危険な薬も常備しているのだが……。まさかこんなところで、これを使うことになるとは思いもしなかった。
 彼はまだ少し躊躇っていた。
 本当に……?
 ――いいのか、本当に……。
 自分でも自分のしようとしていることの是非の判断がつかない。
 しかし……。
 理性よりも、感情が先立った。
「アスラン!何してる。さっさとシャワー浴びて来い!」
 イザークの声を聞いた瞬間、彼の心は決まった。
 この声をまだしばらく聞いていたい。
 こいつと一緒にいたい……。
 放したくない。
 離れたくない。
 激しく、思いが渦巻いた。

 
 
 そして……
 ――数時間後。

 ホテルの部屋から、二人の姿は消えた。
 
                                          (To be continued...)


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