もういちど、きみを・・・ (8) ――イザーク――ッ……! 風の唸りの谷間を縫って、自分の名を呼ぶ狂ったようなその叫び声が、どんどん遠ざかっていく。 あれは……誰の声だろう? アスランか……ディアッカか……? 変だな。どちらの声か、区別がつかないなんて…… 落ちていくその僅かな数瞬の間に、そんなことを考えている自分がおかしかった。 しかし―― 水面にぶつかった衝撃と押し寄せてきた海水に一気に呑み込まれて、イザークの意識は忽ち弾け飛んだ。 「イザーク――ッ!」 (あんの……馬鹿野郎ッ!) イザークが崖下へ落下していく姿を目にした瞬間、ディアッカの頭は真っ白になった。 ――何で……どうして……? 彼は混乱した。 しかしそれでも、体は自ずと動いていた。 (イザークを……!) ――あいつを……! ――早く……ッ……! 崖っぷちまでくると、下を覗き込む。 さあっと冷たい風が駆け上がった。イザークが落ちたあたりの水面にまだ漣が立っているのが見えた。 「イザーク――ッ!」 叫びながら、彼は上着を脱ぎ捨てると一瞬の躊躇いもなく、その急峻な崖から水面に向かって頭から飛び込んだ。 「ディアッカ、待てっ!――」 後ろから追いかけたアスランがそう声をかけたときには既にディアッカの姿はなかった。 下で大きな水音が聞こえ、水面から金色の頭が覗き見えた。 「くそッ……!」 アスランは舌打ちすると、自分もジャケットを脱ぎ、後に続いて飛び込んだ。 (イザーク……!) ――俺の、せいだ。 激しい水圧の衝撃に耐え、水中を潜りながら必死で銀色の頭を探す。 ――俺が……いや、俺たちが、あいつを追い詰めた。 激しい後悔の渦が胸をかき乱すようだった。 なぜ――どうして、あんなことをしてしまったのか。 こんなはずじゃなかった。 こんなことになるなんて…… まさか、こんな……こんな風にあいつを…… 崖から突き落とした見えない手……。 それは、もしかすると自分の手――だったのかもしれない。 さまざまな思いが胸を駆け巡る。 今はそんなことを考えている場合ではないと思いながらも……。 (イザーク……どこだ……?) 不意に、目の先の波間に金色と銀色の頭が見えた。 ディアッカが、沈み込んでいくイザークの体を必死で引き上げようとしている。 「ディアッカ!」 アスランは一気に水を掻き分けていった。 ディアッカの前へ回り込み、意識を失ったイザークの重い体を二人がかりで何とか水面上へ持ち上げた。 ようやく海岸までたどり着くと、ぐったりとしたイザークの体を砂の上に横たえるなり、ディアッカがその上に乗りかかった。 「くそッ……!イザーク、しっかりしろ!」 吐く息も荒いまま、必死で人工呼吸を施す。前髪からこぼれ落ちる海水の滴がぽたりぽたりとイザークの頬を打った。 しかし、呼吸はすぐには戻ってこない。 (イザーク……!) もどかしい思いに捉われながらも、アスランはただ傍で見守っているしかなかった。 じわりと恐怖が胸の内に広がっていく。 ――イザーク…… (何で……こんなことに……?) ほんの僅かな瞬間が、恐ろしく長く感じられる。 ――これは……全部俺がやったことなんだ。 そう思うと、胸が抉られるかのようだった。 (でも、俺は……) ――こんなつもりじゃなかった。 と言っても、言い訳にしか聞こえないだろう。 思いを抑えきれなくなって、イザークを無理矢理こんなところまで連れてきたのは、自分だ。そして、自分の思いばかり強引に押しつけて……こんな風に…… (……だから、こんなに俺はおまえから、離れられなくなる……) イザークの悲痛に満ちたあの声が再び脳裏にこだまする。 (……おまえたちは、ひどい) ――おまえたちが、俺を混乱させる。 あの、涙に濡れた瞳が、目の前に浮かぶ。 アスランは耐えられなくなって、思わず目を閉じた。 「……馬鹿野郎!くそッ、くそッ……!」 ディアッカは、今や泣きそうな声で毒づきながら、それでも人工呼吸を施す手を止めなかった。 イザークの体が断崖の下へ消えていったあの恐ろしい瞬間。 彼の頭の中は真っ白になった。 何もない。 ただ、瞬く銀色の光の残像だけが、目の奥を掠める。 しかし、それすらも、どんどん遠くなっていく……。 (駄目だ、行くな……!) 気が付くと、自然に体がその後を追っていた。 ――イザーク――! 冷たい水が呼吸を止めそうになるのも構わず、彼の瞳は一心に失った光を求め、探した。 そして、危うく潮流に呑まれていきそうになるイザークの体を必死で捕まえた。 (イザーク、イザーク、イザーク……!) 心の中で何度も狂おしく呼びかけた。 ――失ってたまるか。こんなことで。 おまえが…… おまえがいなくなったら、俺は…… 俺は、どうすればいい? 彼は、ただ怖かった。 数知れぬ戦闘に巻き込まれてきた中で、自分自身が死に直面したときでさえ、こんな風に感じたことはなかっただろう。 大切なものを失うかもしれないという、底知れぬ突き上げてくるようなこの恐怖感に全身を震わせながら、彼は手にかき抱く美しい生き物の姿に視線を落とした。 蒼白な面‥…そして、ぴくりとも動かないその閉ざされた瞼と唇に、彼は心底から慄いた。 ――イザーク…… まさか……ほんとに…… そんなことって、ありえねーよな? そんな…… そんな……こと…… どうにもできない自らの非力感に打ちひしがれずにおれなかった。 嫌な想像がどんどん膨れ上がっていく。 (……やめろよ。そんな……悪い冗談にも程がある……) 彼は全ての考えを振り払うように強く頭を振った。 ――そんなこと、ありえねー……! 目を開けろよ、イザーク。 おまえ、まさか……。 まさか、ほんとにこのまま……? 弱気が不意に首を擡げ、全身から力が抜け落ちていくようだった。 「――手を止めるな、ディアッカ!」 鋭い一声に、ディアッカはハッと我に返った。 一瞬見上げた目線が頭上から突き刺さるように落ちてくるアスランのそれとぶつかった。 「アス……」 アスランの目に映る激しい苦悶の表情に、彼は返す言葉を失った。 ――失いたくない……。 その気持ちに変わりはないのだ。 俺たちはどちらも……こいつを…… ――そうだ……俺たちはこんなにも、こいつを…… その瞬間、全てのわだかまりが消えた。 そうだ。俺たちは、おまえがいないと、駄目なんだ。 おまえがいないと……。 だから…… 帰ってきてくれ。俺たちのもとへ……。 (戻ってこいよ、イザーク……) イザーク……! 悲痛な叫びが胸を切り裂くようだった。 ――と、そのとき。 イザークの体が小さく震えた。 ぴくりと痙攣したかと思うと、突然彼は息を吹き返した。 頭上でアスランがハッと息を呑む音が聞こえた。 「……イザーク!」 (戻ってきた……!) アスランとディアッカが同時にイザークに手を伸ばしかけた。 その下で、不意に激しく咽びこみながら、イザークは飲み込んだ海水をごぼごぼと口から吐き出した。 「……う……っ……」 微かな呻きを洩らしながら、うっすらと開かれた瞼の下から、青い光が瞬いていた。 「イ……ザー……ク……」 ディアッカの口から安堵の吐息が漏れ、彼はイザークを抱き締めた。 手の中で、相手の確かな生命の鼓動が感じ取れた。 その瞬間、彼は泣きそうになっている自分に気付いた。 (バカ、こんなとこで泣くなよ……カッコ悪いじゃねーか。こんなの、オレらしくねー。……くそッ、いいか!絶対、泣くんじゃねーぞ……) そう思いながらも自ずと瞳が潤んでくるのがわかった。 ディアッカはこぼれそうになる涙を堪えるように強く瞳を閉じ、ただその心地よい脈動に意識を埋めた。 「ディアッカ……」 イザークの唇がほんの僅かに動いた。 力強い腕に抱かれながら、茫然とした瞳が虚空をさまよい……ふと見上げたとき、よく知る翡翠の瞳と合わさった。 「……イザーク」 アスランの瞳が優しく瞬いた。 こんなに穏やかで暖かな微笑が彼の顔に浮かぶのを今まで見たことがあったろうか。 イザークはそんな相手を不思議そうに見つめ返した。 吸い込まれそうな翡翠の色が、イザークを誘う。 差し伸べられた手に触れるように、ゆっくりと片手を持ち上げた。すぐに相手の手が自分の手を包み込むように優しく掴むのがわかった。 (アスラン……) 言おうとした言葉は、胸の内に消えていった。なぜか……その名を口に出すことができなかった。 ただ…… こうして手を握っているだけで――触れ合うこの手のぬくもりだけで、互いの思いが真っ直ぐに行き交うようだった。 これまでもどかしい思いを味わってきたのが嘘のように――今この瞬間、不思議なくらいはっきりと互いの気持ちが確認できる。 ――好きだ。 こんなにも…… 溢れる思いをどうにもできないくらい、愛しく思う。 傍に、いたい。 傍にいて、その存在を常に感じていたい。 ――好き……だ…… アスラン…… いや、アスランだけじゃない。 アスランも……そして、ディアッカも……。 アスランとディアッカを交互に見つめながら、イザークは軽く息を吐いた。 どちらかを選べと言われても、今の自分には無理だと思う。 だから…… 今はただ、自分の思いを素直に伝えるしかない。 俺の、この気持ちを。 どんなにおまえたちを、大切に思っているかということを。 アスラン……ディアッカ…… おまえたちのどちらにも傍にいて欲しいと思う俺は、我儘で自分勝手な人間なのだろうか。 おまえたちは、そんな俺を受け容れてくれるか……? まだ、好きだと言ってくれるだろうか……。 揺れる瞳の中に、抜けるように澄んだ空と海のあの清廉な青が映っていた。 (To be continued...) |