もういちど、きみを・・・ (5)





 エレカを宿舎につけた瞬間……ディアッカは脱力したように、ぐったりと運転席の背に頭をもたせた。
 体が鉛のように重く、しばらくはどうしてもそこから身を動かす気になれなかった。
(俺は――馬鹿だ……)
 ディアッカは暗い車内の中で、ふっと自嘲めいた笑みをこぼした。
 我ながら、自分のやっていることがあまりにも滑稽に思えて仕方ない。本当に……道化もここまでくると、滑稽を通り越して、もはや底抜けの馬鹿としか言いようがないだろう。
(……明日の朝、ホテルへ迎えに行ってやるから)
 あんな台詞を吐いて、退散するしかなかったとは……。
 ディアッカの両手はいつしか固い拳をつくっていた。
 あんなに大切に培ってきたものが……
 2年もかかって、ようやく……ようやく手に入れたかと思ったのに、それがまた――
 ほんの数時間であんなにも簡単に、全てが振り出しに戻ってしまうなんて……。
 ディアッカの胸には次第に苦渋と腹立たしさが満ちてきた。
 認めたくなかった。全ては過去のものとなったはずなのに。2年前に終わってしまったはずのことだと……そう思っていたのに。
 なのに――
 アスラン・ザラの姿が目の前に現れた瞬間……。
 過去が、再び息を吹き返した。
 一瞬で、過去は『今』になった。
 ――くそっ、イザーク……!
 思わず拳をシートのへりに打ちつける。
(あいつは、まだアスランへの思いを捨て切れずにいる……)
 わかっていたはずのこととはいえ、実際に目の前であんな風にいとも簡単に攫っていかれると、やはり面白くない。
 追ってきた奴を振り切って、今夜はあのままイザークを連れ帰ってくるべきだったか。
 あそこでアスランに、あっさりとイザークを渡してしまったのは間違いだったのか。
 けど――
 ディアッカの目の奥に、まだ先程のイザークの表情が焼きついて離れない。
 アスランを見た瞬間の、あのきらきらとした瞳の輝きが……。自分を通り越していく視線が真っ直ぐに行き着く先。
 悲しいくらい、正直な感情の発露だった。
 あの瞬間……悔しいが、『負けた』と思った。だからあれ以上惨めな自分を晒したくなくて……。
 あっさりと引き下がったのは、半分は自分を守るためでもあった。
(何なんだよ、これは……)
 ――俺は、一体おまえの何だったんだよ。
 確かに『捕まえた』と思ったのに。
 この腕の中におまえがいる。――そんな確かな手応えを感じたはずだったのに。
(何でこうなっちまうんだよ……)
 何でおまえは、そんなにあいつの方へばっか、行っちまうんだよ……!
 悔しくて、腹立たしくて……でも、どうしようもなくて。――ディアッカはただ、何度も溜め息を吐き出すしかなかった。
 ――このまま、朝までここにいようか。
 動くのも億劫な体を座席にもたせたまま、そう思った。
 そして目を閉じると、もう本当にそのまま動けなくなってしまった。
 
 
 メールの遠い着信音が頭の奥に鈍く響き、ディアッカはふと目覚めた。
(……ん……?)
 朝の明るい光が眩くて開きかけた瞳を再び閉じる。
 頭がぼんやりして、自分のいる状況を把握するのに少し時間がかかったが、何とか我に返ると慌ててズボンのポケットを探った。
 身を捩るようにしてズボンの尻ポケットから、携帯電話を取り出す。目を細めながら、受信メールを見ると案の定イザークからだった。
「今起きた……ってか」
 メールの受信文を読み上げると、ディアッカはふっと笑った。
 ――じゃあ、おんなじだ。
 ただし、向こうはゆったりと、あの豪華なホテルの部屋にあるベッドの中で。
 そしてすぐ脇には恐らく、もう一人――寄り添う誰かがいて。
 そこまで想像すると、彼は軽く頭を振った。
(やめよう……)
 思い描くだけとはいえ、いきなり寝覚めが悪くなりそうな光景だった。
 なおもメールは続く。読み進むうちに、ディアッカはだんだん不愉快な気分になった。
 要するに、まだ迎えに来なくてもいいということだ。
(二人でいる時間を邪魔するなってか)
 頭の中にまた例の不穏な想像図が首を擡げた。
 『そんなに早く来るんじゃないぞ』と、遠回しに釘を刺されているような気もした。
 ――くそっ、大体何だ。電話使えばいいじゃねーか。
 いつもみたいに……。
 そう思うと、ディアッカは苛立った。
 いつもなら、すぐに電話で呼びつけるくせに。
 電話を使わないのは、朝からあまりにも艶を帯びた己の声を聞かせるのを避けるためだろうか。
 いっそ、こちらから電話で返してやろうか。
 そんな風に、意地悪く思ってみたり。
 しかし、実際にはディアッカの指はただ短く『了解』の一言を打ち返しただけだった。
 送信した途端、携帯電話は力の抜けた彼の手の間から滑り落ちた。それを拾い上げようともせず、ただ彼はきつく目を閉じ、再び座席の背に身をもたせた。
 ――くそっ……!
 ――くそっ、くそっ、くそっ……!
 何度も何度も胸の内で吐き捨てる。
 こんな思いのまま、あと数時間も待っていなければならないなんて……全く冗談じゃない。
 ディアッカは不意に頭を上げ、身を起こすと、エレカの扉を開けた。
 こんなところでじっとしていても、苛立つばかりだ。
 彼は外に出ると、思いっきり伸びをしながら、駐車場を後にした。
 もう少しマシなところで時間を潰した方がいい。
 しばらくは、イザークのことは考えないでいよう。
 本当にそうできるかどうかは正直自信がなかったが、取り敢えず何か全く別のことに集中することで、自分の頭をすっきりさせたかった。
(俺らしくねーけど、たまには銃でもぶっ放してみるか)
 久し振りに射撃場を使ってみるか、と考える。
 しかしその前に部屋に戻ってシャワーを浴び着替えて、朝食もとらねばならない。
 そんなこんなで昼まで何とか時間は過ぎていきそうった。
 そう頭の中で行動予定を整理すると、ディアッカは何とか気分を持ち直した。
 ――数時間後、まさか『そんなこと』が起こるとはさすがの彼もこのときは予想だにしなかった。
 
 
 ……頭の中がぼんやりしていた。
 気が付くと、瞼の向こうにこちらをじっと見つめている人の姿があった。
 紫紺の髪に、翡翠の瞳。うっすらと微笑を浮かべて手を伸ばしてくる彼。
(……アスラン……?)
 イザークは状況が把握できぬまま、身じろぎもせず、相手の指が頬を撫でるままに任せていた。
「……俺……は……?」
 ――一体、何がどうなって……?
 頭の中に靄がかかったように、全てが霞んで思考が上手く働かない。
(……確か……あのとき――)
 ――あのとき……。
 ホテルの部屋の中で朝食をとっている最中に、突然瞼が重くなって……
 体の自由がきかなくなった。
 声を出す間もなく……
 体が椅子から落ちて、床に沈んでいくのが僅かながらに感じられた。
 感じながらも、どうすることもできなかった。
(アス……ラ……ン……)
 その名を呼ぼうとしたのは、すぐ目の前に彼の顔が見えたような気がしたから。
 薄れゆく意識の中で、彼の腕が自分の体を抱き止めるのを、感じ取ったから。
 しかし、実際に唇が動いたかどうかはわからない。
 そんなことすらわからぬほど、彼の意識は急速にどこか遠い場所へと沈んでいこうとしていたのだ。
 そして……
 再び意識が戻ってこようとしている今……また、目の前にいるのは、彼。
 実際には、時間が経過していなかっただけなのかもしれない。意識が一瞬沈んで、また浮かび上がって。
 ただ、それだけのことだったのかもしれない。
 しかし。
 それなら、なぜ、自分は今こんな風にベッドの上に寝かされている?
 しかも……
 イザークはゆっくりと視線を天井から部屋を囲む空間全体へと走らせた。
 違う。
 『さっき』までいた、あの部屋ではない。
 ホテルのあの広々とした空間とは全く違う、この狭い簡素なつくりの部屋は……?
 一体自分は今、どこにいるのか。
 あれから、何が起こったのか。
 イザークは混乱した。
 しかも、体は妙に気だるく、動かそうとする手足の感覚が殆どといってよいほど、ない。
 何か強い衝撃を受けた後の後遺症のように、体の機能が全く働かなくなってしまっている。
「……ダメだ、急に体を動かしたら。息をゆっくり吸って吐いて、そう、少しずつ……」
 訳がわからぬまま、ただイザークの本能が機械的にアスランの指示に従っていた。
 アスランの腕が背に回り、自分の体がゆっくりと抱き起こされていくのがわかった。
「……こ……こは……?」
 僅かに震える唇をアスランの指先が軽く撫でる。
「……朝ご飯食べながら、気を失ったから」
 アスランの顔が近づいた。何事もなかったかのように、にっこりと微笑む。
「……ずっと目を覚まさなかったから、心配したよ」
 ――薬が効きすぎたかと思って。
 そうひそかに心の内で付け加える。
 朝食の飲み物に入れた睡眠剤は実際にかなり強いものだったようだ。あまりに慌てていたので、量を少し計り間違えた可能性もある。
 予想よりもずいぶん早く、イザークは意識不明となった。
 それからフロントに連絡して、ぐったりとした彼を車椅子に乗せ、いかにも紹介してもらった病院へ行くような振りをして、エレカを出した。
 思っていたよりも事は案外スムーズに運んだ。
 エレカの認識番号も表示もたやすく操作できた。
 これなら数日くらいは人の目をくらましておくことができそうだった。
 自分のしていることの愚かさは十分にわかっていたが、走り出した感情は止まらなかった。もはや止める意志もなかった。
 イザークをもう少し自分だけのものにしていたい。
 ただ、それだけだった。他のことは全く彼の頭にはなかったのだ。
「アスラン……貴様は……まさ……か……?」
 アスランの笑顔が、なぜかイザークの心を急速に冷やしていった。彼にはそのとき、不意に相手の暗い意図が全て理解できたような気がした。
(おまえが、やったんだな……つまり、貴様は俺を……)
 その先を考えるのが怖かった。
 イザークの不安げな表情を目の中に入れながらも、アスランは顔色一つ変えない。相変わらずその顔に浮かぶ悠然たる微笑。
「具合が良くなるまで、しばらく一緒にいよう。イザーク」
「……ってどういう――」
 文句を言おうとしたイザークの唇に、相手の唇が素早く触れた。
「ちょっ……やめろって……!」
 今はそんなことをしている場合じゃない。
 イザークは心を波立たせながら、迫ってくる相手を押しのけようともがいた。
 自分は今どこにいるのか。
 あれから今まで、どれくらい時間が経過したのか。
 そんなさまざまな疑問が一気に心に浮かび上がり、イザークは混乱した。
「イザーク!」
 アスランはイザークの顎をぐいっと掴み、無理に自分の前へ向かせた。
「逃げるな、イザーク!」
 命令するような強い語調にイザークはびくりと身を縮めた。
(あ……)
 震える唇からは、言い返す言葉が、何一つ出てこない。
 ――俺が、好きなんだろう。
 アスランの目が、真っ直ぐに突き刺さってくるかのようだった。否定を許さない、その強い光の刃が、イザークの全身を鋭く射抜いていく。
(好…きだ……)
 否定はしない。
 でも――
(ディアッカ……)
 ふと、これまでずっと――アスランとこの再会を果たすまで――常に傍から離れなかった彼の姿が脳裏に浮かんだ。
 アスランに会った瞬間、心が弾けてしまって、周囲のものが全く目に入らなくなってしまった。
 どうしても、心はアスランへと向かってしまう。
 あっという間に、ディアッカの存在が心の端から滑り落ちていった。
 あのとき――アスランが追いかけてきたあのとき、自分は無意識の内にディアッカからアスランを選んでいたのだから。
 そんな彼の心の動きが全て相手にはわかっていたのだろう。それがわかったからこそ、ディアッカは黙って去っていったのだ。
 表面的には、自分よりアスランを選んだイザークの意志を尊重した振りをして。しかし彼の本当の心の中はどんなだっただろう。
 彼は、イザークには何も言わなかった。恨み言や、責める言葉の一つすら……。
 イザークの胸の中に、どんどん後悔の念が湧き上がってくる。
(俺は、確かにおまえより先にアスランを選んでしまった)
……でも、おまえのことだって忘れたわけじゃない。今まで育んできた思いを手放したわけでもない。
 ディアッカの存在も、やはり自分にとっては大切なのだ。
 去っていくエレカ。
(……明日の朝、迎えに行く……)
 そして、最後のメールを受信したのは……
「……ディアッカ……」
 イザークの唇から不意にこぼれ落ちたその名に、アスランの目が一瞬不穏な光を放った。
「奴に……連絡……しないと――」
 今が一体いつなのか、時間の経過が全くわからなくなってしまっているが、少なくともディアッカの迎えに来る時間はとうに過ぎている筈だ。
 イザークはアスランの手を一瞬押しのけると、ベッドから身を滑らせた。床に足をつけたと思った瞬間、ぐらりと体が揺れた。
「……無理だよ、イザーク。まだ体から完全に薬が抜けてないんだから」
 アスランの声が背後から聞こえると同時に、再び後ろから羽交い絞めのように抱き締められた。
 ――く…すり…だと……?
 その言葉がイザークに軽い衝撃を与えた。
 やはり……と思いながら、彼は慄いた。アスランがしたこと。それを考えると、気分が悪くなりそうだった。
 ――アスラン……貴様、何のつもりで……?
「……貴様、やっぱり……」
 イザークは肩越しにアスランを睨みつけた。
「俺に、何か飲ませたんだな!」
 おかしいと思った。こんなに急に体が動かなくなるなんて。恐らくあのとき、朝食の中に入っていた何かが、自分の意識を失わせた直接の原因なのだろう。だから突然前後不覚になって、それで……。
「貴様は、自分のやっていることがどういうことかわかっているのか?こんな……」
「わかっているよ。『拉致監禁』……って言うんだろうな、こういうの。しかもザフト軍の一個小隊の隊長を、オーブ代表のボディーガードが、ね」
 遮るように素早く答えると、アスランはくすりと笑った。
「――外交問題に発展するかな」
 冗談のように言うアスランに、イザークはかっとなった。
「ば、馬鹿!そんなこと言ってる場合か!すぐに、ホテルへ戻るんだ。でないと、貴様は……」
「俺のこと、先に心配してくれるんだ」
 アスランはイザークの耳元に唇を近づけると、囁くように言う。暖かな吐息が首筋にかかると、艶かしい感触がイザークの全身を駆け抜けていった。
 イザークは一瞬あっと変な声を上げそうになって息を呑み込んだ。
 アスランの舌が耳を噛んだのだ。
「……ここが、イザークの感じる場所。……変わってないよな」
 舌がそのまま噛んだ箇所をゆっくりと舐め上げる。
「……くそっ、や、やめろ。この、変態が……ッ……!」
 言いながらも、相手の絶妙な愛撫にへなへなと身が崩折れていきそうだった。
「と、とにかく、こんなことは良くないッ!今すぐ、ここから――」
「――駄目だ」
 そう拒絶するアスランの冷たい声の響きに、イザークはぞくりと身が震えるのを感じた。
 有無を言わせぬ錐のように鋭い一言。
 それは――まさしく『所有者』の口調だった。
(いや……だ……)
 俺は、おまえの『所有物(もの)』じゃない。
 その瞬間、激しい忌避感に襲われた。
「俺を、放せよ……アスラン……」
 こんな風に俺を縛りつけようとするおまえは、好きじゃない。
 俺だって、おまえが好きだ。おまえと一緒にいたい。けど……
 それは、こんな風に一緒にいるってことじゃない。
「いやだ……」
 ――放さない。
 またあの不穏な暗い声が頭の中をこだました。
 アスランは身を捩って腕の中から離れていこうとする相手の体を強い力で締めつけると、再びイザークをベッドの上へ仰向けに押し倒した。
 捻るように両手を掴み上げ、頭の上で拘束すると暴れる下半身の上から自分の膝ごと乗りかかり、全体重をかけてシーツの上へ押しつけた。
 ただでさえ薬の影響が残って動きの鈍くなった体は簡単にアスランの体の下に組み敷かれた。
「………………!」
 声も出せぬまま、ただ驚きに見開く青い瞳を前に、アスランは苦しげに目を細めた。
「……ごめん、イザーク」
 俺だって、こんなことしたくない。
 でも……
 かちり、と鈍い金属音が響いた。
 冷たい金属の感触が両手首をなぞった。
「……アスラン……ッ!」
 アスラン、アスラン、アスラン……!
 やめろ、アスラン……!
 イザークは必死で叫んでいた。
 が、その懇願ももはや相手の耳には届いていなかった。
 
                                          (To be continued...)


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